お礼のケーキ

2015年11月30日 18:00

お礼のケーキ③

きょうは、お稽古日(日本舞踊)であります。

さてまご娘(5歳)、
わたしたちが何を云ったワケでもないのですが、
きょう、唐突に「ケーキを作る」と云いだしまして、
「お弟子さんたちにも食べてもらう」とも申しまして、
ケーキを二つ作ったのであります。

先日の28日は、
まご娘にとって、日本舞踊の初舞台でした。

そのお稽古をつけていただいたことへのお礼と、
先日、姉のお誕生日にお祝いができなかったからだと申します。

姉は、大のケーキ好きであります。
もっと云えば、大の生クリーム好きなのであります。

それで、まご娘なりにお礼とお祝いを考えて、
ケーキを作って食べてもらおうと思ったようです。

お礼のケーキ②

習い事の基本は、
“ご挨拶”と“見て憶える”ことと“感謝”の気持ちでしょう。

まご娘に教えても促してもいないのに、
まご娘が師匠に“お礼のケーキ”を作ろうと思ったこと。
“感謝する気持ち”が育まれていることが、なにより嬉しかったのです。

お礼のケーキ①




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見世物

2015年11月29日 23:59

花園神社(大鳥神社)

ナリタカさん、本名は加藤斎孝さんといいます。
芸名は浅野和之さんであります。

初日の3日前に体調不良で舞台を降板した鹿賀丈史さんの代役を無事に勤めたとか、
三谷幸喜さんが「浅野さんに一生ついてゆく」と云ったとか、
小栗旬さんが尊敬している俳優だと公言しているとか、
身体を自由に動かすことができる特異体質をもっているとか、
変わった人という段階から、もはや伝説の人になりつつあります。

ナリタカさん、浅野和之さんは、わたしたち夫婦の学生時代の先輩でありますが、
我が家のご近所さんでもあります。

現在のお住まいも近いのですが、以前はもっとお近くで、
雑司が谷の大鳥神社の傍にお住まいでした。

その当時、近くに銭湯がありまして、
小学生だった息子たちを時々連れて行ったのですが、
たしか、息子たちがナリタカさんと初めて会ったのはその銭湯だったと思います。

お互い家風呂はあるものの、たまには広い銭湯でゆっくりしたかったのです。

そのナリタカさんと、
息子Kがスーパー歌舞伎Ⅱで共演するようになったのですから、
人生とは、面白いものです。

見世物じゃないぞ

さて、
雑司が谷は、御会式御酉様などのお祭りごとが多い土地柄ですが、
むかしは、縁日というと露店のなかに“見世物小屋”が出ていました。

隔年で、見世物小屋とお化け屋敷が出現するのですが、
やっているのは、どうも同じ人たちのようでした。

その見世物小屋に出演している人たちと、銭湯でいっしょになったことがあります。

しかし、噂に聞けば、
高齢化で、見世物興行はその人たちが最後だということでした。

あれから、もう20年は経ったでしょう。
見世物小屋は、記憶と伝説だけを残してなくなったと思っておりました。

ところが、
きょうは三の酉の御酉様でしたので、新宿の花園神社に行ってきましたが、
境内に入ってすぐのところで、あの独特の看板と幟が目につきました。

どうも、絶滅寸前のところで、見世物を継承する若い人たちが現れたようであります。

見世物小屋

ところで、
ナリタカさんはわたしより3つ年上ですから、それなりに年齢を重ねました。
いつまで、あの切れのいい身体を使った演技を観られることでしょう?


