クレーマー

2010年10月31日 18:44

クレイマー、クレイマー」と言えば、ダスティン・ホフマン主演の映画ですが、
きょうのお噂は、クレーマーについてでございます。

むかし、わたしが制作者になりたての頃のことでございますが、
小さな劇場で公演を行なっておりましたとき、終演してから、
お客様に苦情をいただいたことが、ございました。

「隣で観ていたお客が、なにか食べながら観ていたけど、
 なぜ注意しなかったの


と、おっしゃるのです。
文章にすれば疑問符が付きますが、質問していらっしゃるワケではなく、
明らかにお怒りになって、苦情をおっしゃっていたので、ございます。

劇場は、大変狭い空間で、
狭いところに窮屈にお座りいただかなくてはならない公演でした。

そのお隣で、なにか食べながら観ている人がいたというのは、
その食べながら観ていた人も肝が据わった人だと思うのですが、
お隣やお近くに座った方たちにとっては、ご迷惑だったと言わざるを得ません。

しかし、
開演前に、何度か飲食を控えてくださるようアナウンスもしていましたし、
飲食が出来ない旨の掲示もしてありましたので、
その苦情を劇場や制作に向けられても、という思いで、
お客様のお話を聞いておりました。

そして、
注意はしているが、気づかぬところでそういった振る舞いをする人がいたら、
ご自身で注意されたらいかがですか?というような趣旨のことを言ったから、
さぁ大変・・・それが、いけなかったのです。

お客様は、そういった抗弁をするわたしの態度に次第に硬化され、
激しく抗議されるようになってしまったのです。

そこへ、劇場の経営者でもあるプロデューサーがやってきて、
わたしの代わりに、そのお客様の相手を始めました。

「なるほどねぇ・・そうでしたか」
「いやぁ、そりゃタイヘンでしたねぇ」
「それはけしからんなぁ・・」
「それは、とんだ災難でしたねぇ・・」


などと、プロデューサーが相槌を打っているうちに、
お客様は、次第に穏やかになられて、静かに帰っていかれました。

いつの間にか、事はお客様の“とんだ災難”になっていたのでした。

もし、わたしが最後までお相手していたら、どうでしょう?
多分、事は大事になり、劇場としての問題に拡大していたことでしょう。

ここで、わたしは学びました。
クレームは、まずは受け捕ることが大切であると。

そのときのプロデューサーとは、かみさんの父なんでありますが、
いまそのときのことを言ったら、
「そんなコトあったかなぁ・・・忘れちゃったなぁ、むかしのコトは」

多分、そう言うと思います。
頓着しないんであります、何事にも。



スポンサーサイト

「森の石松」

2010年10月30日 22:28

アラン・ドロンアテレコで有名だった、
野沢那智さんが亡くなったのだそうですね。

アテレコ野沢那智さんが有名ですが、
劇団薔薇座の主宰者としても、演出家としても活躍された方でした。

声のお仕事は、俳優の仕事に比べ、
下に見られがちなのですが、野沢さんは、
声のお仕事で一世を風靡された、キーパーソンのお一人だったと思います。


さて、かみさんと、台風の中或るイベントを観に行ってきました。

新宿区の或るお寺の本堂を舞台にした公演でした。
きょうも、やはり学生時代の後輩が主催した公演です。

モチーフは、森の石松

以前にも書いた覚えがありますが、
わたしの実家が在る、浜松都田森の石松の死地だと謂われています。

実家近くには、浪曲では閻魔堂とされる、お稲荷さんの祠が在りました。
そこに隠れていた石松が、都鳥一家に殺されたという謂われがありました。

また、その祠から都田の町に下った坂の途中に、
都鳥一家の家が在ったとされる場所が遺っていたのを憶えています。

ホントかどうかは、判りません。

しかし、そんなことが理由であったワケではありませんが、
わたしが中学生の頃、二代目広沢虎造の浪曲にハマッたことがありました。

なかでも、「石松三十石船」は、何度も聴いて憶えて語っておりました。

その「石松三十石船」をモチーフにした、パフォーマンスの公演でした。

公演を主催・主演した後輩のH田君は、
声優・ナレーターの中堅として活躍している人ですが、
失礼ながら、お仕事以外に、やはりやりたいことがあったんだなぁ・・と思った次第。

