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言葉の暴力

2019年05月29日 12:58

わたしも、
ブログとフェイスブックを利用してSNSの受送信を楽しんでいる一人ですが、
近頃は、フェイスブックへの投稿を躊躇うようになりました。

フェイスブックには、
季節の移り変わりや孫の様子、拙い家庭料理を載せたりしておりました。
ときには、アフォリズムを意識した為政者や政権や社会への批判も認めました。

フェイスブックの場合にはリアルタイムに、
それらの投稿を“友達”の皆さんに共有していただきたいと思う動機があるのです。

しかし、
東池袋の交通事故が起きたあたりからでしょうか?

そのような痛ましい事故が起きているのに、
一方で、それ以外の日常について載せていることに躊躇ったのです。

そして、
大津、大阪、千葉と次々に痛ましい事故が起こりました。

それらの事故に心痛めている“友達”の人たちが多かろうときに、
孫や息子の結婚どころじゃないだろうなと思いつつ、1・2回投稿していましたが、
先輩と友人の闘病と、知人と後輩の死の報せを受け取ったあたりから意識し始め、
昨日の登戸の事件が起きてからは、フェイスブックを見るのも躊躇われます。


事故や事件が起きるたびに、SNSには多くの憤怒や怨嗟の言葉が飛び交い、
事件を起こした加害者とその家族に対する批判はとめどなく流れています。

その気持ちはよく理解はできるものの、その気持ちを発信することの意味は正直よく解りません。

SNSの発達によって、
言葉を選ばずに、より直接的に暴力的に匿名性をもって言葉を投げかけることが可能になりました。

わたしの或る友人は、靖国神社に参拝したことをフェイスブックに記した際に、
「あっちの世界の方々へ、戦のない世界に尽力して頂くようお願いしてきました」と書いたら、
「後世の私たちの為に戦って尊い命を落とされた方々に
“あっちの世界の方々”なんて言い方は余りにも失礼だと思います。」というコメントがあり、
そこまではよかったのですが、「投稿の文章を修正してください」という要求に進みました。

他人の投稿について感想や意見を表明するのは構わないでしょうが、意見や表現について
修正という変更を求めるのは行き過ぎていると思います。

わたしは、靖国神社に祀られている人々を“英霊”と呼びたくない人だっているでしょうし、
“あっちの世界の方々”とか“黄泉の国の人々”とか“高天原の皆さん”と言ったとしても、
だからといって、死者に対する尊崇の念がないとは思いません。

事程左様に、人の意見や表現に対してさえ、人の気持ちを考えずに意見・批判する傾向は、
SNSの手軽さゆえの問題でしょう。

それが、
ひとたび事件や事故を起こした加害者に対してとなれば堰を切ったような罵詈雑言となるのです。

気持ちは解かる。そういった気持ちは皆さんと同じように解るのです。
しかし、それを表明することで何が達成されるのでしょうか?

登戸事件の加害者と同じような衝動を抑えている人がいるとして、・・・いや居るでしょう。
その人に対するどのような抑止になるのでしょうか?

モチロン、登戸事件の加害者は亡くなっていますから動機や背景は判りません。
しかし、あれだけの短時間にあれだけの事件を起こした衝動のエネルギーは、
計り知れないほど大きいものだったことは間違いのないことでしょう。

それだけの衝動、それを起こさせるエネルギーはどこからきたものでしょうか?

加害者が、それだけ子供たちを恨んでいたとは考え難く、
それは社会の大人の身代わりだったのではないでしょうか?

だとすれば、
この世の中の大人の一人として、わたしにも死傷した子供たちと被害者に責任があります。

わたしに出来ることは、せめて暴力と言葉の暴力を使わないことくらいでしょうか。


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