光生軒にワンタンが無かったワケ

2017年05月31日 17:15

光生軒のシャッター

母校の門前に、
「光生軒」という中華料理のお店が在りました。

在りました・・・、過去形です。

いまでも店の看板はありますが、
3年前の夏に廃業し、シャッターは下りたままです。

光生軒

さて、

2年前の2015年2月、
1992年から長野県松本市で毎年夏に開催されている
サイトウ・キネン・フェスティバル松本(SKF)」が、
その年から、総監督小澤征爾さんの名を冠した
セイジ・オザワ 松本フェスティバル(OMF)」と名称を変えると発表されました。

サイトウ・キネン・フェスティバル松本」とは、
サイトウ・キネン・オーケストラ」が主体となって催してきたフェスティバルです。

その「サイトウ・キネン」のサイトウとは、
チェリストで指揮者で、なによりも音楽教育者であった、故・齋藤秀雄さんを指します。

その齋藤秀雄さんの没後10年にあたる1984年、弟子の小澤征爾さんと秋山和慶さんを中心に、
国内外で活躍する教え子たちが結集し「サイトウ・キネン・オーケストラ」は創られました。

しかし、マエストロ・オザワが80歳を迎えたことを機に、
フェスティバルの名称が変えられたのでした。


ところで、光生軒の話に戻りますが、
齋藤秀雄さんも小澤征爾さんや秋山和慶さんも、光生軒の常連でした。

なかでも、
齋藤秀雄さんは、オバサンが作る光生軒の料理がお気に入りで、
いっしょに香港に行って修行させてあげるとおっしゃるほどだったそうです。

また、
いまでは世界各地で活躍している音楽家たちの多くが、
学生時代から光生軒のラーメンやチャーハンを食べて過ごしました。

帰国した音楽家たちに訊くと、
「海外生活で一番食べたかったのは光生軒のラーメンとチャーハンだった」
と答えるという逸話があります。


とことろで、
齋藤秀雄さんは、1974年9月18日に病で亡くなりました。72歳でした。

しかし、
齋藤秀雄さんは、入院されてからも光生軒に来店されたのだそうです。

入院していたのは、中央区の聖路加国際病院ですが、
入院中に、お弟子さんに付き添われて計3回来店されたのだそうです。

「たしか、1回目はラーメンで、2回目はチャーハンだったと思う」
そうオバサンは憶えているそうですが、逆かもしれないそうです。

しかし、3回目に来店されたときに、
ワンタンを注文されたことはハッキリと憶えているそうです。

なぜなら、
そのワンタンに齋藤秀雄さんはほとんど手をつけずに帰られました。
そのとき既に、ワンタンを食べられないほど衰弱していたからでした。

オバサンは、その残ったどんぶりの中のワンタンを見て、
それから店でワンタンを出すのをやめました。

「齋藤先生にお出ししたワンタンを光生軒の最後のワンタンにした」のです。

齋藤秀雄さんが亡くなられたのは、それから程なくしてだったといいます。

だから、
わたしが学生だった頃、既に光生軒のメニューにワンタンはありませんでした。
ラーメンの横に記されていた「ワンタン350円」という字は消されたのでした。

「ワンタンは無いんですか?」という注文には、
「ワンタンは面倒くさいから、やってないんです」と応えていたそうですが、
光生軒にワンタンが無かったワケは、そういうことでした。

光生軒のワンタン


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