懐かしい謂い回しに、また虎造を聴きたくなって、帰って参りました。

話芸「清水次郎長伝
日本人に生まれてよかったというのは、こういうことです。

日本の伝統芸能〈浪曲〉清水次郎長伝 石松金比等羅代参,石松三十石船/二代目広沢虎造日本の伝統芸能〈浪曲〉清水次郎長伝 石松金比等羅代参,石松三十石船/二代目広沢虎造
(1995/09/10)
広沢虎造(二代目)

商品詳細を見る


決定盤 清水次郎長伝決定盤 清水次郎長伝
(2008/06/18)
広沢虎造広沢虎造(二代目)

商品詳細を見る




富貴在心

2010年10月29日 19:09

秋季美術展 011

東京・霞ヶ関お昼過ぎ、
日比谷公園の向かい側に在る弁護士会館。
Yさんの油絵と押し花絵を拝見するために伺いました。
                                  秋季美術展 008
秋季美術展 009

Yさんは、学生時代の後輩です。

いまも、アマチュア劇団やコンサートの演出をしたり、
こうして絵画や押し花絵をなさったり、人が集まるところ役を担ったり、
かなり精力的に活動していらっしゃいます。

「先輩、素人の作品だから大丈夫ですよぉ」
と、おっしゃってくださったので、恐縮ながら載っけちゃいます。

秋季美術展 007

           秋季美術展 002

秋季美術展 003

                          秋季美術展 004

ご主人が、弁護士をなさっているので、
この弁護士会四会共催の美術展(今年で35回目)に出展されるのです。

ですから、出展されている作品は、
全て弁護士ご自身やそのご家族、或いは関係者の作品です。

洋画日本画水墨画俳画ボタニカルアート銅版画
写真手芸陶芸彫硯鎌倉彫盆石和紙ちぎり絵
押し花絵絵てがみトールペイントアートフラワー生花、など。

秋季美術展 006

秋季美術展 001

わたしの右側の絵が「母のお人形」というタイトルの作品なのですが、
その絵の隣2点が、Yさんに油絵と押し花絵を仕込んでくださった母上の作品。
「プルメリア」とダイヤモンドヘッドをバックにした「ハワイの海」です。

お土産に、押し花絵で造った来年のカレンダーを頂きました。
思いがけず、感激であります。

お昼を過ぎておりまして、
Yさんに因んで、というワケではありませんが、
お腹がすいていたので、日比谷公園の「松本楼」に寄りました。
※解かる人には解かるのであります。

秋季美術展 012

「松本楼」と言えば、「孫文」ですが、
きょうのわたしは、「ハイカラビーフカレー」なのであります。

ハイカラビーフカレー

松本楼の創業者で、孫文の中国革命(辛亥革命)をサポートした、
梅屋庄吉の座右の銘は「富貴在心」、豊かさや尊さは心の中に在る。



パブリックサーバントのつづき

2010年10月28日 19:30

先日のブログのつづきなのですが、
きょう、或る自治体の或る部門の責任者の方が、
担当者を伴なって、或る問題のご相談で訪ねていらっしゃいました。

ご相談の中で、こんな話が出てきました。
或る事柄について、
ほぼ日常的に担当窓口に苦情が寄せられている現状があるということでした。

それは、私が思うに、自治体が色々な決まり事を作っているからでしょう。
したがって、住民はなにかある度に、その窓口にクレームを持ち込むのです。
その窓口業務はほぼそんなクレーム処理ばかりやっているということでした。

そこで、こんな例を思い出して自治体の方たちにお伝えしました。

先日のコトです。
我が家の道路に面した敷地は駐車スペースなのですが、
ゴミボックスを設置して、近隣のゴミ置き場として提供しています。

そのゴミボックスの中を、横の水道ホースで水洗いしておりましたら、
我が家のゴミボックスにゴミを出しておられる近所の奥さんが通りかかって、
「すみません!わたしもお掃除しなくちゃと思っていたんです」
とおっしゃるのです。

