最期のこと

2018年03月09日 10:37

「武志政幸の本」

先輩・武志政幸が、26年前に亡くなりました。

一昨日の3月7日、
毎年武志政幸の誕生日を祝う「みんな会」の日、
その日になると、毎年開いてみる「本」があります。


もう四半世紀が過ぎました。
そこで、3月7日からこのブログを書き始めたというワケです。
大変に長い文章ですが、武志政幸の記録として遺したいと思います。


武志政幸が、一時危篤に陥ったときには、
病院の回復室の前の廊下が人で埋め尽くされ、
交代交代で看病しているときには、「笑い声がウルサイ!」、
こんな患者は病院始まって以来だと病院から抗議を受け、
葬儀を行った寺の本堂は人・人・人で立錐の余地もなく、
本気で本堂の床が抜けるのではないかと心配しました。

その武志政幸の本を作ろうという話が挙がったのは、
一周忌を迎えたあたりからでした。

本にすることの是非やご家族への配慮、どんなコンセプトにするか、
喧々囂々の議論の結果、多くの友人・知人の「武志政幸」を、
網羅的に集めた文集にしようという案でまとまったのでした。

75人が「武志政幸」についての原稿を書いてくれました。
81の個人と団体が発起人になって資金をカンパしてくれました。

そして、
武志政幸が亡くなって2年後「武志政幸の本」は発行されたのでした。

下記は、その「武志政幸の本」に掲載されたわたしの文章です。
武志政幸の“最後(最期)”について記しています。



「最後のこと」  三浦 秀和 (旧姓・日下)

