フレーム

2015年09月30日 23:59

一昨日のことですが、

「福山雅治と千原ジュニアが結婚を発表!」

という活字を見て、一瞬我が目を疑いました。
ナルホド日本語の表現とは、むずかしいものであります。

しかし、
ホントに目や耳を疑った女性は多かったようです。

「ずっと結婚しない人だと思ってた」
「なんでなんで!聞いてないんですけど・・」

誠に勝手な言い分ではありますが、
そんなことを云わせてしまう千原・・・、もとい、
福山雅治という人の存在の大きさが判ろうというものです。

ところで、
この福山雅治さんの結婚にまつわる世間の女性心理を、どう捉えたらよいのでしょう?


むかし、
映画化された「日本沈没」というSF小説がありました。
大規模地震が起こって、日本列島が海中に沈んでしまうという内容でした。

この小説を書いた小松左京さんは、
日本という、四季を通じて自然豊かな国土をもったこの国の人々にとって、
その国土そのものを失ってしまい、放浪の民になったとしたらどうなるかと、
そんなテーマを秘めて書かれたという話を、なにかで読んだことがあります。

つまり、
日本人のメンタリティーは、この国土あってのものではないかという視点です。

日本人が捉えている「フレーム(枠組み)」と云いますか、
そのフレームの、はめ方と捉え方を変えれば、新たなものが見えるのではないか、
そんな考え方です。

しかし、
日本人のメンタリティーは、風土だけで醸成されたワケではありません。

また、
フレームは、変わったり替えられたりすることもあります。
歴史的な出来事によっても、そのフレームは変わってきました。
明治維新や太平洋戦争の敗戦などは大きなフレーム・チェンジだったはずです。

例えば、
考えてみてください。

もし、フーテンの寅さんに妻子がいたことが判明したら・・、
もし、高倉健さんが実は女性だったと公表されたら・・、
もし、ドラマ「水戸黄門」や「大岡越前」の主人公に愛人がいたら・・、
もし、「相棒」の杉下右京が密かに賄賂を得ていたとしたら・・、
もし、この国の憲法九条が改憲され、戦争が出来るようになったら・・、
これまでのフレームを守ろうとして傷つくより、
これからのフレームを捉えて新しい視点を持つ方がいいと思います。

世の中には、
福山雅治さんが結婚するようなことが起こるワケですから。



スポンサーサイト

胸焼け

2015年09月29日 20:52

オメプラゾール

ガン、心臓病、肝臓病、糖尿病、痛風・・・エトセトラ。

周りにいる、わたしと同年輩の友人のなかにも、持病のある人がいます。

60歳ちかくになりますと、
既往症や持病があったりするのは、云わば当たり前なのかもしれません。

さて、
きょうは、わたしの主治医のところへ行って、薬を処方していただきました。

主治医と云っても、わたしが勝手に主治医だと云っているだけですが、
長年、わたしの身体を診ていただいております。

奥様は、看護師でもあられますが、うちのかみさんのむかしからのフラ仲間ですし、
母上も、うちの息子の歌舞伎を毎度観ていただいています。

むかし、
オウム事件があった頃、警察庁長官が何者かに狙撃されたことがありました。

長官は、身体に銃弾を3発被弾して瀕死の重傷を負いました。
そのとき、日本で最初に高度救命救急センターを開設した大学病院で、
センターの医長を務めておられて、長官の処置と手術をされたのが、
わたしが主治医と呼ぶ、現在のYクリニックのY医師です。

このことをネットで検索しましても、主治医のお名前は出てきません。
現場で処置したり執刀した医師ではなく、責任者しか公表されていないのです。

それが、
“白い巨塔”と呼ばれる大学病院という組織というものなのか、
担当医に、なんらかの危険が及ぶことを懸念して意図的に隠されたのか、
それは、判りません。


さて、
わたしの持病は、食道と胃の境目に噴門という弁がありまして、
わたしの噴門は、食道裂孔ヘルニアといって開きっぱなしの状態なのです。

当然、胃の内容物が逆流しやすい状況ですので、胃酸を含んだ内容物が
食道を刺激することがありまして、それが胸焼けという症状を起こします。

それが常態化しますと、逆流性食道炎に罹りやすくなり、
食道ガンのリスクが高まるという可能性があるワケです。

以前は、市販薬の胃薬を飲んでいたのですが、
毎食後に飲んだり、ちょっと物を口にする度に飲む薬としては、
成分にアルミニウムが含まれていることもあって躊躇われたので、
主治医の勧めで、薬を処方していただくことにしたのでした。

しばらく飲みつづけると胸焼けが解消される患者もいるのだそうですが、
わたしの場合は、なかなか胸焼け状態が寛解しません。

こうやって、
年齢とともに、日常的に飲む薬ができ、それが段々と増えてゆくのでしょうか?

