タケちゃん、お誕生日おめでとう。

2016年03月07日 17:45

タケちゃん

きょうは、これからタケちゃんのお誕生日会です。
3月7日だから、わたしが「みんな会」と名付けました。

タケちゃんは、
昭和26年(1951年)に、向島玉の井で産まれました。

タケちゃんが生まれた頃、
両親はアメヤ横丁で雑貨を商っていましたが、
後に、巣鴨の駅前で小料理屋を営んでおりました。
住まいは町屋に在りました。

タケちゃんが通った中学校は浅草吉原の裏手で、
樋口一葉が駄菓子屋をやっていた町に在りました。

中学時代は、お好み焼き屋に入り浸り、
元・サックス奏者の店の親父とジャズ談義。
ペレス・プラードナット・キングコールベンチャーズビートルズ
友達と聴いて過ごしました。

タケちゃんの高校は晴海に在りました。
学校の前には運河、向かいは月島
タケちゃんは、よく授業をさぼっては、月島のもんじゃ屋に入り浸っていました。

或る日、都の教育長が学校視察に来て、帰ろうとしたら傘がない。
教育長の傘は、立派な洋傘でした。
見れば、運河をもんじゃ屋帰りの教育長の洋傘が渡ってきました。
タケちゃんは、停学になりました。

タケちゃんは、落第して2年生を2回やりました。
「裏を返して、はじめて馴染みよ」と、タケちゃんはうそぶいていました。

タケちゃんは、フォークソング、陸上部、詩集、ジャズ研究会、落語研究会と、
八面六臂の活躍でした。

高校を卒業したタケちゃんは、
一旦、家業を継ぐために板前の道に入るのですが、突然役者を志します。

私が、演劇科に入学したときには、既に学生ではなかったタケちゃんですが、
わたしたちの前にしょっちゅう現れました。

学生サロンにも現れましたし、学園祭実行委員会室にも現れましたし、
稽古場にも、コンパにも、合宿にも、私のバイト先にも現れましたし、
私のアパートにもいましたし、私がつきあっていた女性の部屋にもいました。

タケちゃんは、伝説の人でした。

そのタケちゃんが、
最後に元気な姿を見せたのが、私たちの結婚披露宴でした。

私たちが結婚するキッカケをつくってくれたのも、タケちゃんでした。
会場に一番乗りでやって来て、楽しそうにヤジを飛ばしていました。

それから8ヶ月後、タケちゃんは入院しました。
手術をして回復するかと期待したのですが、トイレで転倒して意識不明になりました。
集中治療室の外の廊下は、タケちゃん危篤の報を知った人たちで埋め尽くされました。

その状態が、何日もつづきました。
病院からは、前代未聞だから集中治療室前の人たちをどうにかしてくれと云われました。
そこで、気が置けない友人たちが交代で、お母さんに付き添うことにしました。

5日目、タケちゃんの意識が戻りました。
しかし、見当識に障がいがありました。

翌日、一般病棟へ移れることになりました。
見当識が戻れば期待できると、医師からは云われていました。

その翌日、昼間からの付き添いを交代して、帰宅して風呂に入りました。
湯船でうつらうつらしていて、義母の「ヒデちゃんに電話よ」という声で目覚めました。

病院に飛んでゆき、病室のフロアーでエレベーターのドアが開くと、
そこにオサムちゃんが立っていて、「間に合わなかった・・」と云いました。

オサムちゃんは、タケちゃんと中学からの同級生ですが、
そのオサムちゃんも、その後タケちゃんのところへ逝きました。
その後、ヨッシーもタケちゃんのところへ逝きました。
もう一人逝ったら、あちらで麻雀ができます。


上野のお寺で行われた、タケちゃんのお通夜とお葬式は、
寺の床が抜けるんじゃないかと本気で心配したほど、
タケちゃんと遊んだ仲間や、芝居仲間や、タケちゃんが可愛がって育て、
タケちゃんに大きな影響を受けた教え子たちで一杯になりました。

その後、タケちゃんの看病をした中学や高校や大学の仲間が、
「タケちゃんも俺達と一緒に歳をとろうや」と言いだして、
毎年タケちゃんの誕生日に、お母さんを囲んで集まるようになりました。
それが「みんな会」です。

写真のなかのタケちゃんは41歳ですが、
タケちゃんは、ことし満65歳になりました。

タケちゃん、お誕生日おめでとう!



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