チビチリガマ

2017年05月04日 17:30

チビチリガマ 2017年4月1日
「うその教育で…」 沖縄戦「集団自決」遺族が語る危機感 読谷・チビチリガマで慰霊祭
<沖縄タイムス2017年4月2日記事>



いまから16年前の2001年の5月3日・4日・5日、
二人の息子を連れて家族で沖縄に旅行しました。

次男が、
その年の6月にアメリカの高校へ留学する予定でしたので、
息子たちと一緒に“沖縄”を見たかったのです。

那覇空港に着いてレンタカーを借り、その足で旧海軍司令部壕跡へ行きました。


沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ


沖縄海軍の大田実司令官が自決直前に大本営に宛て打った電文を見ました。


1945年(昭和20年)3月26日に始まった沖縄戦は、
4月1日午前5時半から読谷山村の渡具知海岸に猛烈な艦砲射撃が開始され、
約20分間で12センチ砲以上が4万4,825発、ロケット弾3万3千発、
迫撃砲弾が2万2,500発が撃ち込まれ、午前8時半にはアメリカ軍が上陸しました。

こうして、上陸地の読谷山村(現・読谷村)の約1万8千人の人々をはじめとする、
沖縄の悲劇が始まったのでした。

その読谷村で、
通称「象の檻」と呼ばれた在日米軍の電波施設を見ました。

そして、
知花晶一さんのお宅を訪ねてご家族みなさんに再会しました。

知花晶一さんは、
坂手洋二さんの戯曲「海の沸点」の主人公のモデルになった方です。

海の沸点」は、
20年前の1997年、栗山民也さんの演出で演劇制作体地人会によって製作・上演され、
わたしは制作を担当しました。


知花家をおいとました後、
知花さんに場所を教えてもらった「チビチリガマ」に行き、慰霊させて頂きました。

チビチリガマ」は、
1945年(昭和20)4月2日、肉親が相互に殺し合う「集団自決」が行なわれた場所です。 
この洞窟の中で避難住民83人が亡くなったといわれています。

わたしたちは、
ハブを気にしながらも入壕できましたが、現在では許可なく入ることはできないと聞きました。


スポンサーサイト

母の八十八の誕生日

2017年04月04日 10:55

4月4日

昭和4年(1929年)に、わたしの父も母も生まれましたが、
きょう4月4日は、母の88歳の誕生日であります。

昭和4年という年は、
アメリカに端を発した世界恐慌の影響で、アメリカ向けの輸出が激減したことから、
生糸の値が大暴落し、翌年の米の大凶作と相まって農業恐慌が起こった年でした。

失業者が増え、飢餓や農家の子女の身売りに象徴されるような経済的背景のなか、
昭和6年には、関東軍の謀略による柳条湖事件をキッカケとした満州事変が勃発し、
昭和7年には、所謂血盟団事件五・一五事件が起きました。

昭和8年には、満州からの撤退勧告を受け、日本は国際連盟を脱退します。

昭和11年には、
皇道派の青年将校による二・二六事件が起き、軍部の暴走が顕著になりました。
昭和12年には、盧溝橋事件が起き、日中戦争支那事変)へと拡大しました。

そして、
昭和13年、全国民を一致団結させるための国家総動員法が成立しました。

昭和16年には、
思想弾圧の必要から春に治安維持法が制定され、年末には太平洋戦争が始まりました。

戦争は、数百万人と謂われる人々が死に、日本中が焦土となるまで続いたのでした。
それは「教育勅語」と「軍人勅諭」を心得とした日本人のメンタリティーの成せる業でした。

これが、わたしたちの父や母が生まれ育った時代でした。


きょうは、わたしの母の88歳の誕生日です。
母は、よい時代に生まれなかったかもしれませんが、よい季節に生まれたとは思います。

今年もまた桜を愛でながら、死んだ母の齢を数えております。



みんな会

2017年03月07日 23:59

タケちゃん

タケちゃんは、きょうで66歳になりました。

きょうは、
タケちゃんの誕生会である恒例の「みんな会」が催されました。


タケちゃんは、
隅田川で産湯を使い、荒川で顔を洗って育ちましたが、
1992年4月17日、お母さんに死に水を取ってもらって逝きました。

その翌年から、
命日に偲ぶより、タケちゃんの誕生日に集まって、
お母さんを囲みながら、みんな一緒に齢をとろうやということになり、
誕生日が3月7日だから「みんな会」だと、わたしが名付けました。