胸焼けごときで長々と、スミマセン。



「あさが来た」

2015年09月28日 23:06

「あさが来た」

まご娘が毎朝楽しみにしていた「まれ」が終わって、
新しい連続テレビ小説「あさが来た」が始まりました。


ところで、
日本で初めて、女子の大学が創立されたのは、
1901年(明治34年)のことだったのだそうです。

それは、
女子高等教育の第一人者、成瀬仁蔵先生によって、
「女子を人として、婦人として、国民として教育する」
という教育方針を掲げて創立されました。

それが、現在の日本女子大学です。

我が家から歩いて5分ほどの場所に在りますが、
その目白台の土地は、当時の三井財閥から寄贈されたものでした。

それが、連続テレビ小説「あさが来た」の主人公
「あさ」のモデル・広岡浅子女史の尽力によるものだったのだそうです。

成瀬仁蔵先生と広岡浅子

1905年、建設中の日本女子大学豊明館前での評議員の記念撮影。
後列左から、成瀬仁蔵広岡浅子村井吉兵衛塘茂太郎
前列左から久保田譲森村市左衛門森村菊子大隈重信西園寺公望


日本女子大学は、「本女(ぽんじょ)」と略称で呼ばれます。

我が家では、
亡くなった母も、かみさんも、かみさんの姉も本女(ぽんじょ)の付属に通いました。
息子たちも、保育園と幼稚園は本女(ぽんじょ)の付属でした。

ですから、
我が家では、「先生」といえば「成瀬仁蔵先生」を指すことがありますが、
成瀬先生と同じくらい日本女子大学にとって大切な創立者が、
「あさが来た」のモデル・広岡浅子女史です。

女性に教育は不要と謂われていた幕末・明治の時代、
参政権さえ認められていなかったそんな時代に、
“女だてら”に、炭鉱事業や銀行経営に手腕を振るった
女性実業家・広岡浅子

いまでは、言葉は当たり前になった“女性の自立”、“男女平等”ですが、
いまだに、政権が日本の成長戦略として“女性が輝く日本”をつくるために、
「待機児童の解消」「職場復帰・再就職の支援」「女性役員・管理職の増加」
などという政策を謳うことからも判るように、“男女が同等に扱われる社会”は、
114年経った現在でも実現していないようであります。

