映画「飢餓海峡」

2017年02月28日 18:17

1954年(昭和29年)9月26日、
台風15号の影響で起こった青函連絡船の洞爺丸事故(転覆・沈没)は、
死者・行方不明者合わせて1,155人の犠牲者を出した日本史上最大の海難事故です。

拠って後に洞爺丸台風と名付けられたこの台風の被害は、実は洞爺丸だけではなく、
他の青函連絡船4隻も沈没し洞爺丸を含め1,500人以上の死者・行方不明者を出し、
北海道岩内町では、町の8割約3,300戸を焼失する大火(岩内大火)も起きました。

この二つの出来事をモデルにした小説で思いつくのは、
なんと言っても、水上勉さんの「飢餓海峡」と、三浦綾子さんの「氷点」でしょう。


そこで、きょうの文芸坐三浦館が上映した映画は、
1965年(昭和40年)公開の東映映画「飢餓海峡」であります。

原作は、水上勉さんの小説「飢餓海峡」で、映画化・テレビドラマ化され、
文学座や、わたしが所属していた地人会でも舞台化された物語です。

洞爺丸事故が起きた洞爺丸台風は1954年(昭和29年)でしたが、
飢餓海峡」の物語の時代は1947年(昭和22年)の設定になっています。

戦後の混乱と貧しさと愛情と欲情といった世界観・人間観が表現されていますが、
それらをまとめるキーワードはと云えば、まさに“飢餓”でしょう。

「飢餓海峡」

さて、
この映画は内田吐夢監督作品です。

戦前の「人生劇場」、戦後の「大菩薩峠」や「宮本武蔵」シリーズなど撮った
映画創世記からの巨匠ですが、「飢餓海峡」は内田作品では珍しい現代劇です。

脚本は、映画「子育てごっこ」でも脚本を担当された鈴木尚之さんで、
内田吐夢監督と鈴木尚之さんは、「宮本武蔵」のシリーズでも組んでいます。

子育てごっこ」のプロデューサーだったむぅむぅ(義父)は、鈴木尚之さんとも親しくなりました。

その鈴木さんから内田吐夢監督の逸話として、
この「飢餓海峡」を撮ったときのことを詳しく聴いたことがあったのだそうです。

この映画の配役は、
三國連太郎伴淳三郎高倉健左幸子といった俳優が主たる役を演じていますが、
興味深いのは、当時喜劇役者として一世を風靡し喜劇界の大御所だった伴淳三郎さんを、
老刑事弓坂役で使い、自信を喪失させるまで内田監督が厳しく演技指導したことです。

内田監督が引き出したのは演技ではなく、自信を喪失しながらも執着する老刑事の姿でした。
内田監督は、当初から伴淳三郎という俳優の中にある能力を見抜いていたのだそうです。
その能力を本人に意識させずに引き出すために敢て厳しい演技指導を行ったのだそうです。

その甲斐があって?
伴淳三郎さんはこの弓坂刑事役で、毎日映画コンクール助演男優賞を受賞されたのでした。

しかし、わざと自信を喪失させるために衆人環視のなかで罵倒するなどという演技指導なんて、
むかしは映画でもあったのですね。

舞台の演出家でも、
俳優を罵倒しながら、当たらないようにコントロールよく灰皿を投げる名人がいました。

しかし、
そんな才能の引き出され方は、わたしなら嫌ですがね。
尤も、引き出される才能が、わたしにはありませんケド。




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「同胞」

2017年02月27日 17:51

「同胞」

文芸坐三浦館本日の上映は、
1975年10月公開の松竹映画、山田洋次監督の映画「同胞」です。

映画「同胞」は、「はらから」と読みます。

さて、この映画のなかには、3タイプの青年たちが登場します。

故郷を離れて東京で暮らそうとする青年。
演劇をやっている青年。

そして、
自分たちの住む地域を活性化させようと活動する青年たちです。


この映画が公開された1975年10月、わたしは新宿で働いていました。
その年の夏に演劇がやりたくて上京したばかりでした。

春に高校を卒業して、
家業であるみかん農家を継ぐために実家で働いていましたが、
夏に家を飛び出したのでした。家出したのです。

蒲田の新聞店に住み込みで新聞配達をしていた友人のところに転がり込んで、
1週間かけて寮つきの仕事を探し、就職を決めてから実家に戻りました。
両親は、そんなわたしをもう止めませんでした。

友人たちが心配してくれましたが、
わたしが元の生活に戻ることはないと分かると応援してくれました。
友人たちの多くが、青年団や消防団や3Hクラブの活動をしていました。

