光生軒との別れ

2017年08月31日 10:45

光生軒の別れ

「あんた、もういいわよ。恥ずかしいからさぁ・・・。
いつまでも引きずってないで、終わりにしなさいな」

そんなおばさんの声が聴こえてきたので、
きょうのブログで、一旦“光生軒の話題”から離れることにします。

そこで、
きょうは、これまでの経緯を記しておくことにしました。


8月2日、
光生軒のおばさんから、電話をもらいました。

食が細くなっていると聞いたので甘酒を贈ったことへの礼と、
むぅむぅ(義父)の事が一段落したら相談に乗る約束をしていたからです。

その電話で、数日前に高熱を出して体調を崩したことを初めて聴きました。
だから、約束を先延ばしにしてほしいと云うのでした。

8月4日夜、
おばさんが緊急入院したと、連絡が入りました。

おばさんから病院に連れて行ってと頼まれた人からでした。
「入院したことを日下(私の旧姓)クンに知らせて」と頼まれたのだそうです。

8月5日、
大学病院の高度治療病棟(HCU)におばさんを見舞いました。
案の定、「わざわざ来てくれなくてもよかったのに」と言いました。

主治医と担当医と親族とわたしで、カンファレンスを行いました。
おばさんの兄上や甥御さんなどが参加しました。

リウマチによる間質性肺炎の疑いが濃厚だという説明を受けました。
延命治療を行う必要が生じたときに、どのような判断をするか相談しました。


入院中も、
血中酸素濃度が落ちるから喋らないでと云っても、よく喋りました。
「じゃあ聴くだけにするから、あんた喋ってよ」と云って、話を聴いてくれました。
むぅむぅ(義父)の介護・看護の話。葬儀の話。納骨の話。
浜松の実家へ里帰りした話。浜松の父の話。わたしの家族の話。


