「たつみ」のママの物語

2016年03月10日 17:45

たつみ

きょうも雑司が谷散歩です。

わたしが散歩する時間帯、「たつみ」はまだ閉まっています。
「たつみ」は、我が家がむかしから馴染みにしている飲み屋です。

きょうは、この「たつみ」のママとご家族の物語を記します。
何故きょうなのか、それは追々解ります。


ママのお父さんは、歌舞伎座の元・電気技師だったのだそうです。
むかしは、娘の店にやって来ては、カウンターの隅の席で、
お客の話に耳を傾けてニコニコしていましたが、
耳が遠かったので、話の内容は解っていなかったと思います。

野菜を作るのが趣味で、
東京に家や家族がありながら、田舎で独り暮らしをしていましたが、
12年前に99歳で亡くなりました。

7人の子供を育て上げ、
晩年は、子供の世話にならず悠々自適な独り暮らしの大往生でした。


さて、
ママの一家は、戦争中、墨田区の向島に住んでいたのだそうです。

昭和20年3月10日の東京大空襲のとき、
お父さんとお母さんは荷車に子供たちを乗せ、焔火の中を逃げ回ります。

当時子供は5人、眼の不自由なお祖母さんと甥っ子と奉公人、
そして夫婦の計10人。

言問橋までたどり着いて、橋を渡って浅草方面に逃げようとしましたが、
浅草方面から向島に逃げようとする人たちもいて、橋の上はごった返していました。

向島浅草も町中が焼け、それでもまだ焼夷弾が降ってきました。
火災旋風が起き、人にも燃え移っていました。

夫婦は、とても家族全員を連れて逃げられないと観念し、
隅田川の傍らの防空壕の縦穴を見つけ、そこに家族を入れ、
持ってきた布団全部を上から被せて、川の水を汲んで掛けました。

それが功を奏したのでしょう、家族全員が無事に助かったのでした。
言問橋を渡ろうとした多くの人たちは、火災旋風焼夷弾で亡くなりました。
一家といっしょに逃げた町内の皆さんは、全滅したのだそうです。
たった一晩で、約10万人の方々が亡くなったと謂われております。

木造の日本家屋を焼き払うために開発されたのが焼夷弾だそうですが、
それを作ったのが“人間の知恵”なら、
縦穴に家族を入れ布団を被せて水を掛けて守ったのも“人間の知恵”です。

それにしても、火災旋風が渦巻く東京大空襲の火焔地獄の中、
よくぞ、家族全員を守り抜いた夫婦がいたものです。
毎年3月10日には、思い出す物語であります。


そんなワケで、
きょうも「たつみ」は、夕方6時頃には開店します。



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