東京の母

2009年06月30日 17:49

大学の前に昔っから、K  軒は在ります。

おばさんが、独りでやっている中華料理店です。
ラーメンが350円、K  軒では時間が止まっています。

梟


授業のある日は、このK  軒でお昼をいただきます。

大体お昼どきは、常連の人たちで混んでいます。
常連さんは、学校の先生や職員の方たちが多いのですが、ここでは皆セルフサービス。
自分でコップに水を汲んで、料理は自分で運び、食べたら食器を下げて帰ります。

私が入っていくと、注文するより先に“まかない食”が出てきました。
きょうは、イカのフライとタコとキュウリの酢の物でした。
私は、チャーハン(ここのが私の好物)を注文しました。
これも、最近注文を受け付けてくれるようになったのですが、
チョッと前まで注文しなくても“まかない食”が出てきたのです。

食事が終われば、「これ、食べなさい!」と言って、
お菓子が出てくる、フルーツが出てくる、珈琲が出てきます。

きょうは、塩キャラメルと小玉スイカと珈琲を出してくれました。

お昼の喧騒がひと段落すると、おばさんも腰を下ろして珈琲を飲みながらおしゃべり。

こんな習慣も、私が母校の授業を請けもってから復活して、現在4年目になります。


私が学生のころは、おじさんとおばさんが二人でやっていたのです。
のんびりマイペースのおじさんで、出前を頼むと大概麺はのびていました。

私は、学生時代からこの店に入り浸り、おばさんと話すのを楽しんでおります。
別になにを話すってこともないのですが、お互いに歯に衣着せぬ言い方で話せる
数少ない相手なのです。

息子の歌舞伎も観にきてくれますし、外で食事をご馳走してくれたりもします。
私は、“東京の母” だと思っています。

ただ、困るのは、決して代金を受け取ってくれないこと。
払おうとすると、怒ります。・・・こんなこと、書いちゃっていいかなぁ? 
(これ読んだ方、おばさんに言わないでくださいネ  )

昔、私が若く、お金が無く、腹が減って、痩せていたときには代金受け取っていたのに、
今、中年で、多少余裕があって、腹が出っ張って、痩せたいときに 「これ、食べな」
「これ、飲みな」 「お金置いてったら、承知しないよ」って、そりゃないじゃん。


私と同じように、学生時代からこの店の常連だったという人は沢山います。
外国で活躍している人も少なくありません。
その中に、おばさんの話に昔からよく登場する人がいます。

割り箸のような棒一本持って、大勢の人を動かす仕事をしています。

その人は、小澤征爾さんといいます。


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息子の誕生日

2009年06月29日 23:47

或る夕食

今夜は疲れていて、夕食後一眠りしてしまいました。


きょうは、午前中のセッションを終えてから、
午後は、契約が成立したクライアントさんと打ち合わせ。
このクライアントさんとは、長いお付き合いになると思います。

特にタイトなスケジュールでもないし、疲れるような動き方はしていないのにグッタリ。
この暑苦しい気候のせいでしょうか?


さて、きょうは特別載せる写真もなかったので、今夜の食卓を写してみました。

ビールに白ワイン、それとパン。

チャーシュー、しらたきの甘辛煮、野菜のピクルス、トマトのお浸し、

これらは、全てかみさんのお手製です。

そして、冷奴に蒲鉾とわさび漬けと、和洋折衷であります。


きょうは、息子Kの26歳の誕生日であります。

息子Kは、きょうも初日3日の7月歌舞伎座公演のお稽古でした。
きっと、みきちゃんと二人で新居でお祝いしたことでしょう。

私は、息子Kを産んでくれたかみさんに感謝しつつ、夕餉をいただきました。


夕食後、ボーッとしていたらかみさんが、

「元気が出るように、一曲踊ってあげよっか?」

すると、急に睡魔が襲ってきたのでございます。


2009年6月29日

愛という動詞

2009年06月28日 23:56

息子Yの友だちでKスケという子がいます。

息子Yの中学時代からの友だちですが、
息子が渡米してからも、よくうちに遊びにきてくれています。
遊びにきたときには、いろいろな話を聴かせてくれるのです。
ロサンゼルスに住んでいた息子のところに遊びに行ったりもしています。