初舞台

2015年11月28日 23:59

初舞台①

毎日ブログを記すことは苦ではありませんが、
毎日ブログのテーマを絞り込むことでは苦労します。

一日に様々なことが起こりますし、色々な視点があるからです。

そういった意味では、
きょうのブログのテーマは、これしかありません。

「初舞台」

きょうは、まご娘の初舞台でした。

お化粧をして、衣裳を着て、かつらを被って、
劇場の舞台で、お客様に踊り(日本舞踊)をお見せしました。

舞台の本番は写真撮影ができませんので、
かわりに、一日の舞台裏のドキュメントです。

初舞台②
まず足袋を履くところから。

初舞台③
眉をつぶして顔の下地をつくります。

初舞台④
羽二重を被って髪を包みます。

初舞台⑤
お化粧はパパ。

初舞台⑥
衣裳を着て。

初舞台⑦
かつらを被ります。

初舞台⑧
舞台の袖で出番待ち。

さて、いよいよ本番。

曲は、
長唄「お月さま」

お月さまいくつ
十三七つ
まだ歳ゃ若いな
いつも、歳をとらないで
三日月になったり
まん丸になったり
月の初めの、三日月さまは
眉に似たとよ、姉さまの
笑顔に似おう、細眉に
櫛にも見えましょ、青柳の
濡れていろ増す、洗い髪
白粉つけて、紅つけて
姿くずさぬ、みだしなみ
映す鏡はまん丸な
あれ十五夜の、お月さま

初舞台⑨

終わってから、幼稚園のお友達が楽屋に来てくださいました。

この際、顔出しします。
お化粧で素顔は判らないでしょ?  


にんじん

2015年11月27日 21:18

にんじんたっぷりのクリームシチュー

むかし、
ジュール・ルナールの「にんじん」という小説を戯曲化した演劇の舞台がありました。

確か、劇団民藝の公演では、
松本典子さんがにんじんを演じ、父親役は宇野重吉さんだったと思います。

あの時代、大竹しのぶさんがにんじんを演じた舞台もあったのですが、
大竹しのぶさんが劇団民藝に客演した時期でもあったので、
大竹しのぶさんと宇野重吉さんの「にんじん」を観たと勘違いしていました。

わたしも、当時演劇科の学生だったので、
「にんじん」を抜粋して、父親役を演じたことがありました。

いまでいえば、「にんじん」はネグレクトの話です。
赤毛でそばかすだらけの顔をした少年が、母親から虐待されるという内容は、
いまの時代に上演されたら、どんな反響があるでしょうか?

世の中には、
反りが合わない人間関係があるものです。
親子であっても反りが合わない場合があります。
また、人からは愛して欲しいけれど、人を愛せないという人もいます。

いまでは、そんなことは当たり前だと思っていますが、
あの当時は、そんな母親は珍しいと思って演じていたなぁと思い出しました。

にんじん

さて、
今宵の三浦家の食卓は「にんじん」がメインです。

まご娘と息子が、幼稚園の遠足でにんじん掘りに行ってきました。
おかげで、食べ切れないほどのにんじんを収穫して帰ってきました。

というワケで、
まご娘のリクエストに応えて、
夕食には、にんじんがたっぷり入ったクリームシチューを作りました。


遮断機が下りた踏切

2015年11月26日 17:08

原節子
パブリック・ドメイン アップロード者: WTCA

原節子さんが、
ことし9月5日に亡くなっていたという報道がありました。
6月17日にお誕生日を迎えて、95歳でいらしたそうです。

不謹慎かもしれませんが、
原節子さんのご逝去の報には、特別悲しさが伴いません。
やはり、半世紀以上前に引退されていて、
ご本人に馴染みがないからでしょうか?

しかし、様々な感慨をもちます。

昭和という時代が、遠ざかってゆくなぁ・・・。

小津安二郎監督と、あちらでお逢いになるだろうなぁ・・・。

家族のかたちも描き方も変わってしまったなぁ・・・。


原節子さんが出演された、
所謂、“紀子三部作”と謂われる映画が3本あります。

晩春」、「麦秋」、「東京物語」という3本です。

原節子さんが、いずれも「紀子」という役名で登場し、
娘役や嫁役を演じていらっしゃる映画です。

いずれも、小津安二郎監督作品です。


ところで、季節でいえば、
「晩春」というのは、5月頃の時候を指すようです。
「麦秋」というのは、麦が実る候という意味で、
秋という字を使っても、初夏を指すのだそうです。