そこで、私はすかさず
「気にしないでください。ゴミ置き場のことは放ったらかしてますから」
と応えたのですが、“しまった!”と思った、という話を自治体の方にしました。

それは何故かと言いますと、
ゴミ置き場を提供している家が、ゴミに関して神経質だと思われたら、
ゴミを出しづらくさせてしまうと思っているからです。

ゴミが出しづらくなった人は、また別のゴミ置き場を届け出てしまうかもしれません。
そうなると、どんどんゴミ置き場が分かれて増えてしまいますし、
実際そういった理由で、ゴミ置き場が増えているのだそうです。
豊島区でも、年間約500箇所のゴミ置き場が増えているということを訊きました。

その地域に住む人々の環境として、それはよいこととは思えません。

世の中には、ゴミを出す時間帯やら、ゴミのまとめ方について指示し、
それでも指示に従わない人がいれば、張り紙したり決め事を作ったり、
果ては、人の出したゴミ袋の中のチェックまで始める人がいるのだとか。

つまり、折角ご近所のためと思って始めたことなのに、
かえって、ゴミを出す人たちを管理し過ぎて、
かえってゴミが出しづらいと思わせてしまうということが起こりがちです。

ですから、我が家はゴミもゴミ置き場も放ってあります。
基本的な管理はしますが、それをなるべく近所には見せません。
それが、ご近所の負い目になってしまうかもしれないからです。

しかし、そうしていても問題は起こったことがありません。
皆さんが、自主的に配慮してくださるからです。


つまり、自治体の方たちに申し上げたのは、
「決まりで住民を縛るから、公共意識は忘れられてしまって、本来住民の問題が、
 役所が担当する問題へと問題の主体が移ってしまうのではないですか?」
と、いうことでした。
クレーム処理が自治体のお仕事になってしまったのは、
それが原因ではないかと思ったからです。

自治体にとっても予算が少なくてすみ、効率的で、クレームがこない。
住民にとっては、便利になったという満足感があるような、
そんな魔法のようなことを考えるのが、知恵であり、
それがパブリックサーバント本来の仕事なのではないでしょうか?

国のパブリックサーバントの仕事が仕分けの対象になっていること自体、論外。
何をか謂わんやです。



こ、声が・・・

2010年10月27日 17:21

千登世橋

午前中、目白駅で待ち合わせて、或る素敵な方とお話した帰り道、
千登世橋から見た景色ですが、久しぶりに、秋晴れのいいお天気です。
但し、きょうは気温が下がって、空気が冷たい一日でした。


声が出ません!

いや、声は出ます、出ますが、うまく出ません。

きょうのコーチングセッションの冒頭、クライアントさんから指摘されました。

「三浦コーチ、お風邪ですか?」


声がおかしいのは、昨日の朝からつづいています。
風邪ではありません。
近年、ちょくちょく起こる現象です。

わたしが思うに、声帯が痩せてきたことが原因ではないかと・・・。


人の体は、咽頭腔中央の壁から声帯ヒダという帯状のヒダが広がっているのですが、
その左右の壁から広がる声帯ヒダの間にある裂け目を空気が通過する音が、
声帯ヒダに伝わり震動することで、それが声になるという構造を担っています。

そのヒダを声帯、裂け目を声門裂といいますが、両方を合せて声門といいます。
つまり声が出る門なのですが、声門を調節し声帯を振動させることで声が出るのです。

そのヒダが痩せてきた(裂け目が広がった)、また硬くなっているのではないか?
というのが、素人判断ですが私の推察です。

加齢もありますし、声を出す訓練をやめて久しいですからね。

それに加えて、気づかないうちに、身体に力が入っていることが増えました。
肩が凝るとか、疲れが抜けないというとき、脱力ができていないものですからね。
知らず知らずのうちに、肩や首に力が入っていて、ノドを締め付けたり、
身体を硬くしているから、声がますます響かなくなるのだと、思います。

声が出ない、響かない、届かない感があると、煩わしいですよぉ。


むかし息子に、
「わざわざ腹式呼吸使って話さなくていいよ。ここは舞台じゃないんだから」
と謂われたほど、声を響かせて話してしまうことがありました。
大体興奮すると大きな声で、加えて響く発声で話す癖があったようです。

声が出にくければ、息子たちには「丁度いいや!」と言われるかもしれません。


今日はこれから、
月に一度の異業種交流会FTNの例会が行なわれます。

わたしが、進行役を担うのですが、はたして声は出るでしょうか?