そのKスケは板前の修業中ですが、去年結婚しました。
奥さんのRちゃんとは、同じ職場で知り合ったそうです。
結婚は、若い二人ということもあって、周囲には心配する人たちもいたことでしょう。
私は、息子の代わりにその披露宴にも出席させていただきました。


でも、この若い二人には、ご不幸もつづいたのです。
Kスケが結婚したときにはお元気だった彼にとって最愛のお祖父さんが
披露宴からひと月もしないでお亡くなりになりました。
かなりご高齢でしたが、Kスケの結婚を見届けてから逝かれたのが救いでした。

しかし更に、そのお通夜でお見かけしたRちゃんの父上がその後急逝されたのです。
ご病気だったそうです。
私より若い方でお元気そうに見えたのですが、これには大変驚きました。


そんな悲しみの中でしたが、5月2日にお子さんが産まれました。
3,800グラムで産まれた男の子です。
日本にいた息子にKスケから連絡があって、息子は真っ先に病院に飛んでいきました。


そんなKスケとRちゃんが、きょう初めてお子さんと一緒にうちに遊びにきてくれました。
ここに、両親公認の写真を公開させていただきます。

        りゅうちゃん


                   寝る子は育つ
    りゅうちゃんの足
                   Rクンです


さて、辞書で“愛”という言葉を引くと、「名詞」とも「形容詞」とも書いてありません。
貴方は、どちらだと思われますか?

国や民族が違っても、ほぼ同じ“愛”という言葉は世界中に存在します。
しかし、原義としての“愛”という言葉の意味が、
その国やその歴史や文化によって違うのではないかと思うのです。

したがって、何が正しいかということを合意することは不可能でしょうが、
私は、“愛”という言葉は「動詞」だと思うのですよ。

そう思って「検索」したら、やはり同じことを言っている人がいましたがね。

KスケもRちゃんも、お祖父さんやお父さんを始め、これまで多くの人たちから
“愛されて”きたことでしょう。
その意味では、これまでの二人にとって“愛”「形容詞」だったのです。

しかし、これからは子供のことを、夫婦互いに相手のことを、そして周りの人々を
“愛する” “愛しつづける” という「動詞」として捉えてもらいたいと思います。

“愛する”ことは、“愛される”ことよりも数倍エネルギーが要りますが、
数十倍幸せなことです。


きょうは、久しぶりに赤ちゃんを見て興奮したので、
偉そうに教条的なことを書いてしまいました。

切腹と打ち首

2009年06月27日 21:02

テレビで、様々な公の立場にある人たちが謝罪しているのをよく見かけますね。


さて、私が俳優の卵で勉強をしていたころ、様々なメソッドに取り組みました。

俳優教育のメソッドの代表と言えば、スタニスラフスキー・システムが有名ですが、
その影響を受けたT先生の授業中に、こういう課題が出ました。

『切腹してみなさい』

凄いでしょ!「切腹してみろ」なんてなかなか言えない言葉ですが、
お芝居の世界では日常的にこのような言葉が飛び交っているのですからね。

貴方も演出家になったら、こんなこと言えちゃいますよ。

「眼で抱かれなさい」

「百回殺すように殺してみて」

「ここで雪の音をだしてください」


さて話を戻して、T先生の出された課題 『切腹』です。

学生が次々に切腹のマネ?エンギ?をしてゆきます。
大概の者は、顔を真っ赤にして力一杯に苦渋の表情を表しています。

すると先生が一人の学生の腹を指で押しながら「どう?イタい?」と訊きます。
学生が頷くと「私のこんな太い指でも押せば痛いからお腹に力をいれちゃうよね?」
「だから、腹筋が締め付けて刃が入っていかないんだよなぁ」
とおっしゃったのです。

