バタバタ

2011年10月31日 23:13

「先日は、バタバタしていて失礼しました」

「いまちょっとバタバタしているんだよね、だからまた後でお願い」

「ここのところバタバタしていますので、またゆっくりしたときに・・・」

なんですかね? この「バタバタ」って。


バタバタ=忙しい?

バタバタ=慌ただしい?

バタバタ=余裕がない?

バタバタ=考えられない、或いは、考えたくない?


なんだか判りませんが、「バタバタしていて・・」と云われると、
「そうですか、じゃしょうがない」と納得してしまうようなところがあります。

しかし、場合によっては、あしらわれたような・・、軽んじた扱いをされたような・・、
みくびった応対をされたような気がすることもあります。

でも、自分でも使ってしまいますけど・・・。


さて、
このブログの右側に「最新記事」のタイトルが載っています。
30日分のタイトルが載っているのですが、今月はきょうが最後の日です。
このタイトルを見ると、この10月がどんな月であったか、わたしには一目瞭然です。

息子K家族の引っ越しがありました。
孫娘の運動会がありました。
雑司が谷の「御会式」がありました。
Tクンの四十九日法要と納骨式がありました。
車を買い替えました。
牧之原市、御前崎市、静岡市で、息子Kの歌舞伎のイベントがありました。
浜松で、母の十三回忌の法要がありました。
そして、孫娘がこの間何度か熱を出しましたので、保育園を休ませて預かりました。

忙しいといいますか、慌ただしいといいますか、まさにバタバタしていた感じです。

その所為で、毎月恒例だった異業種交流会FTNの例会開催をスルーしてしまいました。
今月だけではありません。今年は7月も9月も開催しませんでした。
いつもご参加くださる皆様には、大変に申し訳ないことでございます。
これも偏に、わたしがバタバタ・・いえいえ、わたしの不精の所為でございます。

  





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名題

2011年10月30日 23:59

      博多座     博多座 2011年11月  ← サムネイル版

息子Kは、当代・市川猿之助さんの七番目の部屋子ではありますが、名題ではありません。
因みに、上の六人の部屋子の皆さんは名題でいらっしゃいます。

この“名題”と申しますのは、
昔から歌舞伎の演目のことを、江戸では“名題(なだい)”と申したようです。
劇場の表に掲げられる大きな名題看板に演目と並んで役者の名前が描かれていたことから、
看板に名前が描かれる人気役者のことを、“名題”とか“名題役者”とか、
看板役者”と謂うようになったのだそうです。
現在では、大体名題の幹部俳優の皆さんのお写真やお名前が、載っています。

名題以外の俳優は、“名題下”と謂います。

息子Kの場合は、名題ではありませんが部屋子なので、
澤瀉屋主体の興行などではポスターなどに顔写真や名前を載せていただくこともありますが、
歌舞伎界の慣例により、各家の看板役者の皆さんが競演する大歌舞伎興業などの場合、
息子Kは、ポスターやチラシにその写真も名前も載りません。

因みに、看板(ポスターなど)の名前の序列ですが、
大看板の俳優は、演目の扮装姿で写真が大きく載っております。
その下に顔写真とお名前が載っていますが、ポスターやチラシを例にとると、
順番は、一番右端のお名前の方、次はそのお隣ではなくて一番左端の方です。
その次が、右から二番目の方、次が左から二番目の方、そして右から三番目という具合に
内側に向かって序列順になっております。

参考までに、上のサムネイルをクリックして、大きくしたチラシでお確かめください。

ですから、息子Kの場合は、ポスターやチラシに載せていただける場合、
どんなお役を勤める場合でも、皆さんのお写真やお名前が並ぶほぼ真ん中の位置に、
載っています。


さて、
きょう、息子Kは福岡の博多座に向かいました。
来月の、11月博多座公演『錦秋博多座大歌舞伎』に出演させていただくからです。

昼の部の「連獅子」で、今回は仔獅子ではなく、
「宗論(しゅうろん)」と呼ばれるユーモラスな間狂言に登場する僧を演じますし、
夜の部は、「楊貴妃」に出演しております。

