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東京大空襲

2019年03月10日 02:16

いま3月10日の午前2時16分ですが、74年前のこの日この時間帯の事です。


当時15歳だった少女は、
群馬の峠で停車した汽車の窓から燃える東京の明かりを見たといいます。
少女は、家族と共に祖母の葬儀で秋田に行き、東京に戻るところでした。

空襲に遭った上野駅によく汽車が到着できたものですが、
朝になって少女は東京大空襲に遭った上野駅に家族と共に降り立ちました。

その上野駅から浅草を通って隅田川を吾妻橋から本所方面へ渡り、
延々と家に向かって歩いたのだそうです。

あらゆる建物は焼け、街中に焼死体が累々と折り重なって倒れ、
隅田川には水を求めて亡くなった人々が筏のように浮いていたそうです。

少女の祖母が亡くならなければ家族も大空襲に遭ったでしょうから、
少女と家族は祖母に助けられたようなものです。


さて、その少女は当時5歳でした。
少女の父親は歌舞伎座の電気技師で一家は向島に住んでいました。

その夜、
少女の父親と母親は向島から浅草を目指して荷車に家財道具と子供5人と、
眼の不自由な母を乗せて、甥と奉公人の計10人で向島から逃げていました。

なんとか言問橋に着いたのですが、浅草から言問橋を渡って来る人たちと、
本所・向島から浅草方面に逃げようとする人たちで橋が混雑して渡れません。

とても子供たちを連れた荷車では逃げられないと観念した両親は、
隅田川の傍らの防空壕の縦穴に家族を入れます。
その上から布団を被せ隅田川の水を汲んで布団にかけたのでした。

それが功を奏したのでしょう。火災旋風渦巻く中で家族全員が助かりました。
後で、群衆と一緒に逃げた町内の人たちは全滅したと聞いたそうです。


これらは、
所謂、東京大空襲と謂われる昭和20年3月10日未明の空襲の体験談です。

東京大空襲は、一晩に約10万人の方々が亡くなった空襲でした。
勿論、大多数は民間人だったはずです。

戦争にいい戦争もワルイ戦争もありませんが、
国家総動員時とは云え、理不尽にも一般人が無差別に虐殺されたのでした。

そんな空襲は、全国各地につづき広島と長崎に及んだのです・・・。


15歳だった少女というのは「光生軒」のおばさんですが、一昨年8月21日深夜に、
わたしが看取りました。

5歳だった少女というのは「たつみ」のママですが、東日本大震災が起こる前夜、
わたしに、このエピソードを話してくれました。

火焔地獄の中で両親が助けた兄妹たちは、いまだに一人も欠けていません。


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元号

2019年03月01日 18:01

きょうから3月ですが、
平成は、5月1日の改元まで残すところ2ヵ月となりました。

その所為か、
「次の元号はなんでしょう?」と、テレビ番組が喧しく採り上げています。

予想すれば、その“案”の可能性が無くなることを承知で、
あーでもない、こーでもないとしょうもない会話をつづけております。


ところで、「平成」という元号を考案したのは、
陽明学者の安岡正篤さんだというのは間違いだということになっております。

「改元の手続きは正式に天皇の死後の着手が適切」だとされ、
既に死亡している考案者の案を採用することは、縁起上問題があるとして、
天皇崩御以前に死去した学者の元号案については不採用とすることにしたのです。

ですから、昭和58年(1983年)に