しかし、
紀子三部作”を観ると、どの作品の季節も、
秋を描いているように感じます。

象徴的な場面で、
“リンゴ”や、“いわし雲”が描かれているからです。

秋は、実りの秋と謂われますが、
葉が枯れて落ちる季節でもあります。

かつては、
芽吹いて新緑をつけた季節があり、
盛夏には葉が青々として実を育み、
そして、その役目を終える季節を迎える・・。

かつては賑わった家族の団らんも、
やがてかたちを変えるときがくる。

映画「麦秋」のなかで、
踏切を渡ろうとした父親が、遮断機に遮られ路傍に腰を下ろす場面がありますが、
そのときの父親の状況を描いた、切なくて怖い場面でした。

そういった意味で、
紀子三部作”は、いずれも切なくて怖い映画だと、わたしは思います。

原節子さんが小津安二郎監督作品に出演したのは、
1961年公開の映画「小早川家の秋」が最後でした。

そのタイトルにも“秋”の文字が入っていますが、
原節子さんが演じた未亡人の役名は、“秋子”でした。

小津安二郎監督は、翌年「秋刀魚の味」を撮って、
その翌年の1963年に亡くなりました。

原節子さんは、
もしかしたら“その後の紀子”をイメージされるのを嫌って、
引退なさったのかもしれません。

原節子さんの訃報は、秋が似合います。
合掌




「ワンピース」千穐楽

2015年11月25日 23:59

千穐楽

これが歌舞伎か!?
じゃあ、歌舞伎ってなんだ?

これが「ワンピース」か!?
じゃあ、「ワンピース」ってなんだ?

この2ヶ月間、様々な議論を巻き起こしてまいりました
スーパー歌舞伎Ⅱ「ワンピース」
おかげさまで、本日無事に千穐楽を迎えました。

ご覧くださったみなさま、ありがとうございました。
連日満員の盛況裡に東京公演は終了です。

しかし、見逃してしまったので、どうしてもという方は、
来年の3月には大阪・松竹座公演、4月には福岡・博多座公演がありますよ。

お芝居の評価やご感想は、お客様お一人おひとりに委ねることとして、
澤瀉屋一門の“冒険の旅”はつづきます。

つづく


役者は、もう次の支度にかかります。 次はコレ!

元禄港歌

「元禄港歌 - 千年の恋の森 -」
[東京]2016年1月7日(木)~1月31日(日)Bunkamuraシアターコクーン
[大阪]2016年2月6日(土)~2月14日(日)シアターBRAVA!



47のチカラ~私の別格~

2015年11月24日 23:59

47のチカラ~私の別格~2015年11月22日放送

東京FMラジオの毎週日曜日12時00分~12時25分放送
キリンビバレッジPresents 「47のチカラ ~私の別格~」
案内人:住吉美紀

11月22日(日)に放送された同番組で、
わたしの実家のみかんについて、甥っ子がお話ししました。

タイトルは、
静岡県・浜松市の“チカラ”-浜松みかんが美味しい秘密!-

番組の終盤で、
甥っ子が、祖父(わたしの父)について話しています。
どうして、みかんを作ろうと思ったのかという話です。

番組の構成上、時間に限りもありましたので、
肝になる話を、少しだけ補足したいと思います。


父は、15歳で志願して予科練に入隊しました。
両親には反対されたのですが、意志を貫いて、
生きて再び此の橋を渡ることはないだろうと思いながら、
故郷の橋を渡って兵士になりました。

しかし、16歳で終戦を迎えます。

生きて故郷の橋を再び渡ることが恥ずかしかったそうです。

戦後、祖父の下で、家業のみかん作りを手伝ったり、
材木を運ぶ木炭トラックの助手を務めたりしながら、
仲間を集めて勉強会を主催するようになります。

「人生、如何に生くべきか」
敗戦で、大規模な社会体制と価値観の変革が起こっていました。

仲間で出し合った金を預かって、東京の神田に本を買いに上京しました。

そのとき、
上野の地下道で飢えて動けない多くの人々に遭遇します。
日本の首都・東京は、廃墟のようだったそうです。
父は、兵士だった自分の責任を痛感しました。

此の国をこんな状態にしてしまった責任をとらなくてはいけない。
そのとき、父は父なりの“戦後処理”を使命に生きようと決心します。

神田の古本屋で、安岡正篤先生の書かれた本に出会います。
後に、安岡先生が主宰されていた日本農士学校に入り、
大胆にも宵に安岡先生の庵を独り訪ねて問うたそうです。
「人間、如何に生くべきか?」

