オキシトシン

2016年02月29日 23:59

猫

散歩コースは毎日変えますが、六地蔵尊の前を通ることがあります。
すると、いつもそこに現れる猫がおります。

ところで、
最近、犬より猫を飼う人が増えたのだそうであります。

高齢社会になって、
散歩が必要な犬よりも猫は手間がかからないから、
という説があるのだそうであります。

それから、
犬ブームに比べて猫ブームは、不景気になるという説もあるのだとか。

犬派は、アウトドアで外出するので消費に結びつくけれど、
猫派は、インドアなので消費に結びつき難いというのです。

しかし、
一方、猫ブームの経済効果を2.3兆円とする試算もあるようで、
それを「ネコノミクス」と呼ぶのだそうです。


それにしても、
猫にしても、犬にしても、人は何故その虜になるのでしょうか?

たぶん、オキシトシンが出るからでしょう。

オキシトシンは、“幸せホルモン”とも呼ばれる神経伝達物質ですが、
スキンシップすることによって、より分泌されるようです。

オキシトシンが分泌されると、闘争心が減少するようですし、
恐怖心が和らいで、安心感が生まれるのだそうであります。

それは本来、人と人、
男と女、親と子、ジイさんバアさんと孫というような関係において、
分泌されることの多かった“幸せホルモン”(神経伝達物質)ですが、
いまでは、猫に向かって放出されているということなんですね。



スポンサーサイト

雑司が谷の河津桜

2016年02月28日 23:59

河津桜

河津桜が咲いています。

河津桜は、静岡県賀茂郡河津町で発見された新種だったこともあり、
河津町の「河津桜まつり」が有名ですが、雑司が谷でも咲いてます。

道路に面した駐車場の敷地に一本の河津桜の樹が植えられています。
雑司が谷の河津桜(カワヅザクラ)です。

河津桜は、
大島桜(オオシマザクラ)と、寒緋桜(カンヒザクラ)の交雑種です。
早咲きの大島桜と、ピンク色の濃い寒緋桜の特徴を兼ね備えています。

「寒緋桜」は、「緋寒桜」ともいいますが、「彼岸桜」と間違えるので、
あえて「寒緋桜」と呼ぶようになったのだそうです。

河津桜を見上げていると、暖かい伊豆の温泉地に来たような気がします。


成瀬記念館

2016年02月27日 23:59

成瀬仁蔵記念館

散歩で、日本女子大の前を通ります。

暫し、歩を止めて学内を眺めますと、
日本女子大の門を入ってすぐ左側に「成瀬記念館」、右側に「成瀬記念講堂」が在ります。
日本女子大を創設した成瀬仁蔵先生を顕彰する施設です。

最近は、NHKの連続テレビ小説「あさが来た」の影響でしょう。
記念館を訪れたらしい一般の人たちと多くすれ違います。

現在、
「女子大学校創立の恩人―広岡浅子展」をやっているからです。


この広岡浅子女史は、嘉永2年1849年生まれ、
戊辰戦争が終結したときは、二十歳です。

わたしの祖父が生まれた明治21年1888年は、
広岡浅子女史が39歳になる年ですが、
彼女は、その年に銀行を設立しています。

一方、
成瀬仁蔵先生は、安政5年1858年生まれですから、
戊辰戦争が終わったときには11歳。
わたしの母方の祖父の母(曾祖母)・寿ゞ(すず)といっしょです。

広岡浅子女史も成瀬仁蔵先生も、
日本の女子高等教育機関(日本女子大)の創設に尽力されましたが、
それは取りも直さず、良妻賢母の価値観だけではない女性の社会進出と、
日本の女性の地位向上の道を拓く事業でもありました。