8月17日朝6時50分、
病院の担当医から連絡をもらいました。
病院で担当医から説明を受けました。

8月18日14時、
主治医からの緩和ケアの提案を、ご親族が受け容れました。
緩和ケアが始まり、夜になってもまだわたしの声かけに応えてくれました。

8月21日未明、
1時12分、呼吸停止。1時18分、心停止。死亡診断、1時45分。

2時30分、主治医が治療の経緯を丁寧に説明してくれました。

5時、
主治医、研修医、看護師たちに見送られ、病院を後にしました。

おばさんの最期に立ち会ってくださった
看護師のSさんは、桐朋学園の中学・高校を卒業した方でした。


8月24日19時から、
ご親族と限られた者たちで、仙川町に在る斎場で通夜。

8月25日12時から、
葬送の儀、そして出棺。おばさんを乗せた車は、
光生軒と桐朋学園の前を通って火葬場に向かったのでした。


あしたから9月です。


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齋藤秀雄先生とワンタン

2017年08月30日 13:00

光生軒のワンタン

わたしが学生だった頃には、
既に光生軒のお品書きにワンタンはありませんでした。

「ラーメン350円」の横に記されていた
「ワンタン350円」という字は、白く消されていたのでした。

“その話”をおばさんから聴いたのは、ことしの5月のことでした。
40年間というつきあいのなかで、初めて聴いた話でした。

詳しくは↓
【1977年から2017年5月までの40年間のつきあいで初めて聴いた話】




店を閉めると言い出したころ

2017年08月29日 17:59

光生軒店内④

母校からの依頼で、
エクステンションの講座を請けもつことが決まった頃のブログですが、
その頃の光生軒の日常が描かれています。

「誕生日がきたら店を閉める・・・」なんて、言い出したのはこの頃ですが、
この年の9月の誕生日に閉店することはなく、2014年8月までつづけました。

わたしは、
「早くやめなよ!」とか、「もっとつづけてよ!」とか、一切言いませんでした。

しかし、
早くやめたいと云いながら、常連客からは「やめないでほしい」と云われて、
困っている様子ではありました。

結局、やめると言い出してから店を閉めるまでに4年半かかったワケです。


【2010年3月25日、閉店を口に出した頃の過去ブログ】


小澤さんと秋山さんと食べた光生軒のラーメン

2017年08月28日 23:59

劇団はえぎわの主宰者で劇作家で演出家で俳優のノゾエ征爾さん、
その父上は、わたしのちょいとした知り合いです。

その、ノゾエ征爾さんの“征爾”は、本名ですが、
小澤征爾さんのお名前から採ったのだと父上から聴きました。

5年前、そのノゾエ征爾さんのお芝居を三鷹で観た帰りに、
仙川の光生軒に寄ったことがありました。

その日は、
奇しくも、世界の小澤征爾さんと、日本指揮者協会会長の秋山和慶さんと、
光生軒のラーメンを食べた日になりました。

【5年前に小澤さんと秋山さんと同じ光生軒のラーメンを食べた日の過去ブログ】

オレのラーメンには、生タマゴが入ってたケドね。

光生軒と小澤さんと秋山さん


光生軒のフクロウ

2017年08月27日 18:30

光生軒のフクロウ

そもそも、
光生軒とは、どういうお店だったのか。
光生軒のおばさんは、どんな人だったのか。

今後、
少しずつ書かせていただこうと思っています。


さて、
光生軒には、フクロウの置物がたくさんあります。

誰とはなしに、
おばさんへの土産として買ってきた物です。

わたしも、
2~3個は、土産にしたと思います。

ですから、
各地、各国へ行った折りフクロウの置物を目にすると、
かみさんは、「フクロウがあるよ」と教えてくれました。

これからは、
フクロウの土産を買うこともないのでしょうが・・・。


【8年前に初めて光生軒が登場した過去ブログ】


月命日

2017年08月26日 18:09

むぅむぅ(義父)は、ことし6月21日、光生軒のおばさんは8月21日で、
かみさんの母方の祖母も8月21日でしたから、21日の月命日が重なりました。

むぅむぅのことを引きずっていましたら、
こんどは光生軒のおばさんも引きずることになりました。

しばらくは重いなぁ・・・。


【3年前の8月に閉店した光生軒についての過去ブログ】

光生軒閉店

光生軒のおばさんの訃報

2017年08月25日 19:30

【訃報】

ここに“光生軒のおばさん”と親しくなさっていらした皆様に、謹んでお報せいたします。

3年前の8月をもって閉店した仙川の桐朋学園の門前の中華料理店「光生軒」
元経営者・堀井貞子(ほりいていこ)さんは、
8月に入り三鷹の杏林大学付属病院に緊急入院しましたが、
8月21日1時45分、リウマチによる間質性肺炎のため亡くなられました。