そのとき受けた薫陶を胸にして、父は一つの目標をイメージします。

それは、
“日本中の家庭のコタツの上に、当たり前のように籠にみかんが盛られている風景”
戦後の食糧難の時代、栄養失調で亡くなる方がいた時代の“夢”です。

終戦直後は、食料が足りませんから、
需要に応じて、兎に角お腹にたまる芋などのデンプン農業。

それがある程度足りてくれば、卵や肉と言ったタンパク農業。

それが行き渡るようになれば、
栄養価を気にして野菜、果物などのビタミン農業の作物が供給されました。

つまり“みかんがコタツの上にある”ということは、
デンプンもタンパク質も野菜も足りているということです。

そして、昔のみかんは皮が厚くてすっぱくて、そして高価でしたから、
“日本中の家庭に”、“当たり前のように”、というのは、
みかんが“美味くて、“安くて”、“沢山ある”という条件が満たされたときです。


父は勉強して、静岡県の清水に在った農林省の果樹試験場に入ります。
やがて、故郷徳島の果樹試験場に勤めるようになり、結婚して、わたしが生まれました。

しかし、
果樹試験場の技師の話を聴いて、それに倣ってみかんを作る農民はいません。
一念発起し、自身が開拓農民となって理想のみかん農家を創ることにしました。

父が、母とわたしと母の腹の中の妹と共に、
静岡県浜松市の三方原台地に入植したのは、1958年(昭和33年)のことでした。

父が考えた、ブルトーザーを使った機械化開墾と密植栽培法によって、
10年で投下資金を償還して売り上げが農家の所得になるという
早期成園化に成功し、その技術が普及して全国にみかん産地が誕生しました。

そして、
入植した1958年(昭和33年)当時75万トンほどだった全国の生産量ですが、
幾度の台風や寒波の洗礼を受けながらも日本の温州みかんは、
1975年(昭和50年)に367万トンという史上最高の生産量に達しました。
当然、みかんの価格は大暴落しました。わたしが高校を卒業した年です。

しかし、
そのとき父は、独りひそかに喜んでいたのでした。
みかんが“美味くて”、“安くて”、“沢山ある”という状況が生まれたからです。

“日本中の家庭のコタツの上に、当たり前のように籠にみかんが盛られている風景”
父の“夢”が叶ったのでした。

その夢とは、つまり“平和”そのものだったのです。
それが、15歳で兵士になった父の“戦後処理”でした。


長いながい父の話におつき合いいただき、恐縮です。





七転び八起き

2015年11月23日 23:59

友人の88歳の母上が、自宅の廊下で転んで救急搬送され入院。
大腿骨頸部を骨折されており、手術の必要があるのだそうです。

友人も、母上が転ばないように一番に気をつけていたのだそうですから、
さぞやご心痛のことでしょう。


ところで、
転ぶことの危うさは、なにも88歳の人に限ったことではありません。
実は、昨日わたしも転んでしまいました。

近くの公園で、まご娘と缶けりをやっていたときです。
缶を蹴ろうと木陰から飛び出して走って、前のめりに転びました。

上半身が前のめりになって重心が前に移動していたのに、
走っている足がついてこなかったというワケです。

前傾で徐々に倒れながら、
一瞬、手で庇おうかどうしようかと思案しました。

しかし、手をついたら手首をやっちゃうかもしれないと思い、
咄嗟に右肘を曲げた状態で右肩から転ぶ方法を選んでいました。
肩というより腕(かいな)から転ぼうとしたといったほうが正確です。

でも、右肩を打ち付けたようで、脱臼はしていませんが、
少々脱臼気味の痛さが残りました。

これが少しの違いで、脱臼していたかもしれませんし、
肩や手首を骨折していたかもしれません。
或は、顔や頭を怪我していたかもしれないのです。
打ちどころがワルければ、一大事になっていたでしょう。


さて、
5歳のまご娘は、一日になんども転びますが、
「元気な証拠」とか、「七転び八起き」などといって、
なるべく大袈裟にはしません。

しかし、我々の場合は、
一つ転んだら、次は無いかもしれませんよ。



自転車

2015年11月22日 23:59

自走

わたしが、自転車に乗れるようになったのはいくつのときだったでしょう?

