母方のルーツのまとめ

2016年02月24日 23:59

ここらで、一度まとめます。

これは、先日、遠縁にあたる清水のH寺のご住職から、
ご先祖様たちの資料を送ってもらったことがキッカケでした。

資料を読んだり、書籍を取り寄せて調べたりしているうちに、
ご先祖様たちが住んでいた本所(現在の錦糸町駅前)へ行ってみたり、
深川に在る深川不動堂へお参りしたりしました。

そして、このところ、そのことばかりをブログに書いています。
なぜいま、150年くらい前のご先祖たちのことが気になってしまうのか、
自分としても判りませんが、なんらかの理由があるのだろうと思っています。


わたしの母方の4代前に、青木彌五右衛門という人がいました。
嘉永5年の「江戸切絵図」には、「青木弥五右エ門」として載っています。
「あおきやごえもん」と読むのだと思います。

江戸時代、青木家は代々「御先手組」を務めていました。
主に江戸城の警備を担い、鉄砲の火薬の管理を司るお役だったようです。

それが幕末の慶応3年1867年、
徳川15代将軍・徳川慶喜公の護衛隊である「精鋭隊(後の新番組)」を命ぜられ、
やがて静岡まで随行し家族と共に移住しました。

静岡に移った後は、
久能山東照宮の警備を任としていたようであります。

しかし、病名は判りませんが、
妻と娘を遺し、明治8年(1875年)に病で死亡しています。
また、一人息子・青木彌一郎も明治6年(1873年)に亡くなっています。


わたしの母方の3代前には、高田察という人がいました。
「たかたあきら」と読みます。

元々は、鈴木家の5男として生まれましたが、
高田重平の娘と結婚して、高田家を継ぐために高田姓に変わりました。

高田家は、
代々将軍が乗る駕籠を担ぐ、六尺(陸尺)組頭を務めていたようですが、
高田察の先代のときに、お抱替となって御番屋改役に就きますが、
高田察の代になって、京都所司代見廻組の役を命ぜられます。

鳥羽伏見の戦いに始まった戊辰戦争の渦中を生き抜いた高田察もまた、
徳川家16代当主徳川家達公のお供をして静岡に移住しました。

移住した後の明治5年1872年、二人の幼子と妻がコレラに罹って亡くなり、
高田察は、静岡と山梨の境に在る徳間山で炭焼きをして暮らしていました。

しかし、その炭を大量に買ってくれる醤油醸造元の松崎屋源兵衛の薦めで、
青木彌五右衛門の娘・寿ゞ(すず)と結婚しましたが、
跡継ぎが絶えた青木家も継ぐことになり、母と娘を引き取ったのでした。

高田察と寿ゞは18歳違いでしたが、
寿ゞの母・周(かね)とは12歳しか違いませんでした。


以下、
これまでに書いた、わたしの母方のルーツに関するブログを列記します。
親戚で、ご先祖様の情報をまとめて読みたいと思っている者がいたときのためです。

<2009年>
5月18日「大事を小事の犠牲にしてはならない」

<2012年>
4月4日「むかし話」
4月5日「松崎屋」
4月6日「鈴木・高田・青木」
4月7日「曾祖母の教訓」

<2015年>
3月4日「6年前の伯父からのメール」
3月5日「醤油醸造元・松崎屋」

<2016年>
2月9日「本所深川界隈」
2月14日「徒や疎かには出来ぬ命、その1」
2月15日「徒や疎かには出来ぬ命、その2」
2月19日「錦糸町で途中下車」
2月20日「青木家のこと」
2月21日「切腹」
2月22日「介錯」
2月23日「武士が士族になった時代」

<興津・高田家のこと>
2012年7月12日「富士山の見えるところで育った女」
2013年3月14日「興津の伯母さん」
2013年4月20日「わが町」
2015年3月21日「ラムネさん」
2016年5月22日「日月めぐる」

<関連>
2012年7月15日「山岡鉄舟の縁」
2016年2月16日「徳川黎明会」
2016年2月17日「深川不動尊」



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