徒や疎かには出来ぬ命、その2

2016年02月15日 23:59

きのうのつづき、曽祖父の話の後編です。
わたしの母の、父方の祖父の話であります。

京都見廻組を仰せつかってから5年後、
戊辰戦争の渦中を生き延びた曽祖父は、
徳川家16代当主・徳川家達公の供をして、
明治2年1869年に静岡に移り住みました。

そのとき、曽祖父には妻と子どもが二人おりました。

ところが、明治5年1872年、
二人の子どもが、流行っていたコレラに罹り、相次いで亡くなります。
そして、妻も二児を亡くした悲しみに加えコレラを患って亡くなります。
曽祖父は、独りになってしまいました。

母の祖父
  <曾祖父、(天保11年1840年生まれ)>

さて、
静岡に移住した徳川家達公は初代・静岡藩主になりましたが、
そのお供をして移住した家来たちも多く、藩の財政は悪化します。

そこで、
静岡藩の後見役であった勝海舟山岡鉄舟は、
旧幕臣たちや一族郎党の生活の糧を考えなくてはなりませんでした。

二人は、生活の糧を得る方法を考案するとともに、
就労先の世話や資金援助や生活保護などにも尽力したと謂われます。

現在、茶の一大生産地となった牧之原台地の開墾事業も、
旧幕臣たちを救済するための事業であったと謂われています。

曽祖父の場合は、
静岡と山梨の境に在る徳間山で木炭を焼いて、
それを静岡や清水の商人に卸していたのだそうです。

周囲の人たちが後妻を娶ることを勧めても、
耳もかさずに働いていたのだそうです。

そんな曽祖父でしたが、
毎年、木炭を何百俵も買ってくれるお得意先の醤油醸造元の主人、
「松崎屋」の松崎屋源兵衛に縁談を勧められました。

松崎屋源兵衛という人は、
西郷隆盛山岡鉄舟が、江戸無血開城の下談判を行った家の主です。

その松崎屋源兵衛さんから曽祖父が縁談をもちかけられたときのことが、
わたしの祖父が最晩年に書き遺した資料に記してあります。
多分、祖父が両親から聴いたことを記したのだと思われます。

  母方の祖父
<祖父(明治21年1888年生まれ)>

【両親の結婚】より抜粋
松崎屋は、毎年父から木炭を何百俵と買入れてくれるお得意様であったし、個人的にも親しく交際して居たらしい。
十三年(明治)の正月、松崎屋を訪ねると、松崎屋夫妻が出てきて、「高田さん、よいところへお出でになった。私は折入って高田さんに話したい事があった。」
店でも困るから座敷へと案内して、「実は貴方も四十そこそこで、いつまで独り身でもいられまい。貴方に丁度よいお武家様のお嬢さんがある。年齢は二十五位で、母親と二人きりの生活で初縁である。母親も立派な方である。お嬢さんは苦労もなさったが実によいお嫁さんになる資質をお持ちだ。唯一、本人が結婚して母親を見捨てる訳にいかないので、最初から之れを頭に置いて話を進めなくてはならない事が困る訳だ」と話しかけられた。
父も八年間も独身生活をして慣れた様なものだが、仕事上大勢の人を使ってみると独身でも困る事が生じ心の中では後妻を求めていた時で、自分と仲よく互いに心や気性を知り合っている松崎屋さんからの話だから話を進めてもらった。


この記述にあるように、松崎屋源兵衛さんが云っているのは、
相手は武家の出の娘で、その母親も立派な方ではあるが、
娘本人は、結婚しても母親と別れては暮らせないのだということです。

曾祖母の家は曽祖父と同じく、
静岡に遷った元15代将軍・徳川慶喜公のお供で移住した家でしたが、
当主と息子が亡くなってしまい、母と娘二人だけが残った家だったのです。

結局、曽祖父は曾祖母と結婚して高田家に母娘を引き取ります。

つまり、
曾祖父は、前妻の高田家と後妻の青木家の両方を背負ったのでした。

そして後に、生まれた長男は青木家を継ぎ、
次男であったわたしの祖父が高田家を継ぎました。

曾祖父は、大正15年1926年1月6日に亡くなりました。
激動の時代を生き抜いた、85年の生涯でありました。

ことしは、曽祖父の没後90年ということになります。


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