みんな会に集まってくるのは、
幼馴染みや中学・高校の友人たち、演劇科の先輩後輩や芝居仲間たちです。

このみんな会のメンバーの中から、これまでに3人もタケちゃんの処に逝きました。
仲間が逝くたびに、タケちゃんのお母さんを悲しませています。

「今頃、あっちで卓を囲んでいるかもしれないなぁ」
などと冗談を言ってはいますが、淋しい限りです。

タケちゃんが亡くなったとき30代・40代だったみんな会のメンバーも、
ほとんどの人が還暦を過ぎました。

寄る年波には抗うことができず、病気の話題が増えました。

病気の話、介護の話は、
「おまえもかい?」、「俺もだよ」、「うちもだよ」、「みんなかい?」

2017年みんな会



3年B組

2017年02月11日 22:34

麁玉中学校

この写真は、
わたしの母校・麁玉中学校の現在の写真です。

この“麁玉”の“麁”という字は「鹿(しか)」という字ではありません。
麁玉中学校は、「あらたまちゅうがっこう」と読みます。

“麁玉”というのは、
「まだ磨かれていない玉」という意味もあるのですが、
天竜川も旧くは「麁玉河」と表記された記録があり、
現在の浜松市浜北区の北部地域の古い地名です。

ですから、
わたしは、麁玉小学校麁玉中学校に通いました。

その麁玉中学校3年B組の同窓会に行ってきました。

3年B組は、
中学2年・3年とクラス替えがなかったので同じ担任の先生で同じクラスメートです。

当然ですが、みんな去年・今年で還暦を迎えたワケで、還暦同窓会というワケです。


お互いの記憶の断片を集めて並べるような時間でした。

60年間のこれまでの人生の中の、たった3年間でしたが、
中学時代は、楽しい時間だったんだなと思いました。

懐かしい友人たちにも逢えましたが、
中学生だったころの自分に逢えたような気がしました。



田中明夫さんと泉三太郎

2017年01月19日 23:59

<忘備録として>

きょうは、
俳優・田中明夫さんの御命日です。

いまから14年前の2003年1月19日の日曜日14時30分に、
肝不全により、神奈川県横須賀市の病院で亡くなりました。

1926年(大正15年)9月21日生まれでいらしたから、76歳でした。

田中明夫さんとむぅむぅ(義父)は親友と云ってもよい間柄でした。
「あき坊」、「大ちゃん」と呼び合っておりました。

田中明夫さんが劇団四季の劇団員だった当時は、
むぅむぅは、劇団四季を熱心に応援していたと聞いています。

田中明夫さんが亡くなる前日の1月18日、
むぅむぅは、横須賀市民病院に入院した田中さんを見舞いました。
わたしも車を運転して同行しました。

入浴中に意識が無くなったという田中さんは、
ベットの上に横たわって、目は閉じたままでしたが、
それが、むぅむぅと田中さんとの今生のお別れでした。

葬儀・告別式は、
1月24日の金曜日、14時から神奈川県川崎市高津区の光明寺で行われました。

また、しのぶ会は、
3月8日の土曜日、14時から新宿区南元町の千日谷会堂で行われました。

そのときに喪主を務められた奥様・智津子さんも既に鬼籍に入っておられます。


さて、
その田中明夫さんが亡くなる9日前の1月10日、むぅむぅの兄(伯父)が亡くなりました。

むぅむぅの兄・山下三郎は、ロシア文学者で翻訳家で出版社の経営者でもありました。
泉三太郎の名で、アルブーゾフの戯曲「イルクーツク物語」や「私のかわいそうなマラート
などを翻訳したりして、アルブーゾフをはじめとしたロシア文学を日本に紹介した人です。

この伯父(むぅむぅにとっては兄)も、
生まれたのは田中明夫さんと同じ1926年で、亡くなったのも同じ2003年の1月です。

お二人とも、
大正(1年間)、昭和(64年間)、平成(15年間) という激動の時代を生きた76年間のご生涯でした。

いま生きていらしたら、今年の誕生日に90歳(卒寿)を迎えるはずでした。




最新記事