武士が士族になった時代

2016年02月23日 23:59

昨日は、
明治2年1869年、青木彌五右衛門(4代前のご先祖様)が士族仲間の切腹に際し、
介錯人を務めたというエピソードを書きました。

帯刀が許されていましたし、切腹もその介錯も、まだ可能な時代でした。


嘉永6年1853年6月3日の黒船来航から約15年の間、
鎖国開国か・・・、幕藩体制王政復古か・・、新政府軍旧幕府軍かで揉め、
慶応4年・明治元年1868年1月3日からの鳥羽伏見の戦いに始まり、
明治2年1869年5月18日に五稜郭落城で終わった函館戦争まで、
約1年半をかけた日本の動乱、戊辰戦争が終結しました。

旧幕府軍側で戦った人々は、
元15代徳川将軍・徳川慶喜公や、徳川家の16代当主・徳川家達公と共に、
静岡の地へ移住しましたが、家達公が静岡藩初代知事になると役割は終わり、
職を解かれた武士たちは、失業することになったのでした。

また、失業という意味では、新政府軍側で戦った人々も例外ではありませんでした。
新政府の仕事に登用された人々は、新政府軍・旧幕府軍共にいたのでありますが、
四民平等が謳われ、明治4年1871年の断髪令や、
明治9年1876年の秩禄処分帯刀禁止令などが下されますと、
武士(士族)のアイデンティティーが崩れ、目的意識や価値観は混乱しました。

新しい国創りにまい進できた者たちは良かったでしょうが、
仕事を得ず、目的を失ってしまった人たち、
武士(士族)のプライドを捨てきれない人たちも少なからずいたことでしょう。

明治10年1877年、そんな士族の鬱憤が爆発し、
士族の反乱である西南の役西南戦争)へと結びついたのでした。

青木家のご先祖様である青木彌五右衛門も、その一人息子・彌一郎も、
西南の役が起こる前に亡くなってしまいました。

青木家には、
彌五右衛門の妻・周(かね・41歳)と、11歳の娘・寿ゞという女性だけが遺されました。


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