眼から鱗とはこういうときに使う言葉でしょう。

つまり、切腹を正確に解説すれば「腹の力をゆるめて、腹を切り裂くこと」なのです。
お気張りやして、真っ赤な顔しはって、力一杯の演技してはるのんはウソなんどす。
つまりこれを“真っ赤なウソ”といいます。

昔、明治天皇崩御に際して殉死した乃木希典の場合、
妻の胸を突く介添えをした後、腹を十文字に割腹して、その上から曝しを巻いて
シャツのボタンを留め軍服を着て、あらためて頚動脈を切って果てたのだそうです。

ここにもし介助する者が居たら、乃木さんの首を切って介錯することが出来たでしょう。
ちなみに『打ち首』というのは似ていますが、罪人の首を切り落とすことで刑罰です。

そもそも切腹というのは、武士(サムライ)の責任のとりかたの一つ、
または筋の通し方のひとつですが、乃木さんの場合は追い腹といって殉死です。
しかし、もの凄い死に方ですよね、切腹は。


薬害問題、食品偽装、汚染米、個人情報漏洩、年金記録、汚職、そして冤罪。

この類の話の中身は、
謝って責任をとれるのかといった疑問が多く「こんなの、昔だったら切腹ものだ」
と文句の一つも言いたくなるというものですが、最近は、

「これって、昔なら打ち首ですなぁ」という内容が多くなったように思うのですが。

地球の重さは変わらない

2009年06月26日 18:30

今朝のマイケル・ジャクソンさんの訃報は、衝撃的でしたね。


さて、昨日私の健康保険証が届きました。

健康保険証

その保険証の裏面は、臓器提供の意思表示カードになっています。

臓器提供意思表示カード

臓器の移植に関する法律(臓器移植法)の第六条には、こう書いてあります。

医師は、死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないときは、この法律に基づき、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。

前項に規定する「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう。



医学博士で解剖学者の養老孟司さんが、
その著書「死の壁」の中で、こういうことを書いていらっしゃいます。

「死の科学的な定義付けが議論されて片が付いたと思っている人が多いのです。科学、法律の両面から検討して脳死についての意見が一致を見た、正しい結論が出たのだろう、と。実際は全然そうではないのです。<略>身体というシステムで繰り返されているサイクルの活動は、脳死のあとも続きます。<略>骨になってもある種の機能は残っていることになります。<略>結局、こういう細かいことは科学的に考えていくと定義は不可能です。」

養老さんは、“死”を定義することの逆説として
“生”を定義することの困難さも述べておられるのです。

「死の瞬間」は人間が“死”という言葉を創ったときに出来てしまった概念でしかない
のだから、実際には存在していないのではないか。
つまり、“死”とは、現時点では死亡診断書の中にしか存在していない、
(人間が勝手に決めた約束事というような意味)と結論づけされているのです。

養老さんに言わせれば、
古くなった皮膚が代謝によって新しい皮膚に代わっても、
周りからはまったく同じ人間であるように見えるのですが、
去年の自分の身体と、きょうの自分の身体は、
99.99パーセント入れ替わった別ものなのだそうです。

養老さんは、それをシステムとサイクルとおっしゃっているのです。


さて、きょうから、参議院本会議で臓器移植法改正案の審議が始まりました。
臓器提供の年齢制限をなくした改正A案は、衆議院では可決されましたが、
野党が多数を占める参議院で過半数を得て成立するかどうかが注目です。


人の生死については、人智の及ばない大テーマですよね。

しかし、きょうのマイケル・ジャクソンさんの訃報に接して私が思ったのは、
それでも、“地球の重さは変わらない”ということでした。


死の壁 (新潮新書)死の壁 (新潮新書)
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養老 孟司

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わのやTシャツ

2009年06月25日 17:43

5月23日のブログに、私の妹が主宰する「あつまり処わのや」のことを書きました。

その「あつまり処わのや」のオリジナルTシャツが出来たので、一着購入しました。
このTシャツの売上から1割をペシャワール会に寄付するのだそうです。
そこで、私も宣伝に協力することにしました。