そういったお仕事を、
使命感をもって達成されたお二人の人生を羨ましく思います。

お二人は、
奇しくも大正8年1919年、同じ年に相次いで亡くなられました。


ところで、成瀬先生は、
歩きながら物事を考えるというお癖があったらしいのですよ。

やはり、
座してじっと考えるより、歩きながら考えることも有効なんでしょう。

散歩をつづけます。

成瀬仁蔵先生


香りを聞く

2016年02月26日 23:59

沈丁花

ウィルスや花粉を避けるためでしょうか、
街中でマスクをした人々が目立ちます。

わたしも花粉症がありますが、
散歩のときには、マスクをしません。

美味い空気を吸いたいと思うからであります。

さて、この時季歩いていると、
甘い香りを放つ花の香りが漂ってくることがあります。

「沈丁花」、ジンチョウゲとも、チンチョウゲとも読みます。

わたしが育った環境にも、
この沈丁花や、クチナシ、キンモクセイなどが咲いていました。
勿論、我が家の周りで、みかんの花も咲きました。

ところで、
人間の味覚・視覚・聴覚・触覚・嗅覚といった五感のなかでも、
嗅覚は、特に記憶や感情を強く呼び起こす作用がある謂われます。

わたしも、沈丁花の香りを嗅ぐと、或る記憶とイメージが蘇ります。

その人もまた、
何処かでこの香りを嗅いで、わたしのことを想い出しているでしょうか?

香道では、
香りを「嗅ぐ」のではなく、「聞く」と表現するのだそうですが、
沈丁花の香りから、春の音が聞こえたような気がします。



歩く

2016年02月25日 23:59

歩いています。

目標1日1万歩と申しますが、
目安として、1回で1万歩を歩くようにしています。

1万歩というのは、
時間にして約80~90分間、距離は6.5~7.0㎞程度です。

途中、やや速足で歩いたり、のんびり歩いたり、
ときには、花を愛でながら、バリエーションをつけて歩いています。

椿

ところで、
1日2万歩・3万歩を歩けば、より健康になるのかと云えば、
そんなことはありません。

しかし、
考えてみれば、汽車や車が無い時代は、歩いていたワケです。
駕籠や馬もあったでしょうが、基本的には歩いていました。

江戸の日本橋から京都の三条大橋までの距離は、約496kmあったそうです。
1日の歩行距離は、男姓で約10里(約40km)、女姓や老人で約8里(約32km)。
平均すれば36kmを歩いていたことになります。

高校生の頃、
小説「伊豆の踊子」のコースを独りで歩いたことがありますが、
修善寺駅前から天城峠を通って下田まで約50㎞の距離が約1日半かかりましたから、
やはり、そんなもんです。

そう考えると、昔の人々は生活の中でも、
黙々と歩いていた時間が長かったのではないかと思います。
誰と話をするでもなく、ただひたすら歩くことの多い生活です。
人生の時間の大半は、歩いていたことになるかもしれません。

歩くことが、生きていることそのものだったのかもしれません。
自らを省みながら歩いていると頭がシンプルになりますよね。

そして、
道中の神社仏閣や路傍のお地蔵様や道祖神様というのは、
足を止め、休憩したりする場所にもなったでしょうが、
祈りや感謝を捧げる対象でもあり、対話の相手でもあったでしょう。

自省と対話、歩くという行為は、歩くだけですが奥深いです。

ところで、
きょうは、歩いている途中で、「一言地蔵尊」の前を通りました。
“一言”、どんな願い事をしたかは、申しあげません。

一言地蔵尊



母方のルーツのまとめ

2016年02月24日 23:59

ここらで、一度まとめます。

これは、先日、遠縁にあたる清水のH寺のご住職から、
ご先祖様たちの資料を送ってもらったことがキッカケでした。

資料を読んだり、書籍を取り寄せて調べたりしているうちに、
ご先祖様たちが住んでいた本所(現在の錦糸町駅前)へ行ってみたり、
深川に在る深川不動堂へお参りしたりしました。

そして、このところ、そのことばかりをブログに書いています。
なぜいま、150年くらい前のご先祖たちのことが気になってしまうのか、
自分としても判りませんが、なんらかの理由があるのだろうと思っています。


わたしの母方の4代前に、青木彌五右衛門という人がいました。
嘉永5年の「江戸切絵図」には、「青木弥五右エ門」として載っています。
「あおきやごえもん」と読むのだと思います。