ですから、
この映画に登場する3タイプの青年たちを、自分と重ねて観た覚えがあります。

何度もなんども観ました。

寺尾聡さんや赤塚真人さんが演じる
青年団の若者たちが可笑しくも眩しく見えました。
それは故郷の友人たちを思い出させたからでした。





「午後の遺言状」

2017年02月26日 18:41

「午後の遺言状」

本日の文芸坐三浦館上映の映画は、
昨日につづいて、新藤兼人監督作品「午後の遺言状」であります。

午後の遺言状」は、1995年6月に公開されたフィクション映画ですが、
1995年度公開作品として、日本アカデミー賞、キネマ旬報ベスト・テン他、
各映画賞と映画各賞を受賞しました。

そんな、この映画の最大の魅力は、
公開当時89歳だった日本映画界・演劇界の名女優・杉村春子さんと、
闘病しながら撮影に臨み、公開を待たずして亡くなった乙羽信子さん、
そのお二人の共演でしょう。


むぅむぅ(義父)に、
「この映画のとき杉村さんは89歳、いまのお義父さんと同じ齢ですよ」と云うと、
「そうか!大したもんだね・・」と申しました。


さて、「午後の遺言状」は、
杉村春子さんをモデルにしたような設定のストーリーで、
杉村さんは老齢の大女優といった役どころであります。

その大女優が、山間に在る自分の別荘に避暑にやってきます。
その別荘を長年管理しているのが、乙羽信子さん演じる老女です。

映画のなかで、
大女優がチェーホフの「三人姉妹」のセリフを言う場面がありますが、
さながら、この映画自体がまるでチェーホフのストーリーのようです。

誰も避けることのできないのが“死”でありますが、
この映画の「テーマ」はと云えば、やはり“老いと死”でありましょう。

この映画が公開されたとき、
杉村春子さんは89歳でしたが、その2年後に亡くなられました。
杉村春子さんが亡くなられて、ことしで20年が経つわけです。

乙羽信子さんは公開を待たずに70年の生涯を終えていらっしゃいます。

そして、
公開当時83歳でいらした新藤兼人監督は、いまから5年前に、
満100歳のお誕生日を迎えられてから亡くなりました。


映画のなかで、
大女優(杉村)が、自分が死んだときに棺桶の釘を打つためにと、
河原で拾ってきた石を管理人(乙羽)に託して東京に帰ってゆきます。
その石を管理人が川に捨ててしまうシーンで映画は終わります。

それはまるで、
乙羽信子さんをはじめ、この映画に携わった人々の死ぬ覚悟、
翻ってそれは最期まで生きる覚悟を描いたように爽やかなシーンでした。


「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」

2017年02月25日 23:59

「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」

きょうの文芸坐三浦館の上映作品は、
新藤兼人監督作品「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」です。

1975年(昭和50年)に公開された、
近代映画協会製作・ATG配給のドキュメンタリー映画であります。

そのタイトルにあるように、
“ある映画監督”というのは、“溝口健二監督”を指すのであります。


ところで、映画にせよ、舞台演劇にせよ、
よく作品について語ったり、作品について探るというようなことがあります。

「この作品は、どういった意図をもって創られたのか」
「劇作家は、或いは演出家はなにが云いたかったのか」
というナンセンスな会話を芝居の帰りに居酒屋でする人がいますが、
映画にしても、舞台にしても“観たまま”を持ち帰ればよいワケでして、
意図や、なにが云いたかったのかを言葉で表せるくらいなら、
映画も芝居も創る必要はないワケなのでありますよ。

しかし、そのような試みは、
創った側がではなく、その多くは批評家も含めて観た側が行うものです。

ところが、
この「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」という映画は、
ドキュメンタリー映画とはいえ、本来創り手側であった新藤監督が、
溝口健二作品というよりも、溝口監督自身に焦点を当て、
その生涯を浮き彫りにしようとしているところが特徴的だと云えましょう。

いったい、溝口健二監督を師と仰ぐ新藤兼人監督は、
溝口監督のなにを明らかにしたかったのでしょう?