池袋の会場まで歩いてゆくので、
久しぶりに「外郎売り(ういろううり)」のセリフでも練習してみましょうか。


懐かしくなるオムライス

2010年10月26日 02:30

昨日の午後のことですが、
目白通り沿いに在る、近くの「caf'e M」に、かみさんと行ってきました。
「caf'e M」のMは、イニシャルの頭文字ですから、ホントは漢字二文字。

その「caf'e M」のオムライスを食べに行ったのです。
「caf'e M」のUさんが作るオムライスはシンプルですが絶品。

かみさんが食べたオムライス
こちらは、かみさんがいただいたオーソドックスなオムライス。

わたしが食べたオムライス
こちらは、わたしがいただいた、ふわっとろっのオムライスです。


そういえば、先日もオムライスの話題で書きましたね。
日本橋の本店ではありませんが、三越新館地下に在る「たいめいけん」です。
そう!わたしはオムライスに目がないのです。それもケチャップの・・・。

銀座の歌舞伎座の正面の右隣に在った喫茶YOUは、移転したようですが、
こちらのお店もオムライスが有名でした。
ひと月興行の歌舞伎座の楽屋から出前をとって、
週4回も5回もここのオムライスが好きで召し上がる俳優さんもいらしたようで、
わたしも歌舞伎座演舞場に行った折には、度々いただきました。
喫茶YOUのオムライスは、
ふわっふわっに丸まったオムレツがケチャップライスの上に乗ったもの。
そのふわっとした卵にスプーンを入れると、とろりっとした半熟卵が流れ落ちます。

他にも、世間にはオムライスが美味いお店は沢山あるでしょうが、
私が忘れられないのは、池袋東口に在った「文芸坐の喫茶店」のオムライス。
手前味噌になりますが、「文芸坐の喫茶店」は、昔かみさんが始めたお店です。
わたしも文芸坐時代には、オムライスをよく食べました。
というか、「文芸坐の喫茶店」はカレーも人気でしたけど、
わたしは、オムライス以外は食べたことがなかったかもしれません。
そのくらい好きでしたね、「文芸坐の喫茶店」のオムライス。
こちらは、ハムと玉ねぎとピーマンとマッシュルーム入りのケチャップライスを、
卵で美しく包んでありました。

そのかみさんの古くからの友だちが、「caf'e M」のUさんです。

その「caf'e M」が突然ですが、昨日で閉店したのです。
つまり、わたしたちは「caf'e M」のUさんの作る最後のオムライスを
食べに行ってきたというワケです。