江戸時代、青木家は代々「御先手組」を務めていました。
主に江戸城の警備を担い、鉄砲の火薬の管理を司るお役だったようです。

それが幕末の慶応3年1867年、
徳川15代将軍・徳川慶喜公の護衛隊である「精鋭隊(後の新番組)」を命ぜられ、
やがて静岡まで随行し家族と共に移住しました。

静岡に移った後は、
久能山東照宮の警備を任としていたようであります。

しかし、病名は判りませんが、
妻と娘を遺し、明治8年(1875年)に病で死亡しています。
また、一人息子・青木彌一郎も明治6年(1873年)に亡くなっています。


わたしの母方の3代前には、高田察という人がいました。
「たかたあきら」と読みます。

元々は、鈴木家の5男として生まれましたが、
高田重平の娘と結婚して、高田家を継ぐために高田姓に変わりました。

高田家は、
代々将軍が乗る駕籠を担ぐ、六尺(陸尺)組頭を務めていたようですが、
高田察の先代のときに、お抱替となって御番屋改役に就きますが、
高田察の代になって、京都所司代見廻組の役を命ぜられます。

鳥羽伏見の戦いに始まった戊辰戦争の渦中を生き抜いた高田察もまた、
徳川家16代当主徳川家達公のお供をして静岡に移住しました。

移住した後の明治5年1872年、二人の幼子と妻がコレラに罹って亡くなり、
高田察は、静岡と山梨の境に在る徳間山で炭焼きをして暮らしていました。

しかし、その炭を大量に買ってくれる醤油醸造元の松崎屋源兵衛の薦めで、
青木彌五右衛門の娘・寿ゞ(すず)と結婚しましたが、
跡継ぎが絶えた青木家も継ぐことになり、母と娘を引き取ったのでした。

高田察と寿ゞは18歳違いでしたが、
寿ゞの母・周(かね)とは12歳しか違いませんでした。


以下、
これまでに書いた、わたしの母方のルーツに関するブログを列記します。
親戚で、ご先祖様の情報をまとめて読みたいと思っている者がいたときのためです。

<2009年>
5月18日「大事を小事の犠牲にしてはならない」

<2012年>
4月4日「むかし話」
4月5日「松崎屋」
4月6日「鈴木・高田・青木」
4月7日「曾祖母の教訓」

<2015年>
3月4日「6年前の伯父からのメール」
3月5日「醤油醸造元・松崎屋」

<2016年>
2月9日「本所深川界隈」
2月14日「徒や疎かには出来ぬ命、その1」
2月15日「徒や疎かには出来ぬ命、その2」
2月19日「錦糸町で途中下車」
2月20日「青木家のこと」
2月21日「切腹」
2月22日「介錯」
2月23日「武士が士族になった時代」

<興津・高田家のこと>
2012年7月12日「富士山の見えるところで育った女」
2013年3月14日「興津の伯母さん」
2013年4月20日「わが町」
2015年3月21日「ラムネさん」
2016年5月22日「日月めぐる」

<関連>
2012年7月15日「山岡鉄舟の縁」
2016年2月16日「徳川黎明会」
2016年2月17日「深川不動尊」



武士が士族になった時代

2016年02月23日 23:59

昨日は、
明治2年1869年、青木彌五右衛門(4代前のご先祖様)が士族仲間の切腹に際し、
介錯人を務めたというエピソードを書きました。

帯刀が許されていましたし、切腹もその介錯も、まだ可能な時代でした。


嘉永6年1853年6月3日の黒船来航から約15年の間、
鎖国開国か・・・、幕藩体制王政復古か・・、新政府軍旧幕府軍かで揉め、
慶応4年・明治元年1868年1月3日からの鳥羽伏見の戦いに始まり、
明治2年1869年5月18日に五稜郭落城で終わった函館戦争まで、
約1年半をかけた日本の動乱、戊辰戦争が終結しました。

旧幕府軍側で戦った人々は、
元15代徳川将軍・徳川慶喜公や、徳川家の16代当主・徳川家達公と共に、
静岡の地へ移住しましたが、家達公が静岡藩初代知事になると役割は終わり、
職を解かれた武士たちは、失業することになったのでした。