日々、精進しながら皆様に可愛がっていただき、見巧者のお客様のお眼鏡に適うよう努力をし、
歌舞伎をご覧になったことのない皆様にも、面白いと思っていただける芸を探求しつづければ、
いつの日にか、大歌舞伎の看板に、息子Kの写真が載ることもあろうかと、思っています。

それには、身近な舞台から。
来年の公演よりは、まず明後日の初日の舞台からです。








亡母・十三回忌

2011年10月29日 23:59

岩水寺

徳川家康唯一の敗け戦と謂われる、三方ヶ原の合戦

1572年、いまから439年前。
わたしの実家と弟が経営するみかん園の在る、三方原台地が暮れなずむころ、
武田信玄の軍勢約25,000人と、徳川家康の軍勢11,000人が、激突しました。
世に謂う三方ヶ原の合戦です。

しかし、徳川家康はこの戦に壊滅的な大敗北を喫します。
多くの犠牲を払って、命からがら浜松城に逃げ帰った家康が、
最初で最後の大敗北を肝に銘ずるため、
城に逃げ帰った直後、脱糞し憔悴しきった己の姿を絵師に描かせて、
生涯それを飾って自らを戒めたという逸話は有名です。

参考:顰像(しかみぞう)

岩水寺全景

その徳川家康が、三方原台地から浜松城に逃げ帰る途中、
岩水寺本堂の北東にある表鬼門を護る白山宮境内の、
推定樹齢千年の巨大な楠のご神木の穴に逃げ込んで、
難を逃れたという言い伝えがあります。

この岩水寺は、
高野山真言宗のお寺で、山号は龍宮山、ご本尊は薬師如来です。
山開は、いまから約1,300年前、奈良時代。
開祖は、当時の天皇から菩薩の称号を賜った行基菩薩という僧で、
行基さんが開いたお寺は、東大寺をはじめ、全国に数多く在ります。

墓参り

きょうは、この岩水寺で、
亡母の十三回忌の年忌法要を行いました。

この岩水寺は、浄土宗のお寺が多いこの地では珍しい真言宗のお寺で、
四国徳島出身の父が、母が亡くなったのを機に檀家にしていただきました。

会食

母が亡くなったのは、2,000年の2月でしたから、
本来は来年が十三回忌の年なのですが、
参列してくださる人たちの多くが高齢なので、寒い時季を避けたのと、
これから暮れにかけて、実家はみかんの収穫期ですので、忙しくなる前にということで、
このタイミングでの法事となりました。

母が亡くなったときには、まだ幼かった孫たちも成長しました。
成人して家業を手伝うようになった子、ことし就職した子、高校生になった子、
結婚し子を生した子、海外で事業を起こした子たちです。

長男は、祖父さんになりました。
長女は、七回忌のころには大病を患っていましたが、奇跡的に回復し、
あれから5年以上が経ちました。
次男は、様々な困難を経験しましたが、父が築いた家業を継いで、みかんを作っています。

実の兄と姉、義兄と義妹は亡くなりました。
遺された兄と妹、義妹は元気ですが、身体が弱ってきたようです。

甥子、姪子たちも、遠くから今回の法事に集まってくれました。

遺した連れ合いは、
肺がんに始まり、様々な病気を経験して満身創痍ですが、なんとか元気でおります。
いまだに、妻の不在に呆然とすることがありますと、挨拶で申しておりました。

会食②

会食③

会食④

父は、4年後の十七回忌のときにも元気で、同じ愚痴を云うでしょうか?