みなさんも、一着いかがですか?          わのやTシャツ

Tシャツにプリントされているのは、篆刻文字です。
これは、篆刻作家である、私の従妹が彫ったものをTシャツに使っています。

           和顔既以暢
           和顔既以暢 (わがんすでにもってのび)
         和やかになった顔は、既に緊張を解いているの意味

                    心外無別法
                       心外無別法(しんげむべっぽう)
  三界の全ての現象は心によってのみ存在し、また心の創り出したものであるの意味


猫 猫のイラスト
花 花柄
しぼり しぼり柄

Tシャツは、ご注文を請けてから作るオーダーメイドです。
ご注文を請けてから染めるので時間がかかります。


【形 状】
男物は半袖のみです。
女物は半袖と、七分袖があります。

【サイズ】
女物は細身タイプなので通常よりワンサイズ大き目を注文してください。
ただしこのタイプはXLまでしかありませんので、
それより上は男女兼用タイプを指定してください。

【  柄 】
篆刻文字と猫のイラスト・花柄・しぼり柄などがあります。

【  色 】
濃紺・グレー・ピンク・他

【金 額】
3,000円

【送 料】
1枚240円。(2枚以上の場合はサービス)

【お申し込み】
?色
?サイズ
?ご希望の模様
?枚数(グループTシャツなど、まとまった数の場合は値引きします)
?宛名とご連絡先
?ご希望の発送形態
以上を明記の上、「あつまり処わのや」宛てにメールして下さい。
あつまり処わのや メール:wanoya@smile.odn.ne.jp

【発 送】
メール受信後返信をさせて頂きます。
入金確認後、約2週間程で発送します。


【参 考】篆刻文字製作「さより庵」

ラ・フローレスの歩み

2009年06月24日 18:26

ロス・インディオスというバンド(歌唱グループ)をご存知でしょうか?

ラテン、フォルクローレを中心とした中南米音楽から歌謡曲まで
幅広いジャンルで音楽活動を行っていますが、
ムード歌謡全盛期の1968年に「コモエスタ赤坂」「知りすぎたのね」を発表。
1979年「別れても好きな人」を発売。いずれもヒットソングとなりました。

さて昨夜は、その昔、ロス・インディオスの二代目ボーカリストとして活躍した
『ロス・インディオス&フローレス』の “ラ・フローレス” のお二人のライブが、
久しぶりに行われたので、例によってかみさんと行ってきました。

会場は、赤坂に在る宇崎竜童さんと阿木燿子さんのライブ&レストラン
             
             「November Eleventh 1111」

“ラ・フローレス”のお一人である“K子ちゃん”が歌手を引退したのは1992年。
彼女は私たち夫婦の後輩にあたります。
そして、現在では歌舞伎俳優の妻であり、二人息子の母でもあります。
久しぶりの復活ライブとあって、会場は立ち見が出るほどの盛況でした。


17年前の1992年4月17日、
かみさんは、K子ちゃんの引退コンサートを聴きに友だちのHちゃんを伴なって、
ヤクルトホールに出かけていきました。

私は、以前にも書いた“みんな会”の発端となったタケちゃんの病室に居ました。

その日の午後、私はタケちゃんの看病で病院に居たのですが、
みんなで交代で看病していたので、夕方Oちゃんと交代して自宅に戻りました。

自宅に戻ってからテレビを点けたら『フィールド・オブ・ドリームス』をやっていました。
それを観終わって、風呂に入っておりましたら、義母が呼ぶ声がしました。
23時15分、病院にいるOちゃんからの電話でした。

23時37分、病棟8階のエレベーターのドアが開いたら、Oちゃんがそこで待っていて
「あー、間に合わなかった!」と言いました。
数分、間に合わなかったのです。


昔、タケちゃんがお母さんとやっていた『竹や婦』という店が巣鴨の駅前に在りました。
その『竹や婦』が店を閉めるという前日、
私は、K子ちゃんとかみさんと3人でお店に行ったことがありました。

