彰義隊発祥の地

2016年03月13日 23:59

参道

嘉永6年といいますから、1853年の「江戸切絵図」を見ますと、
雑司が谷鬼子母神堂法明寺の周りには、畑が広がっています。

まだこの時代には、雑司が谷霊園は在りません。
その一帯も畑でした。

雑司が谷霊園が造られたのは、
あちらこちらに勝手に墓を造ることなどを禁じた、明治7年になってからです。

つまり、雑司が谷霊園に眠っているのは、
基本的に、明治7年以降に亡くなった人ということになるのでしょうか?

鬼子母神像

さて、
きょうの散歩でご紹介するのは、鬼子母神堂の境内に在る石碑であります。
鬼子母神堂の右手、鬼子母神像の隣に在る石碑です。

「衆生の心水清ければ菩提の影中に現ず」と揮毫されています。

ところで、
嘉永6年(1853年)に存在したかどうかは判りませんが、
慶応4年(1868年)2月には、鬼子母神の参道に茗荷屋という居酒屋が在りました。
2月12日、その茗荷屋には徳川慶喜一橋家の家臣たちが集まっていました。

徳川慶喜が、大政奉還し、鳥羽伏見の戦いに敗れ、上野寛永寺に蟄居し、
慶応4年3月13日、江戸への総攻撃が中止され江戸無血開城が決まりました。

茗荷屋に集まった同志たちは、そんな徳川家の恭順姿勢に不満を爆発させていました。
当初、慶喜の警護や助命や復権が目的の筈が、やがて新政府軍へのテロに変わります。
武力衝突を懸念し、事態の沈静化を図った勝海舟山岡鉄舟らが解散を促しましたが、
「裏切者」呼ばわりして取りつく島もありません。

慶喜が水戸へ蟄居(「将軍江戸を去る」)してしまってからは、担ぐ神輿を欠いてしまい、
新政府軍に最後の抵抗戦を挑んで上野の山(上野戦争)で散ったのでした。

それが、彰義隊です。

彰義隊は、慶応4年2月12日に決起して、5月15日には鎮圧されました。
たった3ヶ月間の抵抗でありました。

同じ徳川慶喜の警護を担っていた山岡鉄舟でしたから、
彰義隊士たちとは、考え方の違いや行動の違いこそあれ、
隊士たちの想いを最もよく解っていたのもまた、山岡鉄舟だったのではないでしょうか?

だからこそ、
山岡鉄舟は、彰義隊の碑に揮毫を遺したのだと思います。

但し、その文言は、
隊士たちを顕彰しているのか、諭しているのか、読む人によって違うでしょう。

「衆生の心水清ければ菩提の影中に現ず」

彰義隊の碑


スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://coachhide.blog73.fc2.com/tb.php/2677-2006df60
    この記事へのトラックバック


    最新記事