一足飛び

2017年10月19日 20:00

白樺

例年、
御会式が終わると、急激に寒さが増すものなのですが、
“寒さが増す”というより、一足飛びに“冬が来た”感じです。

隣家の白樺の葉はまだ青く、冷たい雨に濡れています。
山の紅葉も街路樹のイチョウ並木が色づくのもこれからです。


祭りのあとに、この雨と寒さは気が滅入ります。

だから・・・、

鍋


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喧噪

2017年10月18日 23:59

喧噪


ことしの喧噪も、通り過ぎてゆきました。




迷宮

2017年10月17日 22:17

ラビリンス

この季節、

此処、雑司が谷には、ラビリンスが現れます。

鉦や太鼓の囃子つき。



最期の年賀状

2017年10月16日 17:25

最期の年賀状

ことし届いた年賀状を整理していて見つけた、
ことし9月に亡くなった恩師から頂戴した年賀状。

風雲穏やかならず。

平和でありたい。

健康でありたい。

・・・。



グランドレディ

2017年10月15日 23:59

きょうは、
第5回「グランドレディフラコンペティション・イン東京」が、
浅草公会堂で行われました。

ナチュラルな美しさと、優雅な振る舞いや知性を兼ね備えた
40代以上のグランドレディと呼ばれる女性たちによるHULAコンペティションです。

そして、かみさんのハラウの生徒さんたちも出場したのでした。

どのハラウも、女性として、妻として、母として、人として生きてきて、
愛し、愛され、育んできた人生を、そこに集約するかの如く踊っている。
そんなHULAコンペティションでありました。

グランドレディーフラコンペティション イン東京2017

手酌

2017年10月14日 23:59

手酌

きょうは、土曜日。

その所為もあるでしょうが、
目当てにしていた店は、40人くらいの人が並んでいました。

その最後尾に並びましたら、
前の方が「わたしで最後だそうですよ」と教えてくれました。
その分野のランキングで、全国1位のお店です。

仕方がありませんから、
全国で10位以内にランキングされるお店に行ってみましたら、
「土曜日は夕方6時から」と張り紙がしてありました。

それならば、
慣れ親しんだ定番のお店にしようと行ってみますと、
5人ほど並んでいましたが、待つこと30分で入店できました。

そんな混み合ったお店で申し訳ないとは思ったのですが、
昼日中から生ビールをあおりまして、焼酎がなかったので、
久しぶりに日本酒を注文しました。モチロン、ぬる燗です。

それにしても、
料理を待つ間の酒というものは、食欲を増進させてくれます。

ところで、
酒が美味く飲めるという飲み方を、ご存知ですか?

・・・、手酌。


「ひ暮らし」

2017年10月13日 22:31

ひ暮らし

南池袋に、
GOCCHI'S(ゴッチス)」と「Bistro VOIRDEAUX(ボアドック)
という二つのお店が並んでいます。

両店ともオーナーシェフのAさんが経営するお店ですが、
まず、アメリカに住んでいる次男が帰国したときに、
お店に出入りして仲良くしていただいたのがキッカケでした。

次に、
次男といっしょにわたしたち夫婦が伺ったり、長男が伺って、
仲良くしていただくようになりました。

そして、
訊いてみれば、オーナーの前職の会社の経営者というのが、
わたしたち夫婦の知り合いのお兄さんだと判って驚きました。

そんなこんなで、家族全員が親しくしていただいているうちに、
お店のスタッフともお客同士でも、親しくなったり知り合ったり、
ご縁が拡がってゆくお店ですが、新店舗を開店させたというので、
きょうは、次男の親友を誘ってお祝いに行ってきました。

新しいお店の名は「ひ暮らし」
三浦家御用達のお店がまた増えました。

わたしは「その日暮らし」



お見舞い

2017年10月12日 16:35

リハビリ②

正直に言えば、躊躇っておりました。

ことしは、
6月に義父が亡くなり、8月に親しかった人が亡くなり、
9月には恩師が亡くなって、10月2日に実父が亡くなりました。

そのことを、
わたしがFacebookに掲げていましたので、多くの“友達”が、
それらの経緯をご存知ですが、先生も、そのお一人でした。

先生というのは、
わたしたち夫婦の母校・演劇科の恩師のお一人ですが、
舞台演出家で演劇評論家で元・演劇専門誌の編集長もなさった方です。

なにを躊躇ったのかと云えば、
先生の入院されている病院へ、お見舞いに行くことでした。

これだけ不幸(わたしは不幸とは思っていませんが)がつづきましたし、
亡くなった人たちと先生も同世代、昭和一桁です。

わたしがお見舞いに行くことが、
なにか“縁起がワルイ”ことをしているような気がしてしまったのでした。

リハビリ③

しかし、
既にお見舞いした後輩が、「先生が先輩のことを心配されていましたよ」
と教えてくれて、「先生は“縁起がワルイ”なんて気にされませんよ」と、
背中を押してくれました。