また、失業という意味では、新政府軍側で戦った人々も例外ではありませんでした。
新政府の仕事に登用された人々は、新政府軍・旧幕府軍共にいたのでありますが、
四民平等が謳われ、明治4年1871年の断髪令や、
明治9年1876年の秩禄処分帯刀禁止令などが下されますと、
武士(士族)のアイデンティティーが崩れ、目的意識や価値観は混乱しました。

新しい国創りにまい進できた者たちは良かったでしょうが、
仕事を得ず、目的を失ってしまった人たち、
武士(士族)のプライドを捨てきれない人たちも少なからずいたことでしょう。

明治10年1877年、そんな士族の鬱憤が爆発し、
士族の反乱である西南の役西南戦争)へと結びついたのでした。

青木家のご先祖様である青木彌五右衛門も、その一人息子・彌一郎も、
西南の役が起こる前に亡くなってしまいました。

青木家には、
彌五右衛門の妻・周(かね・41歳)と、11歳の娘・寿ゞという女性だけが遺されました。


介錯

2016年02月22日 23:59

昨日は、
青木彌五右衛門(4代前のご先祖様)が士族仲間の切腹に際し、
介錯人を務めたというエピソードについて書こうとして、
文章が長くなってしまったので中途半端で止めました。

そこで、
きょうは、そのつづきを書こうと思います。


ところで、
江戸から静岡に移住した徳川の家臣は1万3千人程度いたらしいのですが、
その一族郎党を含めると、当時の静岡の人口が数万人増えたことになります。

それだけの人たちが住む家がすぐに建ったワケもなく、
多くは、財力のある家の一隅を間借りして生活していたようであります。

青木彌五右衛門一家の場合もご多分に漏れず、
現在の静岡大学の西に在る部落の或る家に世話になっていたようです。

その部落には、
青木彌五右衛門と同じく元・精鋭隊士(後の新番組)のH一家が、
I 家に間借りして住んでいました。

慶応3年1867年、
将軍・徳川慶喜公が大政を奉還して江戸城から水戸に退く時に護衛した精鋭隊は、
徳川慶喜公や徳川家達公が静岡へ下るときには新番組と呼ばれていましたが、
徳川家達公が静岡藩知事となると使命を終え解散しました。
そして、大量の武士たちが失業することになったのでした。

明治2年1869年、皆が移住してすぐのことでした。

或る日の夜、Hが他家でもてなされた宴席の帰り道、
提灯を持って送ってきてくれた他家の奉公人を後ろから斬ってしまったのです。

翌日、村は大騒ぎになりました。
捕り方が、Hの住む I 家を包囲しました。

騒ぎを聞いて、青木彌五右衛門もおっとり刀で駆けつけました。
役人に状況を聴き、Hに会ってことの顛末と切腹する覚悟だと聴きました。

切腹は、その日の夕刻に近くの寺の墓地で行われることが決まりました。

切腹が決まると、
Hの妻は、夫の髪を結い上げ、装束に着替えさせ、水杯を交わし、
Hは、I 家の人々をはじめ、村の人々に世話になった礼と罪を詫び、
墓地に向かいました。

介錯人を務める青木彌五右衛門は、白鉢巻に白襷、袴の腿立ちを高く取り、
腰には備前某の作と謂われる二尺一寸五分(約65センチ)の刀を帯び、
沈痛な面持ちで控えていたといいます。

役人や村人が見守るなか、Hは敷具の上に正座し、
青木彌五右衛門は、Hの左斜め後ろに立ちました。
そして、水ぶるいした刀を構えて待ちます。

Hは、愛刀の鞘を静かにはらい、刀身に刃止めの白布を巻き、
右手で逆手に持ったその時、青木彌五右衛門が声を掛けました。

「まだ間合いがある」

暫くすると、Hが腹を一気に横一文字に切りました。
次の瞬間、青木彌五右衛門の二尺一寸五分が振り下ろされました。


それにしても、
何故、Hは人を殺めたのでしょう?
酒に酔っていたとはいえ、なにがそのような暴挙に走らせたのでしょうか?