わたしの家庭では、とっくに実現されているんでありますが・・。 



中秋の名月

2015年09月27日 23:59

中秋の名月

死者58人、行方不明者5人を出した
御嶽山の噴火から、きょうで1年が経ちましたね。

去年の9月28日、
わたしは、早稲田大学の教室を会場にしてシンポジウムを開催していました。

公益社団法人 福島原発行動隊主催シンポジウム
「福島原発の収束・廃炉を考える」~私たちに何ができるか


わたしは、
そう題されたシンポジウムの、企画・進行を務めていたのでした。

御嶽山の噴火は、去年9月27日午前11時52分でしたが、
わたしがそれを知ったのは、シンポジウムが終わった夕方でした。

あれから、各地の火山噴火が頻発している感がありますが、
きょうは、現地災害対策本部が置かれた王滝村で追悼式が行われたようです。


一昨年の9月29日の夜でしたが、かみさんの従姉が昇天しました。

かみさんは、
病気が診断されてから、アッという間にホスピスに移った従姉に
最期まで付き添っていました。

きょうは、従姉の母である伯母を囲み、
従姉の短い闘病を見守った親しい人たちが集って、
仏教でいうところの“三回忌”の食事会がありました。


そして、きょうは訃報が届きました。

9月上旬からホスピスに入院していたわたしの親戚の人が、
きょう未明に亡くなったのだそうです。

父と同じ昭和4年の生まれですから、ことし86歳。

嫁いだ娘と娘の家族がいますが、
数年前に妻を亡くしてから、独りで生活をしていました。

近年、グループホームに入所していましたが、
ホスピスに入院するまで、グループホームから通院して、
悠々自適の生活をしていたようです。

故人の意思で、葬儀や法要は行われません。
周りの人たちも、その意思を尊重するつもりだそうです。

亡くなった人の意思ではありますが、
葬儀や法要は、誰のためにあるのかとも思います。

掌を合わせる場所がありませんから、
せめて、今宵の月に向かって合掌することにしました。

月

「ワンピース」チラシ表裏

2015年09月26日 23:59

ワンピース チラシ表裏

追加出演者が決まりました。
追加の配役も決まりました。
追加公演と、来年大阪での再演が発表されました。

ゆずの北川悠仁さんが、楽曲を提供してくださった、
主題歌のタイトルも「TETOTE(てとて)」に決定しました。
“12歳の少女”が歌っている主題歌なのだそうです。

というわけで、公演チラシが一新されました。


稽古場では、
既に衣裳パレードも終わり、稽古も佳境を迎えているようです。

あと10日ほどで初日を迎えますが、
早々に大勢のみなさまからチケットのお申込みをいただきました。
チケットが手元に届き次第、随時送らせていただいておりますので、
いましばらくお待ちくださいますよう、お願い申し上げます。

スーパー歌舞伎Ⅱ『ワンピース』10月11月新橋演舞場公演

市川弘太郎オフィシャルサイト(市川弘太郎後援会入会案内)



元気になるツール

2015年09月25日 23:59

デイサービス

わたしよりも齢の若い人たちが、
ガンに罹って手術を受けたり、亡くなったりしています。


わたしの故郷・浜松に、浜松ホトニクスという会社がありますが、
ノーベル物理学賞を受賞された小柴昌俊博士の研究実験に使用された
光電子増倍管を開発した会社です。

その浜松ホトニクスが作った検査機器で検査すると、
ほぼ全員の身体からガン細胞が見つかるのだという話を、
浜松ホトニクスの会長・晝馬輝夫氏の講演を聴いた父が話してくれたことがあります。

そんなガン細胞が、
突然細胞分裂を繰り返し肥大化するのが進行性のガンで、
ほとんどのガンは、そのまま消滅してしまうのだという話でした。

つまり、
その検査機器を使って調べたら、ほとんど皆からガンが発見されるワケで、
その場合にガン保険はどうなるのだろうねと冗談を云いました。

いずれにしても、
自己免疫力がガンを抑えるのか、神様の思し召しなのか判りませんが、
わたしたちは、辛うじて生きているワケであります。

祝敬老会

さて、
きょうは、実家の父が通所するデイサービスに、
「タップリン」が登場して、デイサービスを利用している人たちに
パフォーマンスを披露したと、妹が写真と共に知らせてくれました。

タップリンが地球人かどうか判りませんが、四国の讃岐に実家が在ります。
長年妹と同居し、普段は重度の知的障がい者の授産施設で働いています。
タップリンは、その施設の施設長を任されていますが、仮の姿です。

タップリンのミッションは、人を楽しませ喜んでもらうことにありますが、
そのパフォーマンスが神出鬼没というワケではありません。
予約を入れると、予定通り登場してくれることになっているようです。

また、各地の被災地にも頻繁に現れる姿が多くの人に目撃されており、
フェイスブックなどによってシェアされ拡散しています。

そんなワケで、
前々からタップリンの希望で実現したきょうのパフォーマンスでしたが、
利用者の皆さんは楽しんでくださったでしょうか?

タップリンと父

ところで、
妹も、いまから10年前に大病に罹って大きな手術をしました。

あのときの病気のことを思うと、いま生きているのが奇跡のようです。

そのとき父も、既に複数の臓器にガンを抱えていました。
何度も手術を繰り返して今日があります。

なぜ生きているのか、自己免疫力なのか、治療の成果なのか、
神様の思し召しなのか判りませんが、有り難いことです。

因みに、写真にある「祝敬老会」という字は、父が書いたものです。
人に向かって表現するツールを持っている人は、元気になるようです。


長い闘いを応援します。

2015年09月24日 23:59

闘い

わたしは、
なぜ空手チョップを最初から使わなかったのか
というような、野暮を云うつもりはありません。

勝負というものは、勝ち負けが最も大事ですが、
それだけではなく、試合運びや勝ち方が大事だと思うのです。

観せる(魅せる)格闘技であるプロレスが、
古今東西で人気があるのは、そんなセオリーを踏まえているからでしょう。


さて、
そんな女子プロレス界から芸能界に場を移して活躍している
北斗晶さんが、きのう自身のブログに乳がんであることを明かした上で、
きょう右乳房の全摘出手術を受けることを記したことが話題です。