短い看病期間ではありましたが、最期をお看取りさせていただきました。

満86歳、ことし9月のお誕生日を迎えられたら87歳になるところでした。

戒名・壽光妙貞大姉、
本日、葬送の儀と火葬の儀を諸事万端滞りなく相済ませました。

尚、ご親族の御意向で皆様にお報せするのが今になりましたことをお許しください。



初めてお店に入ったのが40年前、
長いおつきあいでした。

おばさん
たくさん話を聴いてくれて、ありがとう。
たくさんの美味い料理、ごちそうさまでした。

また、逢おうね。


あなたの“息子”より

光生軒只今準備中

似て非なるもの

2017年08月24日 19:00

ラーメン

きょうは、
このドンブリを使って、自宅で即席ラーメンを作って食べました。
少しでも美味く感じるかと思ってのことです。

写真に撮ればそれなりに写ってはいますが、似て非なるものです。

いまでは、
生めんもスープも具材も売っていますから、簡単に自宅でラーメンが作れます。

しかし、
材料のすべてを使ったワケではありませんが、材料費が600円近くかかりました。


それなのに、
3年前の8月をもって閉店した光生軒のラーメンは、むかしから350円でした。

「それでもやってけてるってことは、それなりに儲かってんのよ」
おばさんは、そう云っていました。

即席ラーメンと味を比べるのは、試すべくもないことですが、
350円の光生軒のラーメンは、世界が認めた一つ星のラーメンでした。

これからも、
光生軒のラーメン以上のラーメンには、わたしの人生で出逢わないと思います。


「修禅寺物語」

2017年08月23日 21:33

修禅寺物語

再び、
歌舞伎座「八月納涼歌舞伎」第二部を観ました。

ところで、
修禅寺物語」に登場する“修禅寺”は、
伊豆の“修善寺”に在る曹洞宗の寺の名です。

修禅寺物語」は、
修禅寺が所蔵する真二つに割れた能面を題材にして
岡本綺堂が描いた面作師・夜叉王の物語でありますが、
本当の名作とはなにかという“名人譚”であります。

であるからは、
その芝居を演じる一人一人の役者の力量と、
その芸の質と人間が問われる芝居であるはずです。


サルスベリ

2017年08月22日 23:59

さるすべり

サルスベリが咲いていました。

遠目から見て、
キョウチクトウ(夾竹桃)と間違えました。

サルスベリとキョウチクトウの違いは、
サルスベリは、その名の由来のとおり、
幹がすべすべ、ツルツルしています。

共に夏を代表するような花です。

サルスベリは、
長期間花が咲いていることから「百日紅」とも書きます。

キョウチクトウは、
美しい花を咲かせますが、毒をもつ木です。

考えてみれば、
病院の庭に相応しいのは、サルスベリでしょうね。

「桜の森の満開の下」

2017年08月21日 23:59

歌舞伎座

当時15歳だった少女は、その日の未明空襲に遭った上野駅に、
家族と共に降り立ちました。

東京大空襲に遭った上野駅によく汽車が着けたものですが、
家族は、祖母の葬儀のために秋田に行って帰ってきたのでした。

祖母が亡くならなければ、家族も空襲に遭ったでしょうから、
家族は、祖母に助けられたようなものです。

その上野駅から浅草を通って隅田川を吾妻橋から本所へ渡り、
延々と家に向かって歩いたのだといいます。

汽車を降りてから歩いた東京の街は、あらゆる建物が焼けて、
街中に焼死体が累々と折り重なって倒れ、隅田川には、
水を求めて亡くなった人々が、筏のように浮いていたそうです。


さて、
歌舞伎座「八月納涼歌舞伎」第3部を観ました。

第3部は、
坂口安吾 原作
野田秀樹 作・演出
野田版 「桜の森の満開の下(さくらのもりのまんかいのした)」


原作者の坂口安吾は、
戦争中であっても満開に咲いた上野の森の桜の花の散るなか、
累々と積み重ねられたご遺体が焼かれていく様子を、
桜の森の満開の下」の原風景としたと書いています。

東京大空襲に遭って重ねられて焼かれた人々と、
生き残って、戦後の東京の街を歩いた少女との間に、
どれほどの違いがあったでしょうか?


戦後72年、
そんな少女たちも、次第にいなくなっていく時代です。



乗車拒否

2017年08月20日 23:59

大した話題ではない。


きょう、
夜7時頃、タクシーを止めようとして、
10台以上のタクシーに乗車拒否された。

10台以上だったのだから、
つい見落としたのではないだろう。

なぜ、乗車拒否されたのだろうと考えた。

特別、拒否したくなるような荷物や恰好でもない。

前後にタクシー乗り場が在ったワケでもない。

立っていた場所がバスの停留所の傍だったので、
近くの駅までの客だと思って避けられたのかもしれない。

しかし、
向かう方向なのだから、タクシーにとっては、
好都合の乗客なんじゃないかとも思う。

何故に、乗車拒否?

バブル?


仕方がないから、
バスが来たので、バスに乗った。






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