こども用の自転車を買ってもらったのは、確か小学生のころだったと思うのですが、
何年生のときだったか定かではありません。

こども用の自転車を買ってくれた父が乗り方を教えてくれましたが、
スパルタ式で教えてくれるものですから、なかなか上達しませんでした。

それより、大人の自転車の三角乗りは、
自分で勝手に覚えたものですから、その方が乗りやすかった記憶があります。


さて、
自転車屋さんで、まご娘の自転車の補助輪をはずしてもらいました。

まご娘が、幼稚園でペダルのついた自転車に乗っているらしく、
自宅の自転車も補助輪をはずしてほしいと頼まれたからでした。

補助輪をはずすだけでしたら、わたしにも出来ますが、
替わりにスタンドを取り付けてもらわなくてはなりませんでした。

ペダルなし自転車

補助輪付きの自転車を買ったのは、ことしの春でしたが、
それ以前から、ペダル無しの自転車に乗っていました。
3年まえの2歳の誕生日に、プレゼントした自転車でした。

ところで、
自転車に乗れるようになるために、一番厄介なのはペダルです。

ペダルを踏むことを優先して、バランスをとることがおろそかになります。
しかし、ペダルが無ければバランスをとって走ることを先に覚えます。

そのことが功を奏したのか、
補助輪をはずしてもらった帰り道、自走しているではありませんか!

息子もわたしも、
まご娘が自転車に乗れるようになるための練習相手をするつもりだったのですが、
もう既に乗れちゃってます。

幼稚園で、ペダルの付いた自転車で遊んでいるうちに覚えたようです。

凄いなぁまご娘、やるなぁ幼稚園。

自転車自走



39年前の想い出

2015年11月21日 23:59

いまから40年前、
昭和の大横綱が、史上最年少の21歳2ヶ月で誕生しました。


現在の「目黒線」は、かつては「目蒲線」といいました。
目黒駅から大田区の蒲田駅までをつないでいたからでした。

ちなみに、
目黒駅は、山手線の駅名ですが、目黒区の駅ではありません。
所在地は、品川区上大崎です。

その目蒲線で目黒駅から一つ目の駅が「不動前」という駅です。
不動前で降りて商店街を抜け、緩やかな坂道を上ると交差点が在ります。
通称「目黒不動」と呼ばれる「瀧泉寺」の参道に入る交差点です。
交差点を右折して、なだらかな坂を下ると右側にお墓が在って、
その角に、わたしが住んでいたアパートが建っていました。

品川区西五反田、
所謂共同アパートで、四畳半にガスコンロだけ付いた2階の角部屋でした。
窓の外には墓地の借景が見えていました。

高校を卒業して、一度は家に入るも夏に家出して、
蒲田で新聞配達をしていた友人の部屋に世話になり、
新宿伊勢丹の地下に出店している会社に就職して世田谷の豪徳寺の寮に住み、
秋には退社して、下北沢駅で偶然に遇った農大生の友人のアパートに上がり込み、
年明けに配膳の仕事で小金を貯めて引っ越したのが、そのアパートでした。

家賃は、確か一ヶ月6千500円だったと思います。

最初の配膳の仕事は、羽田空港の国内線ターミナルに在ったレストランでした。
目蒲線で蒲田まで行き、バスで羽田空港へ通いました。
浜松町からモノレールで通うより、少しだけ安かったからでした。

仕事は、レストランのウェイターでした。
職場は、暴走族あがり、万引きの常習犯、ホモ、定年退職した元・部長、エトセトラ、
色々な人間のるつぼでした。

まだ19歳になったばかりで、
煙草を吸って、安酒を飲んで、小説を持ち歩いて読んでいた時代でした。

そんな或る日、羽田空港のレストランに横綱がやってきました。
前年に史上最年少で横綱になり、1月場所でも優勝して話題でした。

横綱というのは、
力士の最高位の称号であるだけでなく、神の依り代と謂われています。
つまり、21歳で神の依り代になっちゃった人です。

オーダーはわたしが受けましたが、何を注文されたか憶えていません。
憶えているのは、圧倒されるくらい大きな横綱の背中でした。
テーブルが、おままごとのテーブルのように小さく見えました。