東名高速道路の景色

2011年10月28日 15:59

首都高速東池袋

東名高速道路を西に向かって走っております。

東池袋から首都高速5号線に乗って、竹橋JCTから首都高速都心環状線、
谷町を過ぎて首都高速3号線を走れば、そのまま東名高速道路に接続しています。

東名高速道路①

東京から、静岡県の浜松西インターまでは、約240㎞。
平均時速100キロで計算すると、東池袋から約3時間といったところでしょうか?

足柄SA

しかし、途中充実した足柄サービスエリアで休憩しながら、これを書き始めました。
ですから、4時間はかかるでしょう。

久しぶりの中距離ドライブです。

東名高速道路②

東名高速道路③

由比が浜

実は、明日浜松の寺で、母の十三回忌の年忌法要が営まれます。
そこで、きょうは久しぶりに車を運転して実家に向かっております。

そこで、道中を写真に撮ってブログにアップしようと思いましたが、
携帯電話の写メからブログに載せるやり方が分かりません。
したがって、写真をアップするのは後日になりそうです。

東名高速道路④

西日を浴びながら運転していると、眠くなります。



巨星堕つ

2011年10月27日 23:59

本日、
今月10日に亡くなられた中村芝翫さんのご葬儀が青山葬儀所でありました。

また一人、歌舞伎の名優がいなくなられました。

中村芝翫さんと云えば七代目、勿論歌舞伎俳優でいらっしゃいますが、立女形の代表格。
人間国宝であり、成駒屋の最長老である大成駒、日本俳優協会の会長でもあられました。

わたしたち夫婦としては、息子Kの大先輩(雲上人)であられるのですが、
個人的には、芝翫さんのお嬢さんである好江さんは、学生時代の後輩にあたります。

さて、息子Kもご葬儀に参列させていただきました。

きょうは、月の27日、歌舞伎の興業はありません。
大概の歌舞伎俳優のご葬儀は、月の興業と興業の間に行われます。
芝翫さんが亡くなられたのも今月の10日だったのですが、大看板のご葬儀ですから、
歌舞伎俳優が揃ってお見送りするには、この時期だったのでしょう。

報道によると、参列者は約1,200人だとか。
多分、歌舞伎俳優は全員といってよいほど参列されたのではないでしょうか?

その歌舞伎俳優ですが、全員で何人だと思われますか?
わたしは数えたことがないのですが、息子Kは数えたことがあるようで、
新たに歌舞伎俳優になる方、亡くなる方などいらして定まりませんが、
大体300人なんだそうです。

大看板から名題下まで合わせて約300人なのだそうですから、
希少な職業と謂わざるを得ません。

日本で、約300人ですから。
世界で、約300人しかいないんですから。

その意味でも、
七代目・中村芝翫さんのご逝去は、歌舞伎の世界の大きな損失でしょう。

名優のご冥福をお祈りいたします。合掌







君子危うきに近寄らず

2011年10月26日 22:45

よく工事現場を通るときとか、
高いビル群の街を歩いているときに、フッと心騒ぐことがありませんか?

もちろん、危ないという先入観や深層心理からだとは思いますが、
実際に意識化して行動することは、少ないと思います。

そのいい例が、駅のホームでしょう。
幅は何メートルあるでしょうか?大きな駅でさえ、数メートルでしょう。

そんな幅の場所に、ベンチやら自動販売機やら在って、尚更狭くなっております。
そんな場所を、携帯電話をいじりながら、本を読みながら歩く人たちもいます。

以前、視覚障害者をサポートするガイドヘルパーの資格をとったことがありました。
そのときに研修で、実際の駅のホームを使わせていただいて訓練しましたが、
例えて云えば、駅のホームが地上数十メートル高いところだったとしたら、どうでしょう?
わたしたちは、平気でホームの端を歩けるでしょうか?
視覚障害者の方たちは、日常的にそんな場所を歩いていらっしゃるのです。

