介錯

2016年02月22日 23:59

昨日は、
青木彌五右衛門(4代前のご先祖様)が士族仲間の切腹に際し、
介錯人を務めたというエピソードについて書こうとして、
文章が長くなってしまったので中途半端で止めました。

そこで、
きょうは、そのつづきを書こうと思います。


ところで、
江戸から静岡に移住した徳川の家臣は1万3千人程度いたらしいのですが、
その一族郎党を含めると、当時の静岡の人口が数万人増えたことになります。

それだけの人たちが住む家がすぐに建ったワケもなく、
多くは、財力のある家の一隅を間借りして生活していたようであります。

青木彌五右衛門一家の場合もご多分に漏れず、
現在の静岡大学の西に在る部落の或る家に世話になっていたようです。

その部落には、
青木彌五右衛門と同じく元・精鋭隊士(後の新番組)のH一家が、
I 家に間借りして住んでいました。

慶応3年1867年、
将軍・徳川慶喜公が大政を奉還して江戸城から水戸に退く時に護衛した精鋭隊は、
徳川慶喜公や徳川家達公が静岡へ下るときには新番組と呼ばれていましたが、
徳川家達公が静岡藩知事となると使命を終え解散しました。
そして、大量の武士たちが失業することになったのでした。

明治2年1869年、皆が移住してすぐのことでした。

或る日の夜、Hが他家でもてなされた宴席の帰り道、
提灯を持って送ってきてくれた他家の奉公人を後ろから斬ってしまったのです。

翌日、村は大騒ぎになりました。
捕り方が、Hの住む I 家を包囲しました。

騒ぎを聞いて、青木彌五右衛門もおっとり刀で駆けつけました。
役人に状況を聴き、Hに会ってことの顛末と切腹する覚悟だと聴きました。

切腹は、その日の夕刻に近くの寺の墓地で行われることが決まりました。

切腹が決まると、
Hの妻は、夫の髪を結い上げ、装束に着替えさせ、水杯を交わし、
Hは、I 家の人々をはじめ、村の人々に世話になった礼と罪を詫び、
墓地に向かいました。

介錯人を務める青木彌五右衛門は、白鉢巻に白襷、袴の腿立ちを高く取り、
腰には備前某の作と謂われる二尺一寸五分(約65センチ)の刀を帯び、
沈痛な面持ちで控えていたといいます。

役人や村人が見守るなか、Hは敷具の上に正座し、
青木彌五右衛門は、Hの左斜め後ろに立ちました。
そして、水ぶるいした刀を構えて待ちます。

Hは、愛刀の鞘を静かにはらい、刀身に刃止めの白布を巻き、
右手で逆手に持ったその時、青木彌五右衛門が声を掛けました。

「まだ間合いがある」

暫くすると、Hが腹を一気に横一文字に切りました。
次の瞬間、青木彌五右衛門の二尺一寸五分が振り下ろされました。


それにしても、
何故、Hは人を殺めたのでしょう?
酒に酔っていたとはいえ、なにがそのような暴挙に走らせたのでしょうか?

生きる目的や張り合いを無くしていたのでしょうか?
生き方が判らなくなってしまっていたのでしょうか?

しかし、
Hは、自業自得とは云え、自らの罪を自ら認めて清く自ら腹を切りました。

村の人たちは、
「自得院大勇時守居士」という法名をつけて、手厚く祀ったといいます。


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