生きる目的や張り合いを無くしていたのでしょうか?
生き方が判らなくなってしまっていたのでしょうか?

しかし、
Hは、自業自得とは云え、自らの罪を自ら認めて清く自ら腹を切りました。

村の人たちは、
「自得院大勇時守居士」という法名をつけて、手厚く祀ったといいます。


切腹

2016年02月21日 23:59

昨日、清水のH寺のご住職が送ってくださった、
わたしたちのご先祖様にまつわる資料を読んでみました。

その資料に記されている、一つのエピソードは、
昨日のブログにも書いた、わたしの母からみて父方の曾祖父にあたる、
青木彌五右衛門に関するものです。

青木彌五右衛門は、
幕府の番方として、江戸城の警備で鉄砲の火薬を扱うお役をしていましたが、
大政奉還を経て精鋭隊に加わり、元・将軍徳川慶喜公の警護を担っていました。

しかし、戊辰戦争が終結して、謹慎を解かれ静岡に還る慶喜公に随行して、
家族共々、駿府という名称を改めた静岡に移住したのでした。


ところで突然話を変えますが、
みなさんも、時代劇や歌舞伎等で、“切腹”の場面を観たことがあると思います。

わたしも、むかし俳優の修行をしていた時代がありますが、
学生時代の授業で、“切腹して”という課題を与えられたことがあります。

学生が一人ずつ皆の前に出て、“切腹する”のですが、
先生から、なかなかOKがいただけませんでした。

大概の者は、白刃を腹に突き立てたあたりから顔を真っ赤にして、
力一杯に苦渋の表情を表しています。

すると先生が立ち上がって学生のところに行き、
学生の腹を人差し指の先で押しながら「どう?痛い?」と訊ねました。

学生が頷くと、
「私のこんな太い指だって、強く押せば痛いからお腹に力を入れちゃうよね?」
 だからサ、みんなのやり方だと腹筋が締め付けて刃が入らないんだよなぁ・・」
とおっしゃったのです。

先生がおっしゃっるのは、
真っ赤な顔をして、力一杯腹を切る芝居をしているのはウソ。
“真っ赤なウソ”だということでした。 
切腹とは、「腹の力を緩めて腹を切り割くことなのだ」ということです。

つまり、切腹という儀式が壮絶なのは、このことから解ります。
自分の腹を脱力させて刃を突き立て、左脇腹から右へと真一文字に切り割きます。

作法によっては、
その後ヘソの上からヘソの下にかけて十文字に切ることもあるそうですが、
それでも、人間は即座に絶命しないものなのだそうで、腹を切った刃を抜いて、
心臓を突いたり、頸動脈を切って果てるのが切腹の正式な作法なのだそうです。

しかし、
自ら腹を真一文字に切るだけでも至難の技ですから、
武士の情けとして、途中で介錯が行われることが慣例となりました。

腹を切ったら・・、或は切ったことにして、介錯人が首を斬るのです。
この介錯は、誰でも出来るほど簡単ではないのだそうであります。

ところで話を元に戻せば、わたしが読んだ資料というのは、
青木彌五右衛門が移住した静岡で、士族仲間の切腹に際し、
介錯人を務めたというエピソードが記された資料でありました。



青木家のこと

2016年02月20日 23:59

老舗の百貨店 ” 越後屋 ” で総務部長をしている親戚が、
メールをくれました。

わたしのブログを読んでくれているというのです。
このところ書いているご先祖様たちの記録ですが、
わたしたちにとって共通の曾祖父母たちのことです。

同じく、共通の曾祖父母をもつ子孫の一人である、
清水のH寺のご住職が資料を送(贈)ってくれました。
すると、いくつか新たに判ったことがありましたので、
きょうは、それを少しだけご披露したいと思います。

青木家跡

昨日は、総武線錦糸町駅北口の錦糸公園前交差点の一角に在る、
ご先祖様がむかし住んでいたと思われる場所に行ってきましたが、
そのご先祖様のことを少し書こうと思います。

