責任感

2017年04月05日 18:45



久しぶりに、怒りました。

ア然とした後で、モーレツに腹が立ってきました。

SNS上で、
感情的な書き込みをするのは得策ではありませんし、
読んで下さった方の心情を乱れさせることもありますから、
自制するべきだと思っているのでありますが、
いくらなんでも言っていいことと悪いことがある。

自主避難している人は自己責任でなどと言うのは、
国としての当事者意識が無いにも程があります。

復興大臣の記者会見での発言と振る舞いについては、
“公式”に“自己責任”を取ってもらいたいと思います。

但し、
大臣をむやみに誹謗中傷することは目的ではありません。
人格云々も必要のないことであります。

また、会見で質問した記者の質問の仕方を云う人もいますが、
質問の仕方が無礼であったかどうかよりも、内容が肝心でしょう。

記者は記者で、その任において取材や報道を通じ、
その役割を発揮し、責任を果たせばよいのだと思います。

それから、
大臣がワルイか記者がワルイかという議論には与したくありません。
福島県の責任か国の責任かの議論にも同様の想いを持っています。

この問題で、
あらゆる対立や分断を助長するような意見や動きには反対です。

そして、
当事者でない者が批判だけするな、のご意見も散見されますが、
この原発と放射能汚染に関するあらゆる問題については、
第一義的には東電と福島の土地から避難・自主避難されている方たち、
そして、避難指示が解除された地域に戻った方たちが当事者でしょう。

しかし、
福島県もそうですが、国も当事者です。
つまり、わたしたち日本人のみんなが当事者だということでしょう。

一方から、もう一方に批判を浴びせればよいというものではなく、
当事者として、政(まつりごと)を担う人たちの発言や振る舞いに
注目することは、むしろ国民として当然の責任だと思います。

福島へボランティアで行ったり、線量計を持参して線量測定したり、
募金活動をしたり、話を聴いたり、その土地の物を消費したり、
それも貴重なことだと思いますが、そんなことは何もしなくても、
我が国の、この問題の“当事者”だという意識を持っていることが、
最低限の大事な責任感なのではないかと、わたしは考えています。



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フラ新年会の写真

2017年02月05日 23:59

きょうは、2月5日。
わたしの弟の誕生日で、明日はわたしの母の命日であります。

そして、
もう2月だというのに、
きょうはかみさんのフラの生徒さんたちの新年会が催されました。

というワケで、
きょうは、フラの写真ブログであります。

①

②

③

⑦

⑤

⑨

⑧

⑫




批判

2017年01月23日 23:59

中学生だった頃、
星座占いの本を読んで、自分が射手座だと知りました。

その射手座の性格についての説明を読みました。

射手座の矢は、
どこまでもまっすぐに飛ぶ正義の矢だというようなことが書いてありました。
しかし、その矢が飛ぶと、周りを傷つけてしまうことがあるとも書いてあったと
記憶しています。


さて、
医師と病院に対する不信感があって、
むぅむぅ(義父)を退院させたいと、病院側に申し入れていました。

そこで、
きょうは、退院に向けてのカンファレンスを行っていただきました。

参加したのは、
主治医は参加させず、その上司である医長と、看護師長と、
病院の退院支援担当看護師と、病院の医事課の担当者と、
訪問診療を担当する外部の医師とわたしたち夫婦です。

医長からは、
入院してからの検査結果と診断とその経緯について説明があり、
主治医をはじめとした病院の対応に関して謝罪がありました。

訪問診療を担当する医師からは、
今後の治療や処置に関する選択肢について説明を受けました。

そこで、
明日退院し、在宅で看護・介護をする体制を整えようと思います。
しかし、今後の経過を見極めながら、栄養を摂るための処置は、
転院せず、この病院に再入院して行っていただくことを決めました。

この結果が出るまで、
何度もなんども、病院側に抗議し説明を繰り返してきました。

お一人おひとりは、
「なるほど!」と頷きながらも、なかなか事は進捗しませんでした。

こちらに話したことが、あちらに通じていなかったり、
あちらに話したことが、こちらでは誤解されていたり、
コミュニケーションの基本的な齟齬があちこちで起きました。

それでもわたしたちは、
辛抱強く、相手が替わるたびに一から丁寧に説明したのでした。
すべては、“悔いを残したくなかった”からです。

こうして、
きょうやっと一つの結果が出て、事が進捗をみたのです。

しかし、
わたしたちの抗議は、ひとつ間違えば批判のための批判、
クレームをつけたいからのクレーム、場合によっては、
“いじめ”ともとられかねなかったでしょう。

その意味では、
わたしたちの主旨が、病院側に正しく理解されたと思ってホッとしています。


ところで蛇足ですが、
横浜の教育長の発言が批判されています。

その批判の主旨は、わたしも皆さんとほぼ同感なのですが、
その批判が、“いじめ”にならないことを、切に願っています。




宅配ボックス

2017年01月18日 19:28

きょう、
かみさんを病院に送って行って帰宅しましたら、
郵便受けに、宅配業者の不在表が入っていました。

そこで、
記載してあった宅配の運転手さんの携帯電話の番号に連絡しました。

「この後、お宅にいらっしゃいますか?」と訊かれたので、
「出たり入ったりしていますが、何時頃か云っていただければ居るようにします」
そう応えると、
「地域を離れちゃったもんで、・・・ウーン?」と、時間帯を応えられない様子でしたが、
「じゃあ、2時から4時ということでいかがでしょう?」と云うので、
「では、その時間帯は必ず居ることにします」と云って電話を切りました。

こんなやりとりが、我が家では頻繁にあります。
きょうだって、我が家を不在にしたのは30分間程度の時間でしたが、
タイミングがワルくて、その間に宅配業者が来てしまったのでした。

こうして、
きょうも、午後2時から4時の間は、不在にはできなくなりました。
どうせ、どうにかなることですからよいのでありますが、
配達する業者にも手間ですし、再配達は恐縮してしまいます。
またこのように、受け取るという手間も、あながちバカにはなりません。

宅配業者も受け取る側も、もっと効率的に受け渡す術はないものでしょうか?

