12月14日は三波春夫を聴く

2015年12月14日 20:59

三波春夫

時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて
響くは山鹿流儀の陣太鼓、しかも一打ち二打ち三流れ、
思わずハッと立上り、耳を澄ませて太鼓を数え
「おう、正しく赤穂浪士の討ち入りじゃ」
助太刀するは此の時ぞ、もしやその中に
昼間別れたあのそば屋が居りわせぬか、
名前はなんと今一度、逢うて別れが告げたいものと、
けいこ襦袢に身を固め、段小倉の袴、
股立ち高く取り上げて、白綾たたんで
後ろ鉢巻眼のつる如く、なげしにかかるは先祖伝来、
俵弾正鍛えたる九尺の手槍を右の手に、
切戸を開けて一足表に踏み出せば、 天は幽暗地は凱々たる白雪を
蹴立てて行手は松坂町・・・・・・


ご存知、三波春夫「俵星玄蕃」の名調子であります。

わたしが高校生のころ、歌詞を憶えて歌っておりましたら、
友人たちが面白がってマネをしまして、寮のなかで、よく一緒に歌いました。
フォークソング全盛の時代でしたが、変わった高校生たちでありました。


ところで、
元禄14年3月14日に起きた江戸城松の廊下の刃傷に端を発した赤穂事件は、
赤穂四十七士によって翌年の12月14日に仇討?が成功しました。

後にこの物語は、「忠臣蔵」と謂われ、浮世絵になり、人形浄瑠璃歌舞伎で上演され、
講談浪曲で語られ、小説に書かれ、映画やテレビドラマで描かれつづけられるという、
日本人が大好きな物語になりました。

三波春夫さんは、「俵星玄蕃」を歌っているだけでなく、その作詞もなさっていますが、
忠臣蔵」を描いた様々なジャンルのなかでも、「俵星玄蕃」は、
近松門左衛門鶴屋南北の作品にも伍すると思います。

それにしても、
江戸城内で刃傷に及べば、切腹と藩の取り潰しは明白だったにもかかわらず、
赤穂の殿様は、なぜ刀を抜いたのでしょうか?
いまだに、そのことはナゾなのだそうであります。

しかし、敢えてモシ・タラ・レバを申せば、
モシ、松の廊下で殿様が吉良を殺していタラ・・、
将軍家が、喧嘩両成敗の裁定をしていレバ・・・、
赤穂藩の人たちは仇討を計画することもなかったでしょうし、
忠臣蔵」という物語もなかったでしょう。

モシかしタラ、
“仇討”とか“義士”というメンタリティーが日本人に植え付けられていなけレバ、
米・英に挑んだ、あの無謀な戦争を起こすこともなかったのかもしれません。

三波春夫さんの名調子を、
三波春夫さんのシベリア抑留体験と重ね合わせながら聴くと、
涙が止まらなくなります。


<三波春夫「俵星玄蕃」http://www.uta-net.com/movie/15475/>

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