FC2ブログ

19年目の命日

2019年02月06日 18:30

家族3人と・・・

わたしの母は、
戦後、静岡県清水で幼稚園の保母をしておりました。

母は、
父親も元・教育者、兄たちも教育者という家庭で育ちました。

しかし、
清水に在った農林省の果樹試験場で研修中の父と知り合って、
昭和30年10月に結婚し、父の故郷・徳島の山間へ嫁ぎました。

試験場では、「静岡の女は嫁にもらうな」と謂れていたそうです。
温暖で美味い物があって昔から栄えていた土地である静岡、
そんな所で育った娘は寒く暑く貧しい土地ではやっていけない、
といった理由からだったそうです。

故郷に還って農林省の果樹試験場の技師として勤めた父でしたが、
昭和31年に私が生まれると、父は心機一転、開拓農民を目指します。

両親は、昭和33年開拓地を静岡県の浜松の三方原台地に決め入植します。
母にとって、徳島が決して合わなかった土地だったワケではありません。

むしろ、
父の両親はじめ、周りには生活と子育ての協力者が大勢いたのですから。

母にとって、
浜松での生活は、自分の実家に近いとは言え過酷なものだったと思います。

昭和33年5月に、浜松の北部に広がる三方原台地の都田という土地に入植し、
開拓農民となった母でしたが、わたしは一歳五ヶ月、妹は腹に入って三ヶ月でした。


母は、
開拓農民の妻として、昭和33年に原野からの1.5ヘクタールの第一次開墾、
昭和44年に山林からの約4ヘクタールの第二次開墾を成功させました。
そして、二男一女の母親として子育てをしました。

教師の家庭で七番目に生まれた母ですから、お嬢様育ちとは言えなくとも、
農家に生まれた人の素養は全く身につけていなかったであろうと思います。
ましてや、開拓農民として生きるということは全くの想定外であったでしょう。

しかし、父の親戚や周りの人々は口々に謂います。
「トシオさんの成功は、タカエさんがいなければ有り得なかった」 


晩年の母は、
五人の孫の成長を楽しみに見守りながら野菜を作って暮らしていましたが、
2000年(平成12年)、21世紀を見ることなく満70歳で亡くなりました。

きょう2月6日は、母の19年目の命日です。


スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://coachhide.blog73.fc2.com/tb.php/3748-41cc2eb2
    この記事へのトラックバック


    最新記事