なんて事を思っていたら、朗報が目に入りました。

「宅配効率化へ補助金 ボックスまず500カ所」政府 ネット通販で再配達急増
2017/1/17付日本経済新聞 朝刊
インターネット通販の拡大で深刻化する物流業者の人手不足や交通渋滞を解消するため、官民が受取人の不在時にも荷物を預けられる宅配ボックスの普及に取り組む。政府は4月から設置費用の半額を補助する制度を新設し、業者が駅やコンビニに宅配ボックスを設置するのを後押しする。再配達を少なくして配送効率を高め、ネット通販の拡大に欠かせない物流網の維持をめざす。


この記事で分かったことですが、
不在だったときに、宅配の荷物を受け取る利便性のことだけでなく、
「インターネット通販の拡大」
「深刻化する物流業者の人手不足」
「交通渋滞」
といった問題が起きていたことが判りました。

再配達が効率的に行われれば、それらの問題が軽減するのでしょう。

再配達を頼むより、最寄りの駅や近くのコンビニエンスストアー、
或いは地域に在る宅配の集積所などに“宅配ボックス”が有れば、
そこを指定して、預けておいて欲しい旨判るようにして外出します。

そして、宅配業者は、
指定された“宅配ボックス”の暗証番号を記した紙を郵便受けに入れて、
指定通り“宅配ボックス”に荷物を入れ、確かに宅配ボックスに入れたという
受領証明書のようなものを持ち帰るというものです。

そのような選択肢があれば、再配達以外に利便性が増すというものでしょう。

まだ、いろいろ不備な点もあるでしょうが、
不在がちの単身者や、帰宅が不規則な人、旅行に行く人など、
いろいろな使い勝手があるのではないでしょうか?


それにしても、
フラ用品や衣裳や雑誌や書籍やサプリメントやワイン、
それから、ふるさと納税して届く各地域の名産品などなどなど、
我が家に届くのは、かみさん宛ての荷物ばかりなんですケド・・・。


踏み絵

2017年01月15日 23:59

よく、「ばちが当たる」などということを申します。

「罰当たり」、「天罰が下る」、「因果応報」などとも申します。

反対に、
「ご利益があった」、「神様からのご褒美」、「天恵に浴する」
「神のご加護」、「神の祝福」などとも申します。

ところで、
わたくしなど多神教の国で育っておりますので、
“神も仏も”などと申しますが、一神教の“神様”だって、
そんなに、“罰(ばち)”を与えたり、“褒美”を与えたりするものでしょうか?


さて、
一昨日のブログ「沈黙」を書いてから、きょうも引きずっております。

遠藤周作さんの小説「沈黙」に描かれた物語は、史実がベースになっております。
幕府によってキリスト教が禁止され、キリシタンが弾圧された時代の物語です。

そこで、物語の重要なキーワードになるのが「踏み絵」なのであります。
キリシタンか否かを判別するためにキリストの偶像を踏ませることで、
信仰の有無を見極めるキリシタン狩りの手法であります。

信者であれば「キリスト像」を踏めないだろうというのは一般的な理解です。
しかし、所詮、踏み絵など偶像に過ぎない木や銅の板でありますが、
踏まなかったら殺されるのに踏まないのは、なにを怖れてのことでしょうか?

そのように殺されたり死んだりした人たちを「殉教者」と呼びますが、
踏み絵を踏んだら信者や殉教者ではなくなるのでしょうか?

それこそ、
小説「沈黙」の主題でありますが、そのような事態を前にしながら、
それでも主が、或いは神が“沈黙”しているのはなぜなのでしょう?
小説「沈黙」では主・イエスが沈黙を破りますが)


神も仏も、“ご利益”がないのであれば、
反対に“罰(ばち)”も当てないで、“沈黙”していてほしいものであります。

さて、
本当に神や仏が“ご利益”や“罰(ばち)”を人々に与えているのでしょうか?

わたしは、
“ご利益”や“罰(ばち)”は、神や仏が与えたもうたものではないと思います。
多分、人が自らに与えているものなのだろうと思います。

それは、
神や仏との「約束」があるからです。

旧約聖書や新約聖書の「約」というのは、「神との約束」の意味なのであります。
仏教においても、仏の教えを守ることが大事です。


聖書に書かれている「約束」を守ると決め、
仏の道を辿ると決めた人々が信仰するのですから、
神や仏との約束を守れなければ、自ら悔い改めるしかありません。
しかし、それによって「天罰を下される」こともないだろうと思います。

ですから、踏み絵なんか踏めばよかったのだと思います。
踏んだから天罰を下すような“神”なら、大したことはないハズです。

すべては、
“信仰”すること、“信じること”こそが“ご利益”そのものなのでしょう。





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