彼女は結婚を機に歌手からの引退を考えていました。
彼女の話を聴きながら、『竹や婦』での最後の酒を飲みました。
タケちゃんも板場から出てきて話に加わって聴いておりました。


昨夜のライブには、引退時に彼女のマネージャーだったT氏も来られるはずでした。
引退してからも彼女を応援してくれた彼女にとっての恩人でした。
このライブに行くのが楽しみだとおっしゃっていたそうです。

そのT氏が、先週の金曜日に突然亡くなりました。

いまは、タケちゃんも、Oちゃんも、義母も、そしてT氏も亡くなりました。
『竹や婦』もありません。


昨夜のコンサートは、人間の歌唱力とは、こうして“人生を歌う”ことかと
お二人の歌に酔いしれました。

お二人が名づけた昨夜のコンサートのタイトルは 「歩み」です。




7月28日 『ラ・フローレス“歩み”』 追加コンサート決定!
詳しくは→http://www.risingdragon.jp/nov11th/blue/2009.07-blue.htm

沖縄県民斯ク戦ヘリ

2009年06月23日 07:57

梅雨の明けた沖縄に、いよいよ真夏がやってきます!!

沖縄旅行がお一人様29,800円から!H.L.S 

首里城 国際通り 沖縄アウトレットモールあしびなー 
琉球ガラス村 美浜アメリカンビレッジ 沖縄美ら海水族館 などなど見所が一杯。
そして、沖縄のビーチ 沖縄の料理 沖縄の泡盛 などのお楽しみを満喫。

どうですか?貴方もことしの夏は沖縄に行ってみませんか?


でも、もし貴方が沖縄に行かれるのなら、是非見てきて頂きたい所があるのですよ。

6月の沖縄は、一方で慰霊の季節でもあるのです。

読み返してみればこのところ、
このブログの話題は“戦争(歴史)”の話が続いちゃってますね。
きょうも沖縄のお話ですしね。
しかし、仕方がないのですよ。沖縄の6月はそういう季節なのですから。

2001年の春、初めて沖縄に息子たちを連れて旅行したことがありました。
その年の6月にアメリカに旅立つ次男と一緒に沖縄に行きたいと思ったのです。
家族4人の旅行でした。

那覇空港の近く、車で15分くらいの豊見城市に旧海軍司令部壕跡が在ります。
ここに、どうしても息子たちを連れて行きたかったのです。


太平洋戦争末期、アメリカ軍は1945年3月15日の硫黄島占領につづいて3月26日から沖縄への攻撃を始め、4月1日には沖縄本島中部西海岸の読谷山村・北谷村の海岸に上陸しました。
5月31日には沖縄守備軍司令部の在った首里が陥落し占領されます。
本島南部に追い詰められた日本軍は、6月23日(64年前のきょう)沖縄守備軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が摩文仁司令部で自決して敗北します。

日本側の死者・行方不明者は18万8千人以上、その内沖縄県出身者が12万2千人以上、9万4千人以上が民間人であったと言われていますが、集団自決で亡くなった人の数も少なくありません。
アメリカ軍も亡くなった兵士の数が1万2千人以上と言われています。

子供たちを連れて行った「旧海軍司令部壕跡」には、
沖縄海軍の司令官だった大田実司令官が自決する直前に
大本営に宛てて打った最後の電文が展示されています。

その内容を抜粋して要約するとこういうことが書かれています。

沖縄島に敵が侵攻して以来、陸海軍は戦うことに専念していて、
県民に関しては殆ど顧みることがありませんでした。

しかし、私の知る限り県民は、青年壮年全員が防衛に身を捧げたため、
残る老人や婦女子だけで相次ぐ暴風のような砲撃爆撃に曝されていました。

そんな中でも若き婦人は、率先して軍に身を捧げて看護や炊事は元より、
砲弾運びや挺身切込隊にすら申し出る者もありました。

(途中略)