当時のわたしの体重は50キロ程度だったのですが、
横綱の体重は160キロはあったでしょう。

年齢差は3つですが、年齢差や体重差以上に、
その存在感は、天と地ほども違いました。
なんせ、神の依り代になっちゃった人ですから。

わたしは、いまだに地上を這いつくばっておりますが、
横綱は、当時22歳にして既に雲上の人でありました。
横綱在位記録が63場所で歴代1位だそうです。

ご病気だったそうですから仕方がありませんが、
生き急がれたご生涯だったような気もします。

きょうは、
元・大横綱北の湖関の突然の訃報に接し、
なんだか寂しくて仕方がありません。

それで、むかしのことを想い出して記しました。


合掌





見るなのタブーのその後

2015年11月20日 23:59

去年の1月ごろ、
自分と息子が似ていないからと疑問をもった芸能人の父親が、
“自分”と“息子”のDNA鑑定を依頼したところ、
「親子の確率0%」という結果が出たというお噂で賑わいました。

昨日、東京家庭裁判所は、
その“父親”と“息子”に「親子関係はない」という判決を言い渡したと
報道されています。

去年わたしは、
そもそもDNAなんて、なんで調べるのかと疑問をもちました。 
この世で出逢って、縁あって“親子”。
それがすべてじゃいけないのかしらと思ったのです。

産んでくれた人は、なにがあっても母親ですけど、
“父親”なんて、所詮人間社会が決めた概念ですから、
何人いたって構やしないとさえ思いました。

しかし、
きょうの報道を読んで、父親が社会的概念による存在だからこそ、
彼は、DNAを調べなければならなかったのではないかと思いました。

血がつながっていようと、つながりがなかろうと、
彼は“息子”を“息子”だと思っていたのではないでしょうか?
DNAの鑑定結果で、息子への愛情が変わることはないと、
そんな自信があったのではないでしょうか?

そして、
いまでも、彼の“息子”への愛情は変わっていないのかもしれません。

しかし、
“息子”は、どうだったのでしょう?

最初から血縁ではないと知っていた父親に対する感情と、
最初は血がつながっていると思っていた父親が、
血縁ではないことを証明してしまったとしたら・・・。

いずれにしても、見るなのタブーは犯され、
パンドラの箱は開けられてしまったワケです。

わたしは、
父親が見るなのタブーを犯した気持ちも解りますが、
もう一方で、息子の気持ちも解るような気がします。

ただ、
“父親と息子”は、所詮此の世で出逢っただけの関係です。
その出逢ったことを喜びとすれば、いつか血縁を超えられると思うのですが・・。

下浚い

2015年11月19日 23:59

豊島公会堂

豊島区在住の日本舞踊家が、
日本舞踊の各流派を超えた古典舞踊を基とし、
日本舞踊の振興や発展を担うことを目的として
1992年に「としま区日本舞踊家集団」を創りました。

この集団の活動は、
伝統文化の継承を担う次世代の人材の育成や
地域への貢献を活動の中心に据えたものです。

2010年からは、
子ども達のためのワークショップも開催しています。

その「としま区日本舞踊家集団」主催の公演が
今月11月28日(土)に豊島公会堂で催されます。

着付け

その豊島公会堂は、
1950年に完成して以来、65年経った劇場です。

老朽化に加え、豊島区本庁舎が移転したこともあって、
旧・豊島区本庁舎跡地と合せて再開発され、
豊島区公会堂(みらい座いけぶくろ)は、
その新しい建物のなかにオープンする予定です。

かつら

そこで、
これまで使われてきた豊島公会堂の閉館記念イベントの一つとして、
今回としま区日本舞踊家集団主催公演「華麗なる彩り」が催されます。

場当たり

さて、
この公演の舞台が、まご娘の初舞台です。
<11月28日(土)11時30分開場、12時開演>

きょうは、その下浚いが行われました。

化粧する以外は、すべて本番と同じように行われる舞台稽古です。
劇場は閉館しますが、まご娘は、初めての舞台に臨みます。

下浚い





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