それにしても、
この映画のなかでインタビューを受けている39人の映画人たちの発言は、
溝口監督への興味もありますが、その人自身についても興味を引きます。

ところで、
むぅむぅ(義父)に訊くと、溝口作品はあまりスキじゃないのだそうです。
ですから、文芸坐三浦館では上映の予定がありません。


「人情紙風船」

2017年02月24日 18:00

「人情紙風船」

きょうの文芸坐三浦館の上映作品は、
山中貞雄監督作品「人情紙風船」です。

1937年(昭和12年)に公開された作品ですが、
山中貞雄監督作品で現存する3本の内の1本であります。

この映画が完成したとき山中監督に応召の赤紙が届きました。

そして、
映画が公開されて約1年後、山中貞雄監督は28歳の若さで
中国大陸北部の野戦病院で戦病死したのでした。

ですから、
この映画は若干27歳の監督が撮った作品ということになり、
その意味でも山中監督の才能が惜しまれるのであります。

先日も書きましたが、むぅむぅ(義父)と故・黒木和雄監督は、
山中監督の才能を惜しんで、1983年に、山中監督の菩提寺である
京都の大雄寺で第1回目の「山中忌」を主宰しました。

以来、毎年9月の休日に「山中忌」が催されるようになりました。
黒木監督が亡くなり、近年むぅむぅが出席できなくなっても、
毎年「山中忌」はつづいているというワケです。


出征した山中監督の手記には、
「紙風船が遺作とはチト、サビシイ・・・」と、書き遺してあったそうです。



「日本の夜と霧」の再上映

2017年02月23日 18:05

「日本の夜と霧」

きょうの文芸坐三浦館の上映作品は、むぅむぅ(義父)所縁の作品であります。

1960年(昭和35年)秋に公開された松竹映画ですが封切りの4日後に上映中止になりました。
表向きは興行成績が振るわないという理由でした。

確かに、
富士山の絵で始まる松竹映画を楽しみにしていた観客には不向きだったかもしれません。

それがキッカケとなって、その映画を撮った監督は松竹を退社しました。

ところが、
そんなお蔵入りした作品に目をつけて松竹に掛け合って3年後に再上映したのが人世坐でした。

その判断をしたのは経営者だったわたしの義理の祖父・三角寛だと謂われていますが、
実はその頃、三角寛と距離を置いていたむぅむぅが、当時の支配人に入れ知恵をしました。
その支配人の提案を三角寛が採用して、松竹を強引に説得して上映したというのが真相です。

但し、
三角寛が、支配人の提案を受け入れたのは、元・朝日新聞社会部記者として、
この映画は当たるという、三角寛独特の勘が働いたからだろうと、むぅむぅは云っています。

その甲斐あって上映は盛況で世間の注目を浴びました。
4週間の予定が5週間に延ばされ、途中から文芸坐でも同時上映されました。
31,000人の観客動員を果たし、京都・大阪・名古屋・福岡の再上映運動につながりました。

監督はそのことを生涯感謝してくれていました。


むぅむぅは、
日本の夜と霧は、大島渚の映画ではダントツ一位の傑作だよ。
あんな映画他に撮れる監督はいない!」と申しております。



「幕末太陽傳」

2017年02月22日 17:59

幕末太陽傳

昨日は、映画好きが高じて高校時代に人世坐のアルバイトでトイレ掃除までしていたという
Kさんが、むぅむぅ(義父)のお見舞いに来てくださったので文芸坐三浦館の上映はありませんでした。

しかし、
Kさんが後に邦画の配給成績第1位の映画のプロデューサーになり、
ハリウッド映画の製作総指揮をされたのですから映画好きは凄いです。


というワケで、
きょうの文芸坐三浦館の上映作品は1957年公開の日活映画、
川島雄三監督の「幕末太陽傳」です。

居残り佐平次」「三枚起請」「品川心中」「文七元結」「お見立て」など
古典落語を散りばめた、幕末の品川宿の遊郭を舞台に活躍する佐平治の物語。

主人公の佐平治を演じるフランキー堺さんのテンポのある芝居が巧い!
フランキー堺さんは、元・ジャズメンでドラマーだったのだそうですが、
才能のある人というものは、なにをやらせても巧みなんでしょう。
ドラマーもドラマもお上手であります。

そして、
ワキ役ながら貸本屋の金造を演じている小沢昭一さんの存在感!
この人も、なにをやらせても巧い俳優でありました。

むぅむぅ(義父)は昔、
小沢昭一・A級B級C級傑作映画大会」という企画を催したことがあります。

むぅむぅと、小沢昭一さん

このB級C級というのは、小沢昭一さんご本人の命名でありまして、
小沢さんが毎日舞台挨拶して上映するという趣向の映画大会だったようです。
むぅむぅや小沢さんにしてみたら、ABCの違いなどないのでありまして、
小沢昭一が出演したる映画はどれも“傑作”なのだ」と云いたかったのでしょう。

その映画大会初日に上映されたのが、本日上映の「幕末太陽傳」でありました。
映画の冒頭から加藤武さんのナレーションが醸し出すインテリジェンス!