毎年秋には、マンモグラフィーやエコー検査を受けていたという北斗さんですが、
乳がんが判明した時点では、既に約直径2cm大になっていたのだそうです。

リンパへの転移や抗がん剤の副作用など、心配は尽きないでしょうが、
ご主人や息子さんたちの応援も力強いことでしょうし、日本中の人たち、
とりわけ、がん患者の方たちやそのご家族が応援していることでしょう。

その使命感を感じていらっしゃる北斗さんだからこそ、
自身の状況をカミングアウトされたのだろうと思います。


プロレスは、独りだけで闘っているのではありません。
それを観ている観客と共に、その人たちの夢といっしょに闘うのです。

わたしの周りにも、乳がんに罹った人は大勢います。
しかし、幸いにして、一人も乳がんに負けた人はいません。

北斗晶さんにとって、多分これまでで最も困難な闘いのゴングが鳴りました。
今後つづくであろう北斗さんの長い闘いを、わたしも応援しながら見守ります。


浅草めぐり

2015年09月23日 23:59

ザリガニつり

秋分の日は、連休最後の日であります。

きょうは、
浅草の花やしきで、モグラたたきと、ザリガニつりと、輪なげと、射的を楽しみました。
モグラたたきで興奮し過ぎて、手でたたいてケガをしちゃいました。
混んでいて、乗り物やおばけ屋敷は長蛇の列でしたからよしました。

かき氷

奥山おまいり町通りのお店で、
かき氷と焼きそばとカレーうどんを食べました。

60年作っているというオバさんのおでんも食べたかったケド、
食べきれないので、よしました。

カレーうどん

浅草寺にお参りしてから、仲見世を冷やかして歩きました。

揚げまんじゅう、ちょうちんもなか、お芋のソフトクリーム、きびだんご、
人形焼き、イモ羊羹、雷おこし、手焼きせんべい・・・。

わたしも手焼きせんべいを買おうかと思いましたが、
バァバが、お気に入りのおせんべいを買ってきてくれるだろうと思ったので、
わたしは買うのをよしました。

ホントは、スカイツリーにも行こうかと思ったのですが、
次の機会にみんなで行きたいので、今回は行くのをよしました。

あれもこれも、なんでも欲しくなる浅草めぐりでした。

浅草寺とスカイツリー

転ばぬ先の杖

2015年09月22日 23:59

杖

18年前の1997年(平成9年)に、
かみさんの母が亡くなって以降、運動を止めてしまった父ですが、
それでも身体が丈夫にできているとみえて、元気に過ごしております。

むかしは、よくスポーツクラブに通って、走ったり、泳いだりしていました。

いまは毎日、
映画館に出かけて行ったり、映画の専門チャンネルで映画を数本観るという、
そんな生活をつづけておりますので、ほとんど身体を動かしていません。

その所為で、足が弱ってきました。
腰が曲がり、前傾して歩くようになりました。

そこで、“転ばぬ先の杖”というワケで、かみさんが杖を買って渡しました。

きょうは、秋のお彼岸ですから、みんなでお墓参り。
きょうが、父のステッキデビューの日になりました。
きょうは、そんな記念の日であります。

わたしもいつか、杖をつくようになる日があるのかもしれませんが、
87歳にしてステッキデビューする自信はありませんケドね。

父にとって彼岸は、まだかなり遠そうです。

秋のお彼岸


おじいちゃんと呼ばれて

2015年09月21日 23:59

「あらぁ、三浦さんとこも?
 きょうは敬老の日だから、お孫さんとみえる方多かったんですよ。
 でも、きょういらっしゃったおじいちゃんの中で、三浦さんが一番若いわね」