嘉永5年1852年に編纂された「江戸切絵図」に記載されているご先祖様の名は、
「青木弥五右エ門」となっていますが、正しくは「青木彌五右衛門」と思われます。

青木家は、
代々「御先手組」という、戦時において先陣・先鋒を務めるお役を頂き、
江戸時代には、主に江戸城の警備役を務める家だったようです。

禄高は200石で、
知行地と謂われる与えられた土地が常陸下総に在ったようです。

慶応2年1866年には、御先手組として各地へ警護にでかけ、
御鉄砲玉薬奉行の実務責任者を任じられていたようです。

慶応3年1867年には、徳川15代将軍・徳川慶喜公の身を危ぶむ、
恭順派勝海舟大久保一翁中條金之助に命じて組織させた、
将軍の護衛隊である精鋭隊に加わり、後に静岡まで随行しました。

この精鋭隊の隊長であった中條金之助は、静岡に移住した後に、
元幕臣たちを組織して牧之原台地を開墾し茶業を興した人として有名です。

ご先祖様たちも中條金之助も、
勝海舟山岡鉄舟による江戸無血開城が成功していなかったら、
たぶん、江戸城を枕に討ち死にしていた人たちであります。



錦糸町で途中下車

2016年02月19日 23:59

錦糸町

ご存知、錦糸町駅北口の巨大モニュメントであります。

「ECHO(エコー)」と名付けられたこのモニュメントは、
五線譜(ケーブル)の上で、二つのヘ音記号が重なり合い、
低音と高音が互いに反響しあって共鳴し、
新たな音色を生みだすイメージを描いたものだそうです。

「音楽都市」を目指して街づくりすることを宣言した、
墨田区の計画で創られ、駅前のシンボルになりました。


さて、
きょうは、用事があって千葉の船橋へ行った帰りに、
総武線錦糸町駅で電車を途中下車してみました。

JR錦糸町駅の北口を出ると、
右手には錦糸町駅前郵便局の高層ビルがそびえ、
駅前は、ロータリーになっています。

駅から見て、錦糸町駅前郵便局の建物の裏側に、
錦糸公園が在ります。

そして、
その錦糸町駅前郵便局と錦糸公園の「錦糸公園前交差点」の一角に、
ドトールコーヒーが在ります。

どうやら、この場所に、
明治2年1869年まで、わたしのご先祖様たちが住んでいたようであります。

ドトール

嘉永5年と云いますから、
幕末の1852年に描かれた「江戸切絵図」の「本所絵図」に、
わたしの母の、父方の曾祖父にあたる青木弥五右エ門の名が載っています。

その場所を見ると、
「四ツ目通り」と、当時の「南割下水」が交差した所だと判ります。
つまり、それが現在の「錦糸公園前交差点」の一角なのです。

錦糸公園前交差点

わたしの母にとって、
父方の曾祖父母が暮らし、祖母が産まれたのがこの場所です。

ご先祖様である、青木彌五右衛門と周(かね)夫婦は、
息子・彌一郎と、娘の寿ゞ(すず)を連れて、
元・徳川十五代将軍徳川慶喜公の護衛隊員として、
明治2年1869年7月、静岡と名を変えた駿府に移住しました。

そして、
二度と此の地に戻ることなく、皆静岡の地に眠りました。

ところで、
家の裏手に化け物のような高い塔がそびえる時代がくることを、
ご先祖様たちは、想像したこともなかったでしょう・・・。

2,557回目のブログ

2016年02月18日 23:59

きょうで、2,557回目です。

きょう、2016年2月18日は、
2009年2月18日にブログを書き始めて、7年目。

2009年2月18日の第1回目から毎日書きつづけ、
きょうで、2,557回目です。

家族旅行の日に書いたブログもあります。
息子の結婚式の日に書いたブログもあります。
大切な人が亡くなった日のブログもあります。
まご娘が生まれた日のブログもあります。
大震災が起こった日のブログもあります。
・・・。


できれば、
じぶんが死ぬ日のブログも書いてみたいです。





最新記事