 私は、武志政幸の最後を書くことにする。大変である。なにせ一生の最後を書くのだから。タケちゃんだから笑って許してくれるなどというものではない。
 思えば何故このような事になったのか。武志の病気の事ではない、私がこれを書くような事になった訳である。私は武志の数多い知り合いの中で特別親しい訳でも近くにいた訳でもない。一言でいえば、たまたまいろいろな場面に居合わせたということになるだろうか。
 私が大学に入る前、初めて桐朋学園演劇科の公演を改築前の俳優座劇場に観に行った。その舞台に武志は居た。正確には私がその客席に居ただけなのだが。武志の芝居は印象的だった。恐らく武志一人だけが芝居するのを楽しんでいたのではなかったか。演出は千田是也と岩淵達治だったが、その場面だけ演出が無かったのではないかと思われる程、武志は自由に振る舞っていた。これが武志を見た最初だ。
 私の学生時代は、武志は近くに居た。これは明らかに武志の方が我々のところにやって来ていたのだ。武志はすでに学生ではなく、千田是也が主宰する「ブレヒトの会」に関係したり、二口剛(ふたくちつよし)と忠の仁、二人の芝居を演出したり、新派に出入りしたりしていたが、学生サロンや学園祭の実行委員会室によく顔を見せ、コンパや八ヶ岳の高原寮で行われた合宿に参加し、千田ゼミの公演の稽古場にも出入りしていた。私がアルバイトしていた「破羽巣」という店にも居たし、私のアパートにも居たし、私が付き合っていた人のアパートにも居た。私が卒業して何年か経って、後輩の男が自殺した。秋田に還る骨を見送った。その上野駅のホームにも武志は居た。それから何年かして、演劇科の恩師・永曽信夫が退職した。新宿の「銀座アスター」で有志が集まって謝恩会を行った。その日の三次会は三丁目の「あんこ」だった。久しぶりに武志と三浦庸子といっしょになった。武志は店と芝居をやっていた。三浦は男の子を二人育てていた。その夜、遅くまで三人で飲んだ。一年後、私と三浦庸子は結婚した。武志は、パーティーに一番乗りでやってきた。私や庸子が挨拶している最中も、大はしゃぎしていたのは、武志と庸子の息子たちだった。私が元気な武志と逢ったのは、それが最後になる。
 その年、1991年のクリスマス、武志が働いていたアメ横のタワラ物産に電話した。武志を忘年会に誘おうと思ったのだ。電話に出た武志は、年末店が忙しく朝も早いし、長いこと風邪をこじらせていて調子が悪いから、多分行けないと答えた。そんな状態でも確実に行かないと答えないのが武志だ。別に理由があるのかもしれないから、無理強いせず待つことにした。その電話の、同じ用件で二口剛にも電話した。その電話で二口から初めて武志の体の事を聴いた。「タケにみんな、休んで病院に行けって言うんだが、あいつそう言われるとむきになって怒るんだ。もしよかったらおまえからもタケになんか言ってやってくれよ」。みんなが言って聞く耳をもたないものを、私が言って聞く訳もないが、忘年会を予定していた12月27日の昼間、武志の様子を見にアメ横に行った。顔を出した理由を、スキーの合宿に行く息子たちを見送りに上野駅まで来たから寄ったと説明した。見送りは本当だったが、勿論顔を出した本当の理由は違う。その日からたくさん嘘をついてしまった。
 武志の顔は土気色だった。目は窪んで額や頬から肉が落ちていた。重大な事態であることはすぐに判った。ずっと一緒に働いてきた三浦芳和は怒っていた。「誰が何言っても聞かないよ」
 私は今ちょっと気づいた振りをして軽く「アレ、少し痩せたんじゃないの?風邪、早く診てもらったほうがいいよ」と言うと、大丈夫だと言って煙草に火をつけたが、断続している咳の様子からみて、無理をして煙草を吸ったのは明らかだった。それが証拠に二口か三口吸うと客の応対をする振りをして残りを捨てた。「ラッシャイ ラッシャイ ラッシャーイ」無理に張り上げた声が逆に力なかった。
 翌1992年2月2日、東京には前日から降った大雪が積もっていた。朝方4時04分、震度5の地震があった。その日武志から電話をもらった。留守番電話に「武志ですゥ、いろいろ心配かけましたけど入院しました」と入っていた。明るい声だった。
 2月10日、板橋区、愛誠病院。入院した病院は二口剛が教えてくれた。受付で部屋を訊ねると「きょう退院されました」と言われた。駄目で元々だから様子など訊いてみようと病棟のナースステーションを訪ねたら、退院したのは転院したからだと教えてくれた。転院先の病院は近かった。「ちょうどよかった、武志さん病室にこれ忘れてましたから渡していただけます?」と小さなラジオを預かった。
 帝京大学附属病院、本館8階827号室。エレベーターを降りると正面にナースステーション、そこを右手に進むと突き当りの部屋だった。入口に近い通路の右側のベットだった。窓からは遠いなと思った。
 武志はやはり痩せてはいたが、去年の暮れに会った時より顔色はいいように見えた。相変わらず咳は続いていて、話している間、何度もテッシュペーパーで痰をとった。吐血して病院に行く気になったのだと話した。レントゲンを撮ったら肺炎だと医者に言われて、愛誠病院でそれを治すつもりだったが、再びレントゲンを撮ったところ「食道のあたりに潰瘍が見つかった。胃と違って食道の場合は、薬ではなく手術したほうが治りが早い」というので設備の整った帝京大学附属病院に移ったのだと、武志は説明してくれた。肺炎が良くなったら食道切除の手術との事だった。自分の体の状態を把握しているという安心からかよく喋った。
 翌日は、蜜柑を持って庸子と病院に行った。「今は酒も煙草もいらねえな、甘いもんが食いたいんだ」と言った。「6月には仕事があんだよ」と言うので庸子が「仕事ってなんの仕事よ?」と訊くと「バカヤロー!芝居に決まってんだろ芝居に」・・・元気だ。
 2月23日、手術前日、絶食。
 2月24日、手術。
 2月29日、手術後初めて話す。体にたくさん管を付けている。「手術の痕を自分でまだ見てねえんだ」
 3月3日、水を飲める日が決まらないとこぼす。切除部分少し化膿。「すげーぞ、見てみるか?」と手術の痕を見せようとする。
 3月13日、まだ水・食事共に許可が下りない。切除部分が癒合しない。治ったら何が食べたいのか訊ねると、「トンカツだ」と言った。私が自分の事で愚痴をこぼしたら「そう言ってるうちが華だよ、俺みたいになっちまったらおしまいだ」と涙ぐんで吐き捨てた。言葉が無かった。