フランキー堺さん、小沢昭一さん、加藤武さん、
このお三人は図らずも旧制麻布中学の同級生なんであります。

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小沢昭一さんのお葬式で弔辞を読まれた加藤武さんは、
「まだやりたいことはいっぱいあっただろう。俺もやりたいことが残っている。
それが終わったら、そっちに逝くので、待っていてちょうだいの心だぁ~」
・・・そう絶叫していたのでありました。



フジテレビ製作映画

2017年02月21日 18:59

「人斬り」

きょうは、
フジテレビ製作映画のプロデューサーだったKさんが、
むぅむぅ(義父)のお見舞いに来てくださいました。

Kさんは、高校生だった頃の人世坐に始まり、
大学時代も文芸坐でアルバイトをしていたという人です。

そしてKさんは、
大学を卒業して開局間もないフジテレビのアナウンサーになりますが、
フジテレビに出来た労働組合の委員として活動していますと、
労務担当者から「アナウンサーをやりたいなら組合を辞めろ」と迫られ、
「仲間を裏切れない」と自ら事業局への異動を願い出たのでした。

因みに、その当時フジテレビの労働組合の書記長をやっていたのは、
フジテレビ現会長の日枝久さんだったそうです。

しかし、結果的にはその異動が幸いして、
やがて、Kさんは映画製作に携わることになったのでした。

当時、
映画会社五社が頑なに映画製作を独占していた五社協定に食い込んで、
1969年(昭和44年)からフジテレビは映画製作を始めました。

フジテレビ製作映画第1作は、洒落ではありませんが
五社英雄監督の「御用金」でした。

Kさんは、
社員プロデューサーとして次々に映画製作を担当しました。

当初、テレビ業界を見下していた映画界にあっては、
テレビ屋が映画を創るのは、大変なご苦労だったようです。

しかし、
これまでの日本映画の実写映画部門(アニメを除く)で、
配給収入ベスト3の中で、1位と3位はKさんが担当した映画です。

フジテレビ製作映画の2作目は、
五社英雄監督作品の「人斬り」でした。

勝新太郎仲代達矢三島由紀夫石原裕次郎の競演が話題になった映画です。

Kさんとむぅむぅは、
勝さんと仲代さんの話題で盛り上がっていましたよ。


「宮本武蔵」

2017年02月20日 17:59

「宮本武蔵」

わたしが子供の頃、父から勧められて読んだ吉川英治の小説「宮本武蔵」、
うちの次男も相当に影響を受けたようで、いまでも読み返しているようです。

このように、
宮本武蔵のイメージの多くは吉川英治さんの小説が担っていると云えるでしょう。

さて、
きょうの文芸坐三浦館の上映作品は、1961年(昭和36年)公開の「宮本武蔵」。
吉川英治の小説「宮本武蔵」を原作としたシリーズ全5作の最初の作品です。

監督は内田吐夢、主演は中村錦之助(後の萬屋錦之助)ですが、脚本の鈴木尚之さんは、
むぃむぅ(義父)が製作した映画「子育てごっこ」の脚本も担当されました。

ところで、
小説では吉川英治さんが担っていたと云える宮本武蔵像でありますが、
俳優としては、この映画によって中村錦之助さんが担ったような気がします。

ところが、
三船敏郎さんも「宮本武蔵(1954年~1956年稲垣浩監督作品)」を演っています。

ことしは萬屋錦之助さんが亡くなって20年です。
そして、錦之助さんが亡くなったのと同じ年に三船敏郎さんも亡くなりました。

もっと云えば、
勝新太郎杉村春子西村晃伊丹十三といった人たちも亡くなっています。
戦後の東宝映画のほとんどを担当したプロデューサー田中友幸さんもこの年です。

1997年にこの国の映画界が失った宝ものの大きさに愕然とします。


「荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻」

2017年02月19日 17:59

「決闘鍵屋の辻」

わたしは、
日本映画界の戦後最大のスターは三船敏郎さんだと思っていますが、
三船敏郎と言えば黒澤明監督作品の常連俳優の一人です。

わたしは、
黒澤明監督作品のなかから、好みの映画を3本挙げろと言われたら、
迷わず「生きる」と「椿三十郎」を挙げるでしょう。

生きる」は、
42年前にわたしが初めて観た黒澤映画ですが、衝撃的でした。

椿三十郎」は、
文句なしにおもしろい、所謂“痛快時代劇”でありますが、
三船敏郎という俳優の魅力が存分に描かれていると思います。

しかし、
3本挙げろと言われたら、残り1本を迷います。

他に、
野良犬」「天国と地獄」「悪い奴ほどよく眠る」といった社会派ドラマ、
七人の侍」「隠し砦の三悪人」「用心棒」といった時代劇、
また小説や戯曲を原作とした「虎の尾を踏む男達」「羅生門」「どん底
蜘蛛巣城」など、これら好みの作品の中から選ぶのは酷なことです。


