伝説の人

2014年03月07日 18:00

タケちゃんは、
1951年、昭和26年3月7日、東京の玉の井で生まれました。
玉の井は、現在の墨田区向島です。

タケちゃんの父さんは、
アメ横で雑貨商を営んでいましたが、昭和33年に巣鴨にバーを開店させ、
後に「竹や婦」という居酒屋を、母さんと経営していました。

ジャズと映画の影響を受けて小学生時代を過ごし、
浅草の吉原の裏手に在った中学に通いましたが、
ジャズが好きで、レコードの鑑賞サークルを創る一方、
お好み焼き屋に入り浸っておりました。

志望した都立高校の試験に失敗して、他の都立高校に入学しました。
高校は晴海に在りましたが、運河の向こうには月島が在りました。

2年生の或る日、学校に教育長が視察に来ました。
教育長が視察を終えて帰ろうとしたとき、持参した洋傘がない。

すると、雨の中を洋傘が運河の向こうから渡ってきました。
授業を抜け出したタケちゃんが、もんじゃを食べに行った帰りでした。
翌朝、学校の玄関に「停学」という貼り紙が掲示されました。

或るときの試験に、安直な物理の問題が出ました。
それに憤ったタケちゃんは、白紙の答案用紙を提出し、
校庭に出て、運動場に大きく答えを書いて抗議しました。
つづけて、零点の答案用紙を、五輪音頭を歌いながら、
学校中に見せて回りました。

「裏を返して、はじめて馴染みよぉ!」と、うそぶいて、
そして、落第しました。

高校を卒業して、板前の修業をしていたタケちゃんでしたが、
突如、芝居をやると云いだし、現・桐朋芸術短期大学の演劇科を受験します。

試験直前に、知り合いの俳優座の俳優に1週間の猛特訓を受け合格。
1972年・昭和47年のことでした。

演劇科の記録に拠ると、タケちゃんの学籍は、
1978年・昭和53年までは確認できると謂いますから、
演劇科に、少なくとも7年間は在籍していたことになります。

したがって、
わたしが、入学したときにも、卒業するときにも在籍していたワケで、
それなのに、いっしょに授業を受けたことはありません。

それでも、神出鬼没のタケちゃんは、
学校に現われ、馴染みのお店にも現われ、合宿にも現われ、
わたしのアパートにも現われ、わたしの彼女のアパートにも、現われました。

研究会に顔を出したかと思えば、プロデュース公演をやり、
若い人たちを教えていたかと思えば、新派に出入りし、
「竹や婦」で働いているのかと思えば、アメ横で売り子をやっていました。

顔の広さは有名でしたし、手を出した女性は数知れず。

入院してからも、見舞い客は後を絶たず、
意識不明になったら、集中治療室の周りは人で埋め尽くされ、
教え子たちが集まって、目を真っ赤にして泣いていました。
こんなことは病院始まって以来だと、注意を受けました。
そこで、有志がローテーションを決めて、看病することにしました。

倒れてから5日目、奇跡的に意識が回復し、
6日目に一般病室に移ってもよいと云われました。

しかし、それから2日後、タケちゃんは旅立ちました。

葬儀は、上野の寺で行われましたが、
本堂の床が抜け落ちるのではないかと本気で心配したほど、
多くの人たちがお別れにやってきました。

通夜の台所では、
むかしタケちゃんとなにかあったか、つきあっていたであろう女性たちが、
甲斐甲斐しく立ち働き、うちのかみさんが彼女たちを仕切っておりました。

葬儀を終え、四十九日の法要、納骨、そして一周忌を終えたときだったと思います。
ダレが云い出したのか判りませんが、
「毎年、タケちゃんの誕生日会をやろう」ということになりました。

タケちゃんの母さんを囲んで、みんなといっしょに歳をとろうということです。
タケちゃんの誕生日は3月7日ですから、「みんな会」と呼ぶことにしました。

そして、
三回忌を終えたときだったと思います。
こんどは、タケちゃんの本を創ろうという話が出ました。
81の個人・団体が発起人に名を連ね、86名の方から文章が寄せられ、
172ページに及ぶタケちゃんの本は出版されたのでした。

斯くして、タケちゃんは“伝説の人”になったのでした。

きょうは、タケちゃんの63歳の誕生日です。
そして、「みんな会」は、20回目を数えます。

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