要するに、陸海軍部隊が沖縄に進駐して以来、沖縄県民は終止一貫して
勤労奉仕、物資節約を強要されてきたにもかかわらず、
只々、日本人として御奉公の思いを胸に抱いて闘ってくれましたが、
沖縄は島の形が変わるほど焦土と化してしまいました。
食料も6月一杯しかもたないという状況です。

沖縄県民はこのように戦いました。

この沖縄県民に対して、後世の人々よ、特別のご高配を賜りたく思います。


本来、簡潔に戦況だけを伝える性格であるべき大本営宛の電文に、
沖縄県民に対する自らの心情を表した大田司令官のこの電文は異例です。

しかし、この電文に込められた大田司令官のメッセージを、
後世を生きる、全ての日本人は受け捕らなければならないと思うのです。

そしてまた、集団自決で自ら肉親に手をかけながら生き残った人々は、
黙して語りませんが、その言葉無き声にも耳を傾けなくてはいけないでしょう。


沖縄県民斯ク戦ヘリ

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ


いま、沖縄に対して日本人はなにをしているでしょうか?

「硫黄島からの電話」

2009年06月22日 07:39

昨夜のことです。

かみさんが、外出から戻ってきて「昨夜のドラマ9時からだっけ?」と言って
焼酎の水割りを持って、ミモレットを切りながらテレビの前に陣取りました。

一昨日から二夜連続で放送される『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』です。

このドラマは、平塚八兵衛という実在した伝説の刑事の物語です。

余談ですが、私が平塚八兵衛さんの名を初めて聞いたのは、
つかこうへいさんの代表作「熱海殺人事件」という芝居の中でした。


一昨日夜、偶然にかみさんと観たこのドラマは、久々に引き込まれる内容でした。
主演の渡辺謙さんを始め、登場する役者陣も魅力を大いに発揮していました。
我が先輩の浅野和之さんも第一部の帝銀事件の部分に出演していました。
この作品の魅力は原作と脚本に拠るところが大きいのではないかと思いますね。

渡辺謙さんといえば、トム・クルーズと共演した「ラストサムライ」を始め、
クリント・イーストウッド監督作品「硫黄島からの手紙」が記憶に新しい俳優ですが、
いまや飛ぶ鳥落す勢いで、ハリウッドのスターになりましたよね。
昔、渡辺さんが急性骨髄性白血病で降板した映画『天と地と』
主役を代わったのが、榎木孝明さんでしたが、
このドラマでお二人が共演されていて興味深かったです。
ちなみに、私も少しだけ『天と地と』に出たのですよ。 

そんなことを考えながらドラマを観ていましたら、電話が鳴りました。

「遠いところからでしょ?いま代わりますね」と言いながら
かみさんが受話器を私に渡してくれました。

以前にも登場したTクンです。

それは“硫黄島からの電話”でした。


 これは秘密事項ではないのだそうですが、

彼は、自衛隊から請け負った仕事で、
硫黄島の基地に駐在しているのです。

来年の春までの仕事だそうですが、近況報告のために電話をくれたのです。

インターネットの環境整備が整っていないために、
パソコンが有っても私のブログが読めないのだそうです。

陸上・海上の自衛隊員約400名と民間人(下請業者)約50人だけが
駐在する硫黄島は、あの64年前の玉砕直後のままの風景なのだそうです。

「まるで時が止まってるんだよ。沈んだ船も、飛行機のプロペラも、
戦車も、遺骨だってそのままだしね。
遺骨収集しているといっても遺骨全体のほんの数パーセントじゃないかな?」