 4月3日、病院に向かう途中、帝京高校グランドの前を流れる水路の堤は満開の桜並木だった。見事だった。あとで武志を連れてこようと思った。しかし、どんなに誘っても武志はその気になってくれなかった。もう6週間水も飲めずにいるのだ。栄養は高カロリーの点滴だけに頼っていた。何度も検査が繰り返され、その度に、今度は水が飲めるか、なにか食べられるか期待していたのだろうが、その期待は裏切られ続けた。手術した内部がまだ癒合していないのだ。頭を上げると右胸が痛む。起き上がるとフラつく。医師からも少し運動するように勧められた。しかし、車椅子での花見は結局実現しなかった。
 4月9日、武志倒れる。ひとりでトイレに行って倒れた。頭を打ったらしく包帯が巻かれていた。回復室で心電図モニターや酸素吸入装置に囲まれている。体のいろいろな部分が管とつながっている。心電図モニターの心拍数を見ると一応安定している。意識不明。
 4月10日、13時30分、看護婦が走って回復室に入る。発作。不整脈が現れた。モニター上の心電図の波形は乱れ心拍数も上がっている。身内を呼んでおくようにと医者が言う。数十分後少し安定するが、夕方になって再び発作。家族を始め沢山の知り合いが集まっている。21時30分発作、回復室の外の廊下は人で埋め尽くされている。今夜が越せるか・・・。
 朝になった。発作は治まってきた。だが予断は許されてはいない。その状態は三日続いて変化した。意識が戻ってきた。うす目を開けた。目で反応するようになった。
 4月14日、意識は明確になった。はっきり目を開けて周りを見る。口に酸素吸入器を押し込まれているので話すことは出来ないが、明らかに目は喋っていた。「俺はここでどうなってんだ?」
 4月15日、午前9時回診、医者から一般病室へ移ってもよいと言われた。大部屋の827号室から個室810号室へ荷物を移す。11時、武志回復室を出る。本当に回復したのだ。廊下で待っていた早川修司(魁三太郎)は、その時、なにか話しかけようとして、言葉にならない。
 810号室に入った武志に酸素テントが用意される。会話は出来るが六日間も気管内に人工呼吸器を挿入していたせいで、声は無声音だ。前歯は呼吸器を咬んでいたためか、上下とも浮きグラグラと動いて巧く喋れない。きょうは何日かと看護婦が訊ねると、4月9日と答える。排尿の管が外された。自力で尿を出さなくてはならない。水を欲しがるので固く絞ったガーゼで口を拭いてやると、それをスースーと吸った。少しでも水が入ったら危険なのだ。
 4月16日朝、医者から説明を受けた。「全体症状としては倒れた直後と同じ状態が続いていると考えられるので、意識が回復したのは不思議。ただいつあの状態が再発するか判らない」ということだった。9時20分、徹夜した三浦芳和が一度帰宅した。武志の声は戻ってきた。大声で叫びたいと言う。見当感覚が不十分のため、時間、場所のずれが生じている。逆らわず根気よく嫌がらない程度に状況を教える。11時15分、主任看護婦と見習い看護婦が武志の髭を剃ってくれた。気持ちがよかったのか、その後ウトウトする。12時、戻ってきた三浦芳和と私は交代する。
 4月17日朝、高田博、根本松男の話によると、武志は昨夜ほとんど眠っていない。疲労を訴えたので睡眠不足かと訊いたら「そういう事じゃない」と答えた。「俺ははらぺこ地獄に堕ちた」と言った。
 9時00分、回診。傷口のガーゼを取り替える。背中が痛いと訴えるので横を向かせて揉んでやると、私の手をとって揉み方を細かく指示する。
 9時30分、二口剛と杉田善司二人の名を呼んで指を二本たてながら「タバコ持ってない?」と要求する。二人は「禁煙してんだから、煙草の話はやめてくれ」と言ってごまかす。
 10時30分、母親に「家に帰ろうよ」と言い出す。
 13時00分、血圧測定、少し高い。
 13時30分、医者の話。「幻覚や幻想と現実の区別をつけるように。非現実的な話やごまかしは禁物。あくまで現実に引き戻してやることが大事。ただしその場合、空腹感も戻ってくることを覚悟しなければならない」医者たちは回復させて、なんとか食事させたいと思っているらしい。
 夕方、暑がって酸素テントを嫌がり、ついに出てしまった。指を指して盛んに何かを押せと言う。どうも足元にある入口の扉がエレベーターに見えているらしい。押せと言っているのはエレベーターのボタンだ。「もういいよ、いこうよ」と言い出した。何処へと訊くと「うえだよ上、だから押してくれよ。うえ行くんだよ、もういいよ」と繰り返した。私は医者の言葉を信じていた。なんとか何か食べられるようになるまで頑張ってもらいたい。私は武志の言うことを一つひとつ訂正していった。「タケちゃんここは8階だよ。前に居た部屋も8階。部屋を替わったの。よく見てみなよ、これはドアでしょ、エレベーターのボタンなんか無いじゃない」すると武志は呆れたように「まったくこの野郎、ぶん殴ってやりてえなぁ」と言った。そうなのだ、今にして思えば、恐らくあの時、武志の意識はハッキリしていたのだ。武志はここまでやった。これ以上なにを頑張れというのか。
 19時20分、私は佐藤治と交代して自宅に戻った。庸子は大岡啓子のコンサートに行って留守だ。啓子はその日までジャズシンガーだったのだ。以前武志が母とやっていた「竹や婦」という店を閉める前の日、私は庸子と啓子と三人でその店に行った。その時は啓子の結婚の話をした。武志も板場から出て来て話に加わったりした。啓子は結婚する。引退記念コンサートだ。庸子と一緒に行ったのは斎藤ひろみ、多分酔って帰って来るだろう。テレビで「フィールド・オブ・ドリームス」をやっていた。それを観て風呂に入った。湯舟の中で寝ていると電話が鳴った。義母が叫んだ。23時15分、電話は病院からだった。
 8階のエレベーターが開いた。23時37分、電話をくれた佐藤治が私を見て「あー間に合わなかった」と言った。2分遅かった。
 武志は病院の地下にある霊安室に移された。簡単な焼香台が用意された。むかし、ある通夜の席で武志に言われたことがある。「おまえは、葬式っていうと居るなぁ」まさかそう言った武志のこんな場面に自分が居ることになるとは思わなかった。
 庸子が、やはり少し酔って入って来た。


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