お店のオーナーの事情で閉店を決めたのだそうですが、
お店には、UさんとUさんの料理を惜しんで来店した人たちが
次々に訪れていました。

ふわっとろっ

なぜか私の好きなオムライスが、次々に懐かしい存在になってゆきます。



夫婦のもつ鍋

2010年10月25日 02:32

昨夜は、もつ鍋をいただきました。


昨日は、二人とも珍しく一日予定がなかったので、
かみさんは、午前中寝室から出てきませんでした。

彼女も、夏の疲れが出たようです。

「ゴメンネ、お腹すいちゃったよね」

と言って、午後2時過ぎに降りてきたので、
わたしが、「何か作るよ」ということになりました。

池袋に用事があったので、ついでに西武デパートに寄りまして、
物色しているうちに、「白もつ」を見つけ、美味そうでしたので、
「もつ鍋」を思いつきました。

もつというのは、牛の小腸です。
コラーゲンが豊富な感じが、美味そうに見えたのでしょう。

それと、鳥のぶつ切りを買いまして、帰宅しました。

「もつ鍋」は、玄人のお店では分かりませんが、素人には簡単な料理です。
もつは、水でかるく洗って、湯どおしします。

牛の白もつだけではと思い、鳥のブツ切りを入れました。
牛もつと、鳥ブツのコラボ鍋です。
そこに、ニラと九条ねぎとセリを入れ、キャベツをタップリ入れます。

アッという間に出来上がり、アッという間にいただきました。
・・汗が出ます。

酒をゆっくり飲む間も、ありません。


こういう時間が増えました。
かみさんと、二人きり。

子供たちのために、腕を振るうということも減って、
自分たち二人が食べたいと思ったものだけを、サッと作って終わり。

話題も、息子たちの事から嫁と孫の事に変わっています。


おじやの用意をしていたのに、
お腹一杯になったわたしは眠くなっちゃいました。

かみさんが、
「あとでおじやしようね」
と云ってくれて、うつらうつらしてしまいました。

暫くして、
かみさんが作ってくれた、おじやをいただきました。


こうして、いつもかみさんと居られることの幸せにも、
限りがあるのだということを、意識する歳頃になりました。

もっと一緒に居たい。
こんなに、一緒に居るのに・・・。



古いサッカーボール

2010年10月24日 19:00

奄美大島の降雨被害に対して、
なにもしていない自分を後ろめたく感じながら、このブログを書きます。


昨日の、つづきです。

私は、十日ほど東京に帰ってから、また新潟に戻りました。

気になっていたAさんのお宅を訪ねて、
「お手伝いできることがあったら、なんでも言ってください」
と言い置いてきましたところ、

翌日、山形県の老人ホームに勤務されているボランティア仲間のJさんと二人で、
行政やボランティアの援けを借りずに自助努力されているテント村で、
そこのリーダーの方のお話を伺っている最中に、本部から連絡が入りました。

「Aさんから電話で、三浦さんに頼みたいことがあると言ってきた」
ということでした。

Jさんと二人で、Aさんのお宅に到着すると、
「昨夜の風の影響で庭に杉の葉が落ちてかなり体積してしまったので始末したい」
「崩れそうな土蔵の横に積んである古材を焼却するのを手伝ってほしい」
と言う依頼でした。

しかしAさんは、
「話し相手になって欲しかったの」
とも言われました。

早速、土蔵の壁沿いに積まれた古材を庭の前にある小川の土手に運びました。
そして、庭中に積もった杉の葉も、熊手でかき集めては、土手に運びました。
それらを、小川の土手のところで燃やしました。

勢いよく古材が燃え出して、ひと段落したころ、
「一休みして」と言われて、
Aさんと母上と妹さんに、お茶とみかんとりんごをご馳走になりました。

美味そうなみかんだったので、自分はみかん農家の出身だと伝えました。
そんな話がキッカケとなって、Aさんのお話しを伺うことになりました。
既に知っていることも少なからずありましたが、地震直後のお話しから、
ご主人のお話し、避難してこられたご親戚の話し、それらです。

そしてこれは初めてお聴きしたのですが、
Aさんは9年前に当時21歳だった一人息子さんを交通事故で亡くされていました。
結婚して、やっと授かった息子さんだったそうです。
そのショックも癒えぬ間にお父上が亡くなり、
去年は、医療ミスからご主人が下半身マヒ。
そして今回の震災に遭われたのです。

そんな深刻なお話しをされているのですが、明るく朗らかに語られるのです。
語られている内容と、その朗らかさとの落差が不思議でした。

そうやって明るく振舞うことで、ご自分を奮い立たせているようです。
このご家族は、このAさんを中心に成り立っているということを、
ご本人が一番自覚されているのでしょう。

休憩というには、かなり時間が経っていましたが、
私には、作業を進めることよりも、
Aさんのお話しをお聴きすることの方が、大事に思えました。
しかし、ご近所の方が訪ねてきて、お話しは途中で遮られました。

さて、また作業を再開し古材や杉の葉を燃やしていた私のところに、
杉の葉に混ざってサッカーボールが一つ運ばれてきました。

古いものでした。

きっと、亡くなった息子さんのものだろうと思いました。
それを燃やしてほしいということでした。

この9年間ずっと庭に転がっていて、
それはAさんの目にも映っていたであろうこのボールを、
燃やす気になられたのはどうしたことだったのでしょう?
Aさんのお気持ちになにが起こったのでしょうか?