そう彼は言っていました。

「7月に一度還るからさ、そのときに撮った写真渡すね」


かみさんの言った「遠いところ」という響きは、距離だけを指していないような気がします。

それにしても、変わった人生を送る奴だなぁと、つくづく思いました。

父の日ですから

2009年06月21日 18:45

きょうは、6月の第3日曜日ですから父の日です。

そこできょうは、先日来書いている安岡正篤先生と、私の父との逸話を書きます。
 【参考】6月16日「啐啄同機」 6月19日「斗酒猶辞せず」

安岡正篤先生の逸話その? 
「深夜に父がひとり安岡先生を訪ねた話」


父は、1929年昭和4年の2月に四国の徳島で生まれました。

この1929年昭和4年という年は、アメリカ時間で10月24日木曜日に、
ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことを端緒として、
世界的な規模で各国の経済に波及した金融恐慌、つまり、世界大恐慌が起こりました。

日本においてもアメリカ向けの生糸の輸出に頼っていた経済が急激に落ち込み
多くの会社が倒産し、就職難民が増え、小津安二郎監督の『大学は出たけれど』
という映画が創られたくらいです。
農村にあっても天災の影響と相まって農家は疲弊し、娘の身売りや欠食児童が増え
社会問題化してゆきました。

こういった状況が遠因となって軍人による五・一五事件(1932年昭和7年)や
二・二六事件(1936年昭和11年)と言われるテロリズムが発生します。

また中国では、1931年昭和6年に柳条湖事件を契機に満州事変が勃発。
そして、1937年昭和12年には、盧溝橋事件を発端として支那事変つまり、
日中戦争が始まりました。

この時点で、父は8歳です。

この後、日本は太平洋戦争に突入し無残な敗戦を迎えることになりますが、
忠君愛国が骨身に浸みついた軍国少年として自分は成長したと父は言います。

1944年昭和19年弱冠15歳のとき、親の反対を押し切って海軍特別年少兵に志願し
航空隊に入隊して特攻を目指します。

しかし、翌年1945年昭和20年8月15日、16歳のときに終戦を迎えました。

戦争中に散っていった戦友に対する生き残った者の自責の念。
戦火によって焦土と化した国土と、飢えて倒れている国民への贖罪意識。
軍国少年として育ち戦った父の中で価値観が大混乱をします。

出征するときに「二度と生きては渡らぬであろう」と思って渡った故郷の橋を、
帰還したときに、しばらく渡れずに逡巡したのだそうです。

そして戦後、逆転した価値観のなかで悶々とする日々を送っていた父に
安岡正篤先生を紹介してくれる方がいて、父は先生を知りました。

1949年昭和24年、当時は安岡先生は公職追放の身であられたと思います。
しかし、父は安岡先生が創られた日本農士学校の門を叩きます。

この時点で、父は20歳です。

ある夜、父は日本農士学校の敷地内に在った安岡先生の庵を訪ねます。

お一人でいらした先生は、弟子の突然の無礼な訪問にもかかわらず、
先生の書斎の小さな炬燵の中に快く招き入れてくださったそうです。

「これからの私の人生は、如何に生きるべきでしょうか?」

と、真正面から直球の質問をした父に対して先生は、
穏やかに温かいお顔で丁寧に応えてくださったそうです。

「君の人生のストーリーは、君自身で創ってゆくものだ。
従って、これから君の人生一日一日、一歩一歩を深くよく考えて歩いてゆきなさい。
将来、君が晩年に至ったときに、数十年間、考え、考え歩いてきた
その過去を振り返ってみて、そこに遺された自分の足跡が、君が今私に質問した
“人生如何に生きるべきか”の君自身が出した答えなのだ。
尚、道を踏み間違う事がないように、常に懐に本を持っていて参考にすることだよ。」


この言葉を胸に、父は農林省の果樹試験場の技師を経て
1958年昭和33年5月5日、静岡県浜松市の北に在る三方原台地に入植し、
みかん農家を起こそうと開拓農民になりました。