そこで、
遅ればせながら、きょうお見舞いに行って参りました。

すると、
やはり後輩の云うとおりで、わたしの膝を叩いて喜んでくださいまして、
わたしの心配は杞憂に終わりました。

16日(月)に退院と決まったとかで、
「リハビリしてるとこ見学してけよ」とおっしゃったので拝見しましたが、
驚異的な回復力です。

リハビリ①

確かに、
先生は“縁起がワルイ”ことを気になさるような方ではありません。
“演技がワルイ”ことは気になるようですが・・。



エノケンの誕生日

2017年10月11日 11:54

エノケソ一代記

きょう10月11日は、榎本健一の生誕日です。

といっても、
若い皆さんは、榎本健一という人をご存知でしょうか?
ご存知ないかもしれませんね。

榎本健一の愛称は「エノケン」。
戦後日本の喜劇王と謂われた人物です。

歌って踊って、レビュー劇団を旗揚げしたり、
コントも書いて演出してエノケン一座を旗揚げしたり、
数々の喜劇映画に主演したりした喜劇界の大スターです。

上の写真はお芝居のチラシですが、
エノケンが大好きでエノケンに憧れエノケンの偽者になった、
エノケソ(えのけそ)」を主人公にしたお芝居であります。

その「エノケソ」が憧れたエノケンは、
息子を亡くしたり、右足を失ったり、自殺未遂を起こしたり、
波乱万丈な人生を送った人でありましたが、
数々の不幸から何度も“復活”したことでも有名な人です。


復活を信じて

2017年10月10日 11:19

浅草寺お練り

言い古された言葉ですが、「舞台は生もの」です。

一日一日、一回一回が違います。
同じことをやっていても、全て同じではありません。

やりなおしはできませんし、再現することも出来ません。

したがって、
何らかの事故が起こる可能性も否定できませんが、
二度と、“繰り返さない”ことも可能なのです。


今朝、息子は早くに家を出ました。

お稽古があるのかと思ったら、
特別の稽古があるワケではないようですが、
多分、落ち着かないのでしょう。


さて、
まずは、事故を検証し原因を特定して、
再発防止策を構築することも大事でしょう。

しかし、もっと大事なのは、
舞台の危険を心配しながら観る観客のメンタリティーを、
如何に興奮させ楽しませるかだと思います。

それは、これまでにないチャレンジになるでしょうが、
作品を創ったご本人が、最も望んでいることでしょう。

もし、
ご本人が、チーム全員が、この難局を乗り超えられたとしたら、
次元を超えた感動を観客に味わっていただけることでしょう。

その感動のためなら、
どんな状態であっても力を発揮できるのが、役者というものです。

さて、
きょうの昼公演の幕が開いたころ合いです。


わたしは、復活を信じています。



蓋棺事定

2017年10月09日 17:33

昭和39年夏(満7歳)
<1964年(昭和39年)夏>


きょうは「体育の日

1964年(昭和39年)10月10日に行われた、
東京オリンピックの開会式が由来です。
(※2000年からは、10月の第2月曜日)

1964年10月のわたしは、満7歳でした。
(※12月に満8歳)


ことしは、
身内や身内のような人々がつづけて亡くなって、
慌ただしい日々がつづいておりましたので、
ゆっくり想い出したり偲ぶ時間がありませんでした。

きょうは、久しぶりに予定もなくボーッとしています。

6月21日に亡くなったむぅむぅ(義父)は昭和3年生まれ。
8月21日に亡くなった光生軒のおばさんは昭和5年。
9月2日に亡くなった恩師・永曾信夫先生も昭和5年。
10月2日に亡くなった実の父親は昭和4年生まれでした。

映画館経営と演劇の世界で生きたむぅむぅ。
中華料理店を切り盛りして生きたおばさん。
俳優養成を生涯の仕事とした永曾先生。
みかんを豊かさと平和の象徴と位置づけた父。

その仕事や生き方は違っても、共通していたのは、
昭和一桁生まれだったというだけではありません。
「絶対に戦争をしたら駄目だ」と言っていたことです。

その言葉の重みを、直に聴いたわたしたち世代が、
後の世代に確実に伝えてゆかなくてはなりません。


この先、
ゆっくりと、一人ひとりを想い出して偲びたいと思います。

蓋棺事定
わたし自身の評価が下されるその日まで、まだ少し間がありそうですから。



東洋倫理概論

2017年10月08日 20:53

東洋倫理概論

実家の父の書棚から持ってきました。

安岡正篤著「東洋倫理概論」

15歳で予科練に志願し、16歳で兵長となって終戦を迎え、
無力感と敗戦の責任を痛感していた父にとって、
一燈照隅の如く、「いかに生くべきか」を訓えられた一冊。

故郷で、生き残った若者たちを集めて創った勉強会。
その仲間の寄付で東京の神田に探しにきた本が、この一冊。
焼き尽くされた東京の街と、地下通路に横たわる真っ黒な人々。
独りで生きている孤児たちの姿を目の当たりにした父でした。

父が友人の下宿を訪ねた折に、
父は、その家の主人の書棚にあったこの本を見つけました。
それがキッカケとなって話すうちに、その家の主人に見込まれ、
その家の娘と恋愛の末に結婚しました。

つまりは、
わたしが誕生するキッカケともなった一冊なのであります。

1949年(昭和24年)当時、
安岡正篤先生は公職追放の身であらましたが、
父は、安岡先生の日本農士学校の門を叩きました。

そのとき、父は安岡正篤先生の庵を夜中に一人訪ね、
直接「いかに生くべきか」と問うたことがあったのだそうです。

師曰く、
「君の人生のストーリーは、君自身で創ってゆくものだ。
従って、これから君の人生一日一日、一歩一歩を深くよく考えて歩いてゆきなさい。
将来、君が晩年に至ったときに、数十年間、考え、考え歩いてきた
その過去を振り返ってみて、そこに遺された自分の足跡が、君が今私に質問した
“人生如何に生きるべきか”の君自身が出した答えなのだ。
尚、道を踏み間違う事がないように、常に懐に本を持っていて参考にすることだよ」

父が生涯懐に持っていた本が、この一冊です。




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