私は、ボールを火の中に置きました。
掌を合わせ「君のお母さんを守ってあげて」と祈りました。


17時を過ぎて、すっかり暗くなったので作業を終えますと
「ご馳走したい、泊まっていって」と言われましたが、
ボランティアには、それが出来ません。
それに、私はその日中に東京に戻らなければならず、お暇しました。

Aさんは、どこのなにをやっている三浦かご存知ありません。
「また来てくださいね。今度はボランティアじゃなく来てくださいね」
と言われました。


昨日、ボランティア本部が在った某市の団体からメールが届きました。
「あれから6年が経ちました。復旧から復興に歩みを進め、
 地震の傷跡はほとんど癒え、震災前と変わらない街並みを
 取り戻しつつあります。
 しかしあの日の震災を忘れることなく、全国の皆様への
 感謝の気持ちを忘れることなく、これからも歩んでいきたい
 と思います。」

と書いてありました。

わたしは、あの村へも、
Aさんのお宅にも、今後伺うことは、ないと思います。

中越地震・ボランティアの経験

2010年10月23日 17:19

6年前のきょう10月23日17時56分、
新潟県中越地域を震源とする大規模な地震が起こりました。
新潟県中越地震です。

去年のきょうも「物語を聴くということ」という、ブログを書きました。

今年も、
わたしが、あの年に経験したことを、皆さんにシェアしたいと思います。


6年前の11月中旬わたしは、新潟県某市の災害ボランティア本部にいました。

本部で参加登録する際、得意分野・専門分野を自己申告するのですが、
私はワゴン車を持参したことと、コーチである旨の申告しましたら、
創設されたばかりの「看護・介護チーム」に配属されました。
そのチームは、活動に関して試行錯誤が始まったばかりの状況でした。

そんな中、私が本部から請けた指示は、
「まだボランティアが入っていない山間部集落に行って、
 精神的に落ち込んでいる人の“心のケア”をしてきて欲しい。
 併せてその地域住民のニーズを引き出してきて欲しい」

という内容でした。

そんな或る日、わたしのチームに参加してきたKさんは、
20代の青年で、奇遇にも私の実家の在る浜松から参加していました。
Kさんの仲間3人は、勤務する特別養護老人ホームの同僚たちでした。

その日、我々は2人1組で或る集落を回って、住民の方たちのお話を伺いながら、
お困りのことなどをまとめようとしていました。

これは、その日最後の本部への報告をまとめようとしていたときのことです。

その日は、KさんたちがAさんのお宅に伺ってお話を伺いました。
Aさんのご主人は、脊椎損傷で前年から下半身がマヒした状態で車椅子です。
Aさんの妹さんも障害があり、あとはお元気には見えたそうですが高齢の母上、
という4人暮らしのところに地震が起こりました。

全員怪我もなく家の倒壊も免れたものの、修理が必要な状況です。
そこへ、山間部の集落からご主人の親戚一家を引き取ることになり、
Aさんの生活は一変します。

まず食事の用意。
親戚一家の分は配給があるのですが、毎食避難所までそれを取りには行けません。
家計も苦しくなりましたが、親戚には子供たちがいました。
入院した夫は、病院から何度もメールや電話で病院に来てくれと言ってきます。

壊れた蔵の中の片付けをしようとは思うのですが、
夫の物をどう整理したらいいか判らず、中途半端なままになっています。

Aさんは、時間を奪われて働きに出ることも出来ず、収入は無くなり、
家事と問題一切がAさんの肩にかかってストレスが溜まっているようだった、
というKさんの報告でした。

そこで、ボランティア本部に、
Aさんに対して出来るサポートとして、どのようなことが提案出来るか、
皆さんに質問したところ、
①Aさんの代わりに、避難所へ配給をとりに行くことは出来るのではないか。
②旧い蔵の片付けと、整理を手伝えるのではないか。
という応えが返ってきました。

そこで私は、Kさんに更に質問しました。

「Aさんが語っている内容は、
 親戚のことも、蔵の整理についても、ご主人の入院する病院通いも、
 全てご主人に関係している事ばかりのように聴こえます。
 Aさんのストレスの元を取り除くために、出来ることはないでしょうか?」
するとKさんが発言しました。

「ボランティアが病院に行き、ご主人の話し相手になったらどうでしょう?」

ビンゴ!

