父帰る

2015年06月02日 23:59

橋

父にとっては、何度目の郷帰りでしょうか?

きょうは、従妹のHちゃんの車に乗せてもらって、
父の兄妹で一人だけになってしまった叔母といっしょに、
父の実家の在る徳島県勝浦郡勝浦町にやってきました。

本家の伯父も、
Hちゃんの叔母が亡くなったのを追うように亡くなり、
本家には、伯母が独りで暮らしています。

墓参

ご先祖さまの眠るお墓に御参りしてから、
ご先祖さまが開拓して作ったみかん園で、
いまでは原生林に還ってしまっている山の方向を眺めました。

その後父は、幼馴染みが10人集まってくださった
父を囲む同窓会に参加させていただきまして、
80年も70年もまえの、幼いころの話に花を咲かせました。


父は、
旧制中学に入学した12歳の年に、寮で生活するために一度家を出ています。
この年の暮れに、あの太平洋戦争が始まりました。

久しぶりに実家へ帰省の折、
生活費に充てろと言われていた金で、母(わたしの祖母)に土産を買って帰りました。
その土産を見た母から「親に貰った金で孝行するな」と叱られたといいます。


昭和19年10月、父が15歳のとき、両親の反対を押し切って、
志願して予科練に入隊し、昭和20年兵長になって終戦を迎えました。

予科練に入るために、実家の前を流れる河に架かる橋を渡ったとき、
「二度と、この橋を渡ることはないだろう」と、“少年”は思ったのだそうです。

しかし、再び橋を渡って実家に帰りました。


昭和26年、
静岡県清水に在る農林省柑橘試験場に入場するために故郷を離れます。
果樹と柑橘の研究機関で、技師になる勉強をするためでした。

その清水で、父はわたしの母と出逢ったのでした。


父は母と結婚し、徳島の試験場の技師として働いていました。
そのときに、わたしは産まれたのでしたが、父は一念発起し、
公務員の立場を捨てて、開拓農民になる選択をしました。

技師の机上の空論に、農民は聴く耳をもたなかったからでした。
農業技術の普及は、自ら実証する方が早いと思ったのでした。

父は、
母と、まだ1歳のわたしと、お腹のなかにいた妹を連れて、
浜松の三方原台地の原野に入植しました。昭和33年のことです。


父の事業は、度々の困難な出来事にも遭いながら、成功しました。
少々大袈裟な言い方かもしれませんが、日本一のみかん農家を創りました。
その成功裏には、母の支えと働きがありました。
その母も、15年前に亡くなりました。

母が亡くなった直後から、父は大病を幾つも患い、
なんとか今年、86歳の誕生日を迎えることができました。

父は、これが最後の郷帰りだろうと申しました。

明日は、浜松に帰ります。

さて、
父が、再びあの橋を渡る日はあるのでしょうか?

父



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コメント

  1. 三浦 秀和 | URL | cwiuqksw

    Re:父帰る

    寺田克巳様

    いつも、息子をご贔屓にしてくださって、ありがとうございます。
    また、当ブログの拙文もお読みくださっているとのこと、恐縮です。
    さて、父がいた試験場と申しますのは、代々名称が変わっていますが、
    清水の興津に在った(現在も在りますが・・)農林省所管の柑橘試験場のことです。
    それから、父が開拓し産地化させたのは、三ヶ日ではなく、三方原台地の北側にある都田町川山という地域で、「丸浜みかん」というブランドです。
    父は、入植当時から組合の理事でしたが、組合長を何期かやり現在は弟が役員をやらせていただいています。静柑連のお役もやらせていただいていました。父は、日下敏雄と申します。
    父をご心配いただきまして、感謝申し上げます。


  2. 寺田 克巳 | URL | -

    Re:父帰る

    いつも興味深くブログを読ませてもらっています。お父さんが国立柑橘試験場を卒業し、三ケ日でみかんの生産に携わったこと。そして、現在も三ケ日にお住まいになっていること。お母さんも清水のご出身ですか?私は経済連に勤務していた時、経済連と静柑連の合併に携わり、その後、清水の事務所で柑橘の仕事を3年やりました。三ケ日農協にも何度かおじゃまし、すばらしい農協だと思っています。三ケ日にはみかんを愛する本当の農家がいます。ぜひ、お父さんを大事にしてやってください。

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