徒や疎かには出来ぬ命、その1

2016年02月14日 23:59

曽祖父

曽祖父の写真が手に入りました。
この曽祖父は、わたしの母方の祖父の父親です。

曽祖父は、天保11年、1840年に江戸で生まれました。

曽祖父は、鈴木家の5男として生まれましたが、
高田家の娘と結婚することで高田家を継ぎました。

高田家の祖先は、高田弥惣左衛門と称し、8代将軍・徳川吉宗公の時代、
甲斐国高田庄、現在の山梨県西八代郡市川大門町高田の庄屋から出て、
六尺組頭になりました。

六尺組(陸尺)というのは、
将軍が乗る駕籠を担ぐ駕籠者(かごのもの)たちのことです。
高田家は、代々駕籠頭(六尺組頭)を務めていたようであります。

しかし、
曽祖父の先代のときに、お抱替となって御番屋改役に就きます。
いまでいう、ガードマンとか、S・P? といったところでしょうか?

そして、
曽祖父の代になって、京都所司代見廻組の役を命ぜられます。
元治元年(1864年)曽祖父が24歳になる年でありました。

京都見廻組というのは、幕府によって組織された京都の治安維持部隊です。
新選組と同じく、反幕府勢力を取り締まる、京都の治安維持活動に従事し、
坂本龍馬中岡慎太郎を暗殺した近江屋事件にも関わったと謂われています。

しかし、徳川幕府が天皇に大政奉還をしたあと、
鳥羽・伏見の戦いが起こり、江戸無血開城があり、
上野戦争会津戦争函館戦争とつづいた戦いは、
明治2年、1869年6月27日に榎本武揚らが降伏し、
約1年半つづいた戊辰戦争と謂われる内戦は終結しました。

京都見廻組時代から戊辰戦争の渦中を生き抜いた曽祖父は、
その年、徳川家16代当主徳川家達公のお供で静岡に移住しました。
曽祖父が29歳になる年のことであります。

それにしても、
反政府軍となり、朝敵と呼ばれた側に属しながら、
あの激動の時代を、よくぞ生き残ったものだと思います。

この曽祖父が、生き抜いてくれたからこそ、
多くの子孫や、このわたしが生まれてこられたのです。
そう思えば、徒や疎かには出来ぬ命であります。




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