6年前の伯父からのメール

2015年03月05日 23:59

亡くなったわたしの母の兄にあたる伯父が、夫婦で品川区の大崎に住んでいます。

わたしの母方の祖父は、
1888年(明治21年)に生れ、1977年(昭和52年)に亡くなりました。
その時代からして長命なほうで、満89歳でした。
伯父も、ことし89歳になりますが、去年から入院しています。

その伯父が、
6年前に、私のブログを読んでメールを送ってくれたことがありました。

昨日、祖父が書き遺してくれた資料についてブログを書きながら、
その伯父が送ってくれたメールのことを思い出していました。
そのメールは、祖父の資料と、わたしの認識を補ってくれました。

メールは私信ですが、
歴史的にも価値のある文章なので、一部添削して載せようと思います。

尚、老婆心ながら、
この文章中の「父」とは、わたしの「祖父」のことです。
「祖父」というのは、わたしの「曽祖父」のことです。


祖父は、勝海舟山岡鉄舟榎本武揚と親交がありました。
幕末、祖父は京都所司代に居て、京都の警備に当たっていたそうです。
鳥羽・伏見の戦いにも参加しています。
徳川慶喜公が水戸に退いて謹慎し、田安家から家達が迎えられ、徳川本家16代を継いで駿河と遠江の2ヶ国と、陸奥の国の一部の70万石を領することになったとき、旧幕臣たちは朝廷の臣下となることを快しとせず、大半は徳川宗家16代当主徳川家達に従って、駿府へ御供をすることを願い出ました。
しかし、狭い駿府は家臣たちを収容できず、藤枝・金谷・遠州・横須賀・掛川・新居・小島・沼津に、家臣と家族を分散させ、農家を解放させて住まわせたのです。小島へは、200人余りの士族が割り当てられました。主な人は、林大學榎本武揚大鳥圭介などでしたが、祖父もその一人です。
士族たちは腰に大小を差し、徳川の旧幕臣であるという自惚れもあったと思います。
彼らは、家屋敷や財産を江戸に残してきましたから、生活は困窮して、明日の糧にも困る状態でした。
当時、祖父は28歳。困窮する士族たちを救うため、山岡鉄舟と図って士族に御倉米を払い下げ、五町歩余の土地も払い下げ、農業を営ませたり、竹林を開墾させたり、茶の栽培をさせました。
又、明治5年、山岡鉄舟勝海舟の援助も受けて小島陣屋跡に、土地の庄屋であった深澤方中と協力して学校を創りました。(注:深澤方中は、私のもう一人の祖父です)
祖父は、山岡鉄舟の友人でしたが、共に旧幕臣の救援にあたったのです。
清水次郎長山岡鉄舟の弟子にあたりますが、祖父の家に年始祝いに軍鶏をお土産に持ってきたと、父から聴いたことがあります。
まだまだありますが、今回はこれくらいにします。


これからも、伯父の話が聴けることを願っています。



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