さて、前置きが長くなりました。

きょうの文芸坐三浦館の上映作品は、
1952年(昭和27年)公開の異色時代劇「荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻」です。

この作品は、三船敏郎主演で森一生監督作品ですが、脚本が黒澤明
黒澤監督が「七人の侍」をはじめとした時代劇を撮る前の映画ですから、
黒澤監督時代劇のリアリズムの原点になった作品かもしれません。

所謂、「鍵屋の辻の決闘」は、
曾我兄弟の仇討ち」と「赤穂浪士の討ち入り」と並ぶ日本三大仇討ち物語の一つです。

むかしから、歌舞伎や小説や映画で描かれる物語ですが、
決闘時に荒木又右衛門が行ったとされる伝説の36人斬りが有名であります。

その荒木又右衛門を演じているのは、我らが三船敏郎でありますが、
この映画の荒木又右衛門は、二人しか斬りません。それが史実だからです。

黒澤脚本はナレーションでこう云います。

「忠実な記録は、誇張された作り話よりも遥かに迫力がある。
これは、藁人形のような人間を36人斬るのと、ひとかどの人物を2人斬るのと、
どちらが大変なことか考えてみれば直ぐ分かる」


史実通りに、
仇討ちする側の心理を描写し、本当の“斬り合い”を再現しようとした黒澤脚本は、やがて、
七人の侍」の戦闘場面や、「用心棒」や「椿三十郎」の殺陣につながったのでしょう。

黒澤監督作品「椿三十郎」で、40秒で30人を斬る三船敏郎と、
二人しか斬っていないこの映画の三船敏郎と、
どちらが迫力があるか、比べてご覧になるのも一興かと思います。


「秋刀魚の味」

2017年02月18日 17:59

「秋刀魚の味」

きょうの文芸坐三浦館の上映作品は、
1962年(昭和37年)公開の「秋刀魚の味」ですが、
この映画が小津安二郎監督の遺作となりました。

1963年(昭和38年)12月12日は、
小津監督の60歳の誕生日ですがご命日です。


わたしは常々、
小津作品は“人生の秋”を描いていると思っています。

人生には誕生もあれば終末も必ずやってきます。
喜びと悲しみは表裏一体なのであります。

総じて小津作品の中年男性たちが淡々として淋しげであるのに対して、
老いも若きも女性たちが活々としているのも、なにか意図がありそうです。


映画の最後の場面、娘(岩下志麻)が嫁いだ夜、
長男夫婦(佐田啓二岡田茉莉子)がアパートに帰っていくと、
酔った父(笠智衆)に次男(三上真一郎)が云います。

「お父さん あんまり酒飲むなよ。 身体だいじにしてくれよな。 まだ死んじゃあこまるぜ」

秋刀魚の味」が公開されて約1年後、小津安二郎監督は亡くなりました。
その翌年に佐田啓二さんも亡くなりました。

小津監督が佐田さんの死の前に逝ったのは、せめてもの幸いだったかもしれません。





「彼岸花」

2017年02月17日 17:51

「彼岸花」

きょうの文芸坐三浦館の上映作品は、
1958年(昭和33年)公開の松竹大船作品「彼岸花」

小津安二郎監督作品で初めてのカラー映画であることと、
有馬稲子山本富士子久我美子の競演でも話題になった映画です。

自分の娘には厳しく頭の固い父親(佐分利信)と、
勝手に結婚相手を決めてしまった娘(有馬稲子)が織り成すホームコメディーです。

その結婚相手の役は、昨日上映した「喜びも悲しみも幾年月」の佐田啓二さん。

佐田啓二さんについては、少しだけ昨日のつづきですが、
佐田さんは、1957年、松竹大船撮影所の向かいに在った食堂「月ケ瀬」の看板娘
益子さんとと結婚し、中井貴惠さんと中井貴一さんというお子さんをもうけました。

その佐田さんご夫婦の結婚の御仲人が、
喜びも悲しみも幾年月」の木下惠介監督と小津安二郎監督だったのだそうです。
両監督は生涯独身だったといいますが、名監督二人が御仲人とは俳優冥利ですよね。

さて、
「彼岸花」に出演していらっしゃる有馬稲子さんとは、
はなれ瞽女おりん」公演、「越前竹人形」公演などで、
かみさんは共演し、わたしは制作者としてご一緒しました。

有馬さんの娘役もそうですが、
いまこんな頑固親父が登場するホームドラマを観ると隔世の感がありますなぁ・・・。




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