意識化されない、日常化した空間でも、本能的には危険を察知します。
むしろ、本能が退化して、危険を感じられない場合こそ、危険な気がします。


きょう、孫娘を保育園に迎えに行くときに、
近所の商店街を歩いておりましたら、パトカーの灯りが回転しておりました。

なにかと思って近づいてみましたら、
重機が倒れて、解体中だった家屋の壁が足場と共に道路を塞いで倒壊しているようでした。

警察官が現場を囲って侵入を禁止しておりましたが、訊いてみますと、
午後4時過ぎのことだそうです。

実はその直前、わたしはそこを通過していました。
そこを歩きながら、ナゼか危ないと思って、道路の反対の端へ避けて通過したのでした。

工事現場を通過するときには、いつも思っているのかもしれません。
ですから、予知したワケではないと、思います。
心配性の感が、当たっただけのコトかもしれません。

それにしても、
少しでも、危ないと思うときというのは、ナニかあるときなんじゃないでしょうか?
理由は判らずとも、潜在意識で感じる異常がそれを知らせているような気がします。

「君子危うきに近寄らず」と、申します。


人々は、あまりに危険な状況に慣れすぎて、
なにが危険か、なにが安全か判らなくなってやしませんかねぇ?



「おぢや震災ミュージアムそなえ館」

2011年10月25日 18:23

2004年10月23日 17時56分

わたしは、浜松の実家から13時に到着した弟家族を東京駅に迎えに行って、
池袋のサンシャインシティ展望台やナンジャタウン、大久保のドン・キホーテへ連れていき、
我が家に到着した弟たちを車から降ろしているときでした。

運転席に座っているわたしにも判るほど揺れて、地震だと知りました。
新潟県中越大震災が起こった瞬間でした。


それから3週間後の11月12日は、わたしが初めて中越の被災地に立った日です。

あれから、7年。
定期的に、小千谷市「おじやファンクラブ」からメールが届きます。
これも、絶望的な状況から少しずつ困難を乗り越えてこられた方々の記録です。

一昨日、10月23日に届いたメールに、
小千谷市おぢや震災ミュージアムそなえ館が本日オープンしました」
と書いてありました。

そして、メールの文面には、

「私達も7年前、幾度となく発生する余震と、変わり果てた街並み、
 復旧の目途がつかない中、大きな絶望感を味わいました。
 その中でも前を向いて歩むことができたのは、
 全国の皆さまからいただいたご支援と心温かい気持ちです。

 今回被災された方々も、困難に立ち向かい、日々復旧に向かって
 力強く歩んでいる姿を目にします。
 今度温かい気持ちを被災地に送るのは私達の番です。
 被災された皆様の1日も早い復旧と、皆様に笑顔が戻ることを
 心よりお祈り申し上げます。」


と記されておりました。


小千谷で出逢った人たちのお顔が、お一人ずつ、思いだされました。




「切り子たちの秋」

2011年10月24日 23:59

代々木公園駅下車

わたしにとっては、
過去にあまり利用したことのない駅のひとつが地下鉄千代田線の「代々木公園駅」でしょう。
きょうは、副都心線「明治神宮前駅」で乗り換えて、「代々木公園駅」で降りました。

