踏み絵

2017年01月15日 23:59

よく、「ばちが当たる」などということを申します。

「罰当たり」、「天罰が下る」、「因果応報」などとも申します。

反対に、
「ご利益があった」、「神様からのご褒美」、「天恵に浴する」
「神のご加護」、「神の祝福」などとも申します。

ところで、
わたくしなど多神教の国で育っておりますので、
“神も仏も”などと申しますが、一神教の“神様”だって、
そんなに、“罰(ばち)”を与えたり、“褒美”を与えたりするものでしょうか?


さて、
一昨日のブログ「沈黙」を書いてから、きょうも引きずっております。

遠藤周作さんの小説「沈黙」に描かれた物語は、史実がベースになっております。
幕府によってキリスト教が禁止され、キリシタンが弾圧された時代の物語です。

そこで、物語の重要なキーワードになるのが「踏み絵」なのであります。
キリシタンか否かを判別するためにキリストの偶像を踏ませることで、
信仰の有無を見極めるキリシタン狩りの手法であります。

信者であれば「キリスト像」を踏めないだろうというのは一般的な理解です。
しかし、所詮、踏み絵など偶像に過ぎない木や銅の板でありますが、
踏まなかったら殺されるのに踏まないのは、なにを怖れてのことでしょうか?

そのように殺されたり死んだりした人たちを「殉教者」と呼びますが、
踏み絵を踏んだら信者や殉教者ではなくなるのでしょうか?

それこそ、
小説「沈黙」の主題でありますが、そのような事態を前にしながら、
それでも主が、或いは神が“沈黙”しているのはなぜなのでしょう?
小説「沈黙」では主・イエスが沈黙を破りますが)


神も仏も、“ご利益”がないのであれば、
反対に“罰(ばち)”も当てないで、“沈黙”していてほしいものであります。

さて、
本当に神や仏が“ご利益”や“罰(ばち)”を人々に与えているのでしょうか?

わたしは、
“ご利益”や“罰(ばち)”は、神や仏が与えたもうたものではないと思います。
多分、人が自らに与えているものなのだろうと思います。

それは、
神や仏との「約束」があるからです。

旧約聖書や新約聖書の「約」というのは、「神との約束」の意味なのであります。
仏教においても、仏の教えを守ることが大事です。


聖書に書かれている「約束」を守ると決め、
仏の道を辿ると決めた人々が信仰するのですから、
神や仏との約束を守れなければ、自ら悔い改めるしかありません。
しかし、それによって「天罰を下される」こともないだろうと思います。

ですから、踏み絵なんか踏めばよかったのだと思います。
踏んだから天罰を下すような“神”なら、大したことはないハズです。

すべては、
“信仰”すること、“信じること”こそが“ご利益”そのものなのでしょう。



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