堪忍袋の緒が切れる

2016年10月29日 23:59

<独り言>

当節、ちと目に余り聞くに堪えないこと甚だしく、堪忍袋の緒が切れそうだ。

10月27日、
国連総会第1(軍縮)委員会が採択した核兵器禁止条約交渉の開始を求める決議案に、
我が国は反対した。

“唯一の被爆国”という日本独自の立場を顧みることなく、主張することなく、
アメリカ合衆国への配慮か、“核の傘”に守られてきた後ろめたさからなのか、
核兵器保有国と非保有国との“橋渡し役”などという偽善的な立場をとって、
訳アリ顔で反対理由を述べる厚顔無恥を世界に披露した。

この選択が、どれだけ被爆者を失望させることなのか、貶めることになるか、
どうして、判っていなかったのだろうか? いや、そもそも解っていないのだ。

被爆者を広島を長崎を裏切ろうと、沖縄を踏み躙ろうと、
それにも勝る国益があるのだと、本気で思っているからなのだ。

二十歳にも満たない純粋な若者たちを信じ込ませ、思いこませて、
敵に向かって自爆することを命じたときにも、若者の命にも勝る国益があると
本気で思っていたのと、基本的には同じだ。

全ての責任は天皇にあると、皇居で天皇に向かってパチンコ玉を撃った男がいたが、
むかしは、そんな極端な体験者が大勢いたのだが、いまや、その世代は絶えようとしている。

天皇の責任を問う者から、国体を護持しようとする者まで幅が広かった。
しかし、それらの人々のほとんどが死線をくぐった経験をした体験者たちだった。
抑留された者、特攻隊の生き残り、南方からの帰還者、空襲体験者、
それら一人ひとりの意見には、それだけの悲惨な体験が裏打ちされていたのだ。

パチンコ玉で狙われた昭和天皇も、27日に薨去された三笠宮崇仁親王殿下も、
“聖戦”や“正義”という言葉に粉飾された“戦争の実態”をよくご存じであった。
以来、天皇家の人々が国の安寧と国際平和に貢献されていることは周知だ。
相応しいかどうかは判らないが、ノーベル平和賞受賞にも該当すると思う。

そのノーベル賞(文学)がボブ・ディランに与えられることを世界の人々が称えるなら、
その世界の多くの国が採択した核兵器禁止条約交渉の開始を求める決議案に、
なぜ我が国が“反対”しなければならないのか・・・?

中国に行って経済援助を引き出し、我が国へ来て経済と軍事援助を貰って帰った、
かの国の大統領の二枚舌外交の方が、はるかに可愛らしい。


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