わたしにとっては馴染みのない駅でも、Kさんにとっては最寄駅だったはずです。

朝、河岸へ向かったのもこの駅からだったでしょうし、
うちの店から帰宅して降りたのも、この駅だったはずです。

Kさんは、岩手県遠野出身の板前でした。
道場六三郎さん等何人かの師匠の下で修業して、海外での仕事も経験した人でした。

そして、うちの店が開店したときから板長として腕を振るってくれて、
店を閉め、他社に引き継いだときに辞めてもらったのです。

その後、ベトナムのホテルに日本食の総料理長として赴任したのですが、
一昨年、その契約が終わって帰国していました。

ガンコで変わり者で困らせられたことも数知れず、
周りの迷惑も数知れずでしたが、腕がよいことと、
原価率を厳密に守ってくれる、珍しい職人でした。

「高くて高級な食材を使って美味いのは当たり前、
その辺の魚屋や八百屋の材料を使っても高級な料理を作るのが料理人の腕」
というのが口癖の人でした。

そのKさんが、ことし3月に亡くなりました。


さて、
きょうは、代々木公園駅近くに在る青年座のアトリエ公演を観に行ってきました。

先輩である、つよしちゃんが書いた「切り子たちの秋」を観るためです。

作品は、1973年の中東戦争が起こり原油価格の高騰によってインフレが加速し、
所謂オイルショックと呼ばれた不景気な時代が始まった17974年が舞台です。
オイルショックは、高度経済成長時代の終わりだとも謂われましたが、
きょうのお芝居は、そんな時代を背景にした、東京大田区の町工場の物語です。

日本のお家芸だと謂われる熟練工の技と、効率化と平均化を優先させる技術革新の波、
人間力とコンピューターの力、思えばあの時代に切った日本丸の舵が、
わたしたちをここまで運んできたと云えるのではないでしょうか?

そんな時代の潮の流れに巻き込まれた、大田区の町工場の人々の絆を描いた作品です。

この芝居には、“原発”という単語は一回も登場しませんが、
福島原発が稼働し始めたのも、この頃です。

観終わって、劇作家に訊ねました。
「原発のコトを描いたの?」

すると、劇作家は照れたような顔をして頷きました。


日本のあらゆる業界が、工業も土木業も製造業も農業も、高い技術力を基礎にして、
大規模化するために、コンピューターを使った効率性や均等化を良とし始めた時代、
科学や化学によって自然をコントロールできると思い始めた時代が、
あの頃だったのではないでしょうか?
土木工事も東京タワーも新幹線も、日本が世界に誇る技術力の粋です。
その恩恵を享受して、わたしたちもまた育てられ、生きてきたのです。

そんな生き方をしてきたわたしたちが、
呆然と立ちつくしたのが、ことし起こった原発事故だったのではないでしょうか?

被災時に世田谷の仕事場で戯曲を書いていたこの劇作家は、
倒れた本棚と崩れて散乱した本の中で、それまで書いていた戯曲を捨てたのだそうです。

“新たな人間の生き方”を描かなくてはならない・・・という想いからです。
あの瞬間から、もの創りをしている者たちは皆そんな作業を始めました。


Kさんが生きていてくれたら、その辺の魚屋や八百屋の食材を使って、
そんな人間たちが、腹の底から美味いと思える温かい料理を作ってくれただろうに、
と、思います。

切り子たちの秋





歌舞伎のいろは

2011年10月23日 23:59

御前崎市立図書館

噂に聞く、立派な図書館であります。

きょうは、この御前崎市立図書館主催の講演会を息子Kが相勤めました。
題して「歌舞伎のいろは」であります。

歌舞伎の歴史について、立役(男性の役)と女形(女性の役)の演じ分けなど、
歌舞伎を楽しむための基礎知識について、お話し申し上げ、
歌舞伎公演のビデオを観ながら解説を加え、
最後に歌舞伎舞踊「七福神」をご覧いただいたという趣向でございました。


約100人のお客様でしたが、
その中には、わたしの高校時代の友人たちも混じっておりました。

この御前崎市で、マスクメロンを作っている友人や、
お茶と養豚経営をしている友人たちです。
皆、奥さんやご親戚を連れて観に来てくれました。

この友人の作るマスクメロンは、日本で一番高い値が付きます。

歌舞伎のいろは

昨夜の石雲院の催しを始めとして、昨日から今日にかけて、
息子Kは、牧之原市・御前崎市・静岡市の5か所でお仕事をさせていただきました。
トップアイドル並みのスケジュールです。