我々は、早速本部にそのことを提案しました。


つづく

「うしろすがた」

2010年10月22日 22:06

うしろすがた

舟越カンナ展 「うしろすがた」 を観に行ってきました。

所謂、演劇科の後輩です。
ずっと、描いたり、書いたり、訳したり、造ったりしている人です。

翻訳 「牧師館のスイートピー

ところで、
演劇科を出た人たちは、ほとんどの人が現在演劇から離れています。
勿論、演劇を生業にして生活するのは難しいですし、
様々な才能のなかで、“続ける才能”が必要な職業だからなんでしょう。

斯く言うわたしも、演劇を辞めたつもりもありませんが、距離が出来ました。

演劇といっても、
俳優を辞め、劇作家になった人もいますし、それ以外にも
制作者、演出家、音響家、照明家、美術家、衣裳、劇場スタッフ、
声優、司会業、プロダクション経営、俳優養成、大学の先生・・・
と、いろいろです。

かみさんも、むかし日本舞踊と演劇をやっていましたが、
現在では、フラとフラダンスに華を開かせています。

事ほど左様に、
むかし演劇科を出た者が、四十・五十を過ぎてから、
別の分野で開花・結実しているという例は、枚挙にいとまが無いのです。

最近、秋になった所為もあってか、
旧知の人や友人から、様々なご案内をいただきます。

勿論、お芝居の公演はもとより、
シャンソン・ジャズ・フォルクローレ・・・、
油絵・押し花・銅版画・・・、
詩・俳句・朗読・・・、

ご趣味か、お仕事かは別として、
ホントに様々な才能を発揮されています。


同窓会の会長をやっているかみさんが、以前言っていましたが、
意外と、演劇科出身者に女性経営者が多いのだとか。
確かに、すぐに会社やお店を経営している人の顔を10人くらい思い出せます。

経営者ではなくても、
お勤めしたり、子育てしたり、介護をしたりする生活の中から、
ご自分の適性を見つけたとおっしゃる方は多くいらっしゃいます。

この頃よく、あの二十歳前後の数年間は濃かったなぁ・・と思います。
あの頃に経験したり、吸収したものがなんであったのか・・・、
最近になって、やっと解かったような気がしています。


ところで、
舟越カンナ展「うしろすがた」は、
小ぶりなキャンバスにアクリル絵の具を主に使って、
作家が、家族、友人、知人などの「うしろすがた」を描いたシリーズだそうですが、
父上もご兄弟も彫刻家、母上は画家というご家庭に育って、
どなたの“うしろすがた”を追って、どなたの“うしろすがた”を描いたのでしょう?


日程: 2010年10月19日(火)~2010年10月25日(月)
時間: 12:00-19:00
料金: 無料
会場: 3331 Arts Chiyoda

パブリックサーバント

2010年10月21日 23:12

固有名詞を出して、問題提起することは望まないので、
分っちゃうかもしれませんが、あえてボカシた表現の仕方をしますから、
ご了承ください。


生活しているなかで、わたしが或る提案を行なったと思ってください。
それは、或る地域の人々の生活上の事を考慮して、提案したものです。

最初は、或る業者にその提案をしました。
しかし、業者はそれを失念したのか、意図的に無視したのか分りませんが、
兎に角、住民にはわたしの提案を知らせずに、或る自治体に届けを出しました。

そんな提案があったことを知らぬ自治体の担当窓口は、届出を受け付けました。
やはりその提案の存在も知らぬ住民は、届けのまま行動することになります。

そんな事情を知らぬわたしは、どうしてわたしの提案が受け入れられないのか
業者に問い合わせましたところ、行政の窓口で現状のようにせよという“指導”
を受けたからだ、という説明でした。

そこで、わたしは行政窓口に、そんな“指導”をしたのかという質問をしたところ、
“指導”したワケではなく、現状を訊ねた時点での業者の説明には、
三浦さんからの提案が含まれていなかったので、
業者の届出のままに受け付けただけなのだ、ということでした。