何年か前の敬老の日に、
息子の嫁さんと、まご娘を連れて馴染みのお蕎麦屋に行ったときに、
店の女将さんからこう云われました。

うちのかみさんが外出していたので、三人でお蕎麦屋に行ったのです。

お馴染みのお店ですから、うちの家族をよく知っていてくれますが、
知らないお店や病院などでは、息子の嫁さんとまご娘の三人でいると、
よく “ まご娘のパパ ” と間違われることがありました。

面倒くさいので否定も説明もしないでいると、
後で、うちのかみさんから「ちゃんと否定しなさいよ」と叱られました。


そう云えば10年くらい前のことですが、
親子ケンカで話題になった或る家具屋に、
かみさんとかみさんの父と三人で行ったときのことです。

家具屋の店員が、
わたしを指して「息子さん」と呼んだことがありました。

かみさんとかみさんの父が夫婦だと間違えられたのでありました。

うちのかみさんは、店員に激怒したのでありますが、
その当時、年齢よりも若く見られることが多かった、
かみさんの父とわたしの見かけの所為でありました。


それにしましても、
まご娘に「ジィジ」と呼ばれることは嬉しいのですが、
世間様から「おじいちゃん」と呼ばれることには違和感を覚えます。
まだことし59歳ですからね。

でも、まご娘がお世話になっている先々の方たちから、
「おじいちゃん」と呼ばれるのは致し方ありません。

そんな意識でおりますと、テレビ番組の中などで、
安易に人を「おばあちゃん」「おじいちゃん」と呼んでいるのが気になります。
「貴方のおばあちゃんじゃないでしょ!?」と突っ込みたくなります。


かみさんの父も齢をとりました。
斯く言うわたしも、鏡を見れば老け込みました。

もはや、かみさんとかみさんの父と三人でいても、
わたしが息子に見えることはありません。

そのうちに、
かみさんが、わたしの娘と間違われることがあるかしら・・?


ゴメン!
それは、さすがにないな・・・。




38年前

2015年09月20日 23:59

演劇科

きのうときょう、母校・演劇科の学園祭が行われていました。

学園祭には、毎年演劇科同窓会が「同窓会の部屋」を設置します。

演劇科同窓会の会長でもあるかみさんも、
期間中交代で「同窓会の部屋」に詰めることにしています。

そこで、きょうは二人でまご娘を連れて学園祭に行ってきました。

演劇公演史

「同窓会の部屋」は、2号館の奥にありました。
むかし、演劇科の衣裳倉庫として使っていた部屋ですが、
いまは、改装されて教室として使われています。

その部屋の壁面には、演劇科公演の舞台写真が飾ってありました。

しかし、わたしたちが在学していた頃の写真は、ありません。

なんせ、わたしが入学したのは38年前、
かみさんに至っては、40年前です。
(かみさんは、わたしと同い年です。)

その頃の写真を飾るスペースがありません。


それにしても、
その写真に写っている学生や、キャンパスを歩いている人たちの若いこと・・。

むかしのわたしたちも、こんなに若かったのだろうかと思います。

この人たちとわたしたちとの年齢差を数えてみると、
この人たちは、はるかに5歳のまご娘に近い年齢なのでした。

38年前

戦前回帰

2015年09月19日 23:59

国家

わたしもまた、暗澹とした気持ちで一日を送りました。


この状態を端的に表すならば、
この国の“戦後”は70年経ったいま終わり、
この国は“戦前”にシフトしたのだということです。


実際に、自衛隊が出動する事態が起こるかどうか、
紛争や戦争の当事国になるかどうかは、判りません。

ただ、はっきりしていることは、
70年前に戦争に懲り懲りした日本人が、二度と戦争をする国にはならない
とした日本人のメンタリティーを変えてしまったということでしょうか。

その意味では、戦後レジームが変わってしまったのでしょう。


今回のことで、
国権を発動して、戦争したり、武力を用いた威嚇や武力の行使は、
国と国の問題を解決する手段としては、永久にこれを放棄する
としてきた
日本の建前が、実は「安全保障」「抑止力」といったアメリカの軍事力に頼って
成り立っていたことを、世界に向けてあからさまに暴露してしまったのです。

これは、
“あの戦争”を総括することなく、建前と現実との矛盾を、
平和繁栄を享受するために放置してきたツケなのかもしれません。


これから、
わたしや、わたしの家族や、未来の人たちは、“戦前”を生きることになりました。
これは、妄想や誇張ではありません。





最新記事