普段、同じ劇場でひと月お芝居をすることに慣れている息子Kにとっては、
よい経験をさせていただいたことになったと、思います。

但し、それに付き合わされた孫娘は興奮して寝不足で、熱を出しました。
可哀相ですが、これもイベントの多い三浦家に生まれた不運と諦めてもらいます。


それにしましても、一年という長い時間をかけてご準備をしてくださった牧之原市坂部の皆様、
熱心に「歌舞伎のいろは」を聴いてくださった御前崎市の皆様、
本当に、有り難うございました。

これで、歌舞伎にご興味をもっていただけたとしたら、
わたしとしても、とても嬉しいことでございます。

次は是非、歌舞伎公演の劇場で、お目にかかりましょう。

重ね重ね、有り難うございました。





牧之原市石雲院

2011年10月22日 23:20

石雲院山門

杉や檜などの古木が鬱蒼と茂る参道を登りますと、山門が見えてまいります。
曹洞宗龍門山石雲院の山門です。

きょうは、静岡県牧之原市に在る、その石雲院に来ております。

石雲院は、1455年に崇芝性岱禅師によって開かれたお寺です。
当時の地元城主であった勝間田氏の支援を受けて建立され、
のちに今川・武田・徳川の庇護を受け、御朱印地百五十三石を拝領したのだそうです。

このお寺は曹洞宗の古刹で、御本尊は釈迦牟尼仏、
山門・総門・本堂は牧之原市の文化財の指定を受けているのだそうです。
現在の本堂は1843年に再建されたものだそうですが、
本堂の扉の彫刻「龍門の滝」は、その時に彫られた写実的彫刻で、これも文化財です。

石雲院

さて、わたしが何しにこの石雲院に来ているのかと申しますと、
今夜ここ石雲院の本堂で、息子Kの公演が行われたからでありました。
そこで家族皆で、観に来たというワケであります。

第8回高尾特別公演「歌舞伎舞踊への誘い」がそれであります。
「坂部を愛する会」と「第8回高尾特別公演実行委員会」のご主催で、
牧之原市と縁のある息子Kへ、公演のご依頼をいただきまして、
長いご準備の結果、実現した公演であります。

お陰様で、会場は満席の約500人のお客様と、
この公演のスタッフ約50人の方々に見守られての公演です。

お客様

公演は、口上につづきまして、歌舞伎入門という趣向のトークショーと、
歌舞伎舞踊「静と知盛」を披露するという内容でした。

此処石雲院は、富士山静岡空港に隣接しております。
ですから、源氏と平家の物語の最中にも遠くでジェット機の音がしておりました。

しかし、
それも気にならぬほど、観客の皆さんは舞台に集中してご覧くださっておりました。

むしろ、ジェット機の方を気にしていたのは、
踊る本人の娘(1歳4ヶ月)だけだったのかもしれません。 

余談ですが、もし浜岡原発が事故を起こせば、
此処石雲院も、半径20キロ圏内です。


議論のすすめ

2011年10月21日 23:59

朝まで生テレビ」は、毎月最終金曜日の深夜に放送されています。
つまり、実際は土曜日の未明の放送です。

生テレビですから、生放送という意味です。
“ 生 ” というのは、加熱していない食物などの状態を指す言葉のようです。
加熱するのは、殺菌のためですから、殺菌されていない状態が “ 生 ” です。
つまり “ 生 ” は、放っておくと発酵することもあれば、
腐ってしまうこともあるワケですよね?
それだけに、“ 生 ” という品質に手を加えないというものは、
混沌や混乱というリスクもある代わりに、新鮮さが売りでしょう。

「朝まで生テレビ」は、
その意味で、テレビメディアとしては画期的なテーマを扱っていて、
その時代の世論に一石を投じてきたのだろうと思います。
それが、四半世紀の間この番組がつづいてきた理由だろうと思っています。

さて、今夜の「朝まで生テレビ」は、
最終金曜日深夜ではなく、一週早い放送でした。

テーマは、「激論 国民に総理大臣を選ばせろ」でした。
制度上、国民の意思をどういった形で反映させるべきか、
議員内閣制の問題点やら、首相公選制の是非について、また、
それに伴う民意形成とマスメディアのあり方にも議論が及んでおりました。

そこで、わたしがきょう採り挙げたいのは、
首相公選制についてでは、ございませんで、「議論」についてであります。

日本人は、「議論」を避ける癖があると思います。

会議でも、飲み屋の会話でも、
誰かと、ちょっと過熱気味に議論していると、必ずと云ってよいほど、
「まぁまぁまぁまぁ・・」という合いの手が入ります。

KY(空気読めないこと)が嫌いな国民である日本人は、
“議論”することがイコール、KYだと思っているようです。

農耕民族だったと謂われる国民ですから、皆で横に並んで田植えすることが得意。
おのずと、狩猟民族とはチームワークという概念が異なるのでしょう。

その意味で、
「朝まで生テレビ」の放送開始の頃は、ひどかったですね。
ほとんど、議論というより罵声の浴びせ合いで口喧嘩のようでした。
しかし、最近の論客はそれにも慣れてきたのか、その混乱を超えた感があります。

そして、それ以上に、
論客自身が、会話によって議論によって自省しているように思えるのです。

議論は、人間が内在させているカオス的なものを、
誰かに向かって発言しはじめたと同時に、その言葉によって自らが縛られますよね。
それで、またそれに鎧を着せるが如く、論理的な正当化を狙う。
こうして、自分の意見を増幅させながら発言を繰り返すうちに、矛盾をきたしたり、
発言当初は思ってもいなかったような結論に至ることもあるというように、
自省する効果が、議論にはあるような気がするのです。

で、
こういった集団的議論の場において強いのは、
そのカオスをそのまんま表に出せる人だと、思ったのです。

論理的には矛盾しようが、自身のなかで考えたこと、思ったことを
硬も軟もなく、右も左もなく、保守も革新もなく口にできる発言力がないと、
こういった場では人への影響力もありません。

その意味で、
議論しながら、破滅的な発言をしている人の方が目立ちますし、好感をもちます。
背負った論理のフレームから逸脱しないで話している人の話は面白くありません。

そこで振り返ってみれば、
田原総一郎さんという司会者は、司会者でありながら破滅型でしょう。
しかし、彼の持っているカオス自体が、我々の現在であり実態なのだと思います。
だからこそ、議論の勝ち負け以上に、わたしたち視聴者自身が自省を起こすことと、
新たな切り口の発見に、この番組の価値があるのではないでしょうか?

このカオス的なものこそが、“ 生 ” である価値ではないかと思うのですが。





愛車

2011年10月20日 22:03

愛車

この車を買ったのは2000年の秋でしたから、11年になります。

この車で、21世紀の初日を迎え、
2001年の元旦に横浜で「連獅子」の仔獅子を踊った息子Kの舞台を観に行きました。

アメリカへ留学する16歳の息子Yを成田空港へ送って行ったのも、この車でした。

以来、息子Yが帰国する度に迎えに行き、またアメリカへ戻ってゆく度に送って行き、
夫婦二人無言のままに、この車で家に帰ってきたものでした。

車のなかで、夫婦喧嘩したこともありました。

買い物は、いつもこの車でした。

被災地に行ったときには、ボランティア仲間を乗せて山道を走りました。
そして夜になると、シートを取り外したこの車の中で幾晩も寝ました。

何度となく、遠出もしました。

里で産まれた孫娘が、初めて東京にやってきたのも、この車に乗ってでした。


そんな、この車と、きょうでお別れです。

エンジンと云えば、人間で云えば心臓も同然。

もう少し、乗せてもらえるかと思っていましたが、ダメのようです。


これから、この車はどうなるのでしょう?

中古車として、再起できるのでしょうか?


いずれにしても、長い間、お疲れ様でした。

大きな事故もなく、たくさんの思い出を乗せて走ってくれました。

ありがとう、わたしの愛車。


ことしは、別れの多い年です。





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