わたしには、どうもお互いに相手の所為にしているように思われました。

そこで、それでは届出を受け付けた前提が違ったのだから、
その届出前の時点に立ち返り、住民の皆さんに経緯を説明してほしい。
ついては、あらためて直接わたしが住民の皆さんに提案を行なう用意もあります、
と要望したのですが・・・

それは、民間で直接やりとりしてほしい。一度届けを受け付けた以上、
窓口の立場では、民間には立ち入れない、という応えでした。

でも、オカシイでしょ!
立ち入れないなら、そもそも何故その届出を受け付けているのでしょう?

結局、これは地域全体の“その問題”に関する行政としての姿勢に関わる事だから、
それについて、行政担当部門として正式に応えてほしいと要望させて頂きました。
我が家に訪ねていらしたお役人は「解かりました」と言ってお帰りになりました。


わたしは、行政にとっても住民にとっても最良と思われる提案をしているだけです。
公共の問題とは、行政の問題でもありますが、住民の問題でもあるのです。
どちらもが、相手に押し付けてしまうから、なかなか問題が解決しないのです。

なにが最善かを、行政も住民も問題を共有して知恵を出し合うことが
公共ということなんじゃないでしょうか?


比喩ですが、
わたしは、わたしの家の庭に水が出るのであれば、喜んで井戸を掘ります。
そして、できれば地域の人たちにも水を飲んでもらおうと思っています。

解かりました?なんのこっちゃ解かりませんよねぇ?
言いたいんだけどなぁ・・・



長岡輝子先生の思い出

2010年10月20日 18:20

演劇界にも、訃報がつづきます。

東恵美子さん(85歳)
藤田まことさん(76歳)
北林谷栄さん(98歳)
佐藤慶さん(81歳)
南美江さん(94歳)
池内淳子さん(76歳)
谷啓さん(78歳)
小林桂樹さん(86歳)
池部良さん(92歳)

それに、
つかこうへいさん(62歳)
井上ひさしさん(75歳)

そして、長岡輝子さん(102歳)


1999年の春ことです。
私は、その年の4月の公演を控え、長岡輝子さんのご自宅へ伺いました。

公演は、テネシー・ウィリアムズの「ガラスの動物園
1969年の文学座公演で、演出と母親のアマンダ役をおやりになった
長岡輝子さんに、そのときのお話を伺いにお邪魔したのです。

確か、そのとき長岡さんは87歳でした。

応接間でお待ちしていると、
「ごめんね。少し足がわるいものだから」
とおっしゃりながら、お独りで二階から降りていらっしゃいました。

87歳という御歳には見えないばかりか、
その場が明るく華やかになったように感じたのが印象的でした。
まさに、そこにアマンダが登場したようでした。

どうして「ガラスの動物園」をやりたかったのかという話題になったとき、
長岡さんは、こんな話をしてくださいました。

登場人物のアマンダ(母親)とご自分を重ね合わせてみたら、
時代的に共通点があったので、興味があったということでした。
それは、日本でも女性が自立し始めた時代だったという点で、
当時、お金持ちの奥さんやお嬢さんが、運転手や家庭教師と駆落ちする
なんていうことがあったので、登場人物の母親役アマンダも
そういう過去を持っているんではないか、と思われたということでした。

そして、
「アマンダの気持ちも、登場人物たちの気持ちもよく解かる芝居よね。
 全然難しいところが無い、解かりやすい芝居でしょ?」
とおっしゃったのが、印象に残りました。

また、1969年に来日したテネシー・ウィリアムズに、
初めて会ったときのことを伺うと、

「思ったより、小柄な方でね。彼は連れてきた子犬の話ばかりしていたわ。
 ニセモノだけどダイヤの首輪をした犬だったの。
 彼、ホントは引っ込み思案なんじゃないかしら?
 わたしが女だから一所懸命に話してくれたけれど・・・、
 でも話したのは、犬のはなしばかりだった・・」

こんな、貴重にも楽しいお話が延々つづいたのでした。


長岡先生、ありがとうございました。

合掌




最新記事