この時点で父は29歳、私は1歳、妹は母の腹の中におりました。

あれから51年、父は80歳になりました。


父はきょう、明日出る病院の検査結果を待っているはずです。
あとで父に電話しようと思っています。

きょうは、6月の第3日曜日で父の日ですから。

桜桃

2009年06月20日 18:21

桜桃

きょうは、サクランボを頂きました。


先日、ミツバチが足りなくて、サクランボの収穫量が減ったという報道がありましたね。

知ってましたか?
農作物の受粉用にオーストラリアからセイヨウミツバチが輸入されていたってこと。

世界的なミツバチの大量死の影響で、ミツバチの輸入量が減って
ミツバチの値段が高騰し、サクランボの受粉にも影響が出ているのだそうです。

ミツバチの大量死についても、原因調査が始まっているようですね。↓
           http://www.s.affrc.go.jp/docs/press/090513_1.htm


さて、そういえばきのうは桜桃忌
太宰治が生まれて100年目、その遺体が発見されて61年目の6月19日でした。


太宰治は、青森の大地主の息子でしたよね。

そのことがコンプレックスで、
あの時代には認められていなかった社会主義者を応援するために
実家から送ってもらったお金をカンパちゃったのだそうですよ。

“桜桃忌”は、死の直前に書かれた『桜桃』から名づけられたそうですが、
『桜桃』に登場するサクランボは、酸っぱくて不味いサクランボです。
しかも、不味くても、そんなサクランボさえ家族に食べさせられない主人公が、
酒場でヤケ酒を飲みながら食らうサクランボです。

度々自殺や心中を繰り返した太宰治の小説は、
優しいけれど繊細で弱い、そういう人たちが登場します。
そして、そういう時期にある人たちによく読まれている小説ですが、

そういう人たちは、ダサイ ですか?


さくらんぼ
                                          


人間合格人間合格
(1990/03)
井上 ひさし

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桜桃とキリスト―もう一つの太宰治伝桜桃とキリスト―もう一つの太宰治伝
(2002/03)
長部 日出雄

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斜陽・人間失格・桜桃・走れメロス 外七篇 (文春文庫)斜陽・人間失格・桜桃・走れメロス 外七篇 (文春文庫)
(2000/10)
太宰 治

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斗酒猶辞せず

2009年06月19日 07:07

以前にも登場して頂きましたが、
今後、私の父が師と仰ぐ安岡正篤先生のことを少し書いてゆこうと思っています。

安岡正篤先生の逸話その? 
「八代六郎海軍大将が弟子入りした話」


これも父から聴いたのですが。

安岡先生が25歳のとき、
元海軍大臣の八代六郎海軍大将のご自宅を初めて訪問されたときのエピソードです。

八代六郎という人は、日露戦争のときに巡洋艦の艦長として活躍し、
後に海軍大臣となった、帝国海軍の伝説の大将です。

予てより、陽明学にも造詣が深かった八代大将が、
新進気鋭の安岡先生を人から紹介されて自宅に招いたのが始まり。

夕方から二人だけで懇談しながら飲みだしたら、いつしか議論になったのだそうです。
一点の違いにお互いが譲らない。
延々と議論がつづいて気がつけば二人で5升の酒瓶を空けたといいます。

そこで席を外して厠に立った安岡先生に、
八代大将の奥さんが空いた酒瓶を見せながら、
「主人も歳ですから、きょうはこれくらいに」と頼んだそうです。

「では、お互いに一週間考えよう」
「どちらか間違っていた者が相手に弟子入りすることにしよう」

と八代大将が言って、一週間が経ちました。
一週間後、安岡先生のご自宅に正装して現れた八代海軍大将が言いました。
「あれからよく考えてみましたら、私が間違っておりました。
 これから生涯、先生を師と仰ぎます」

このとき、八代大将は63歳でした。

安岡先生は、後に八代大将の招聘で海軍大学校の講師を勤めます。

当時佐官だった山本五十六米内光政に、これが縁で影響を与え始めます。


斗酒(としゅ)猶(なお)辞(じ)せず
さて、このエピソードで驚いたのは“二人で一晩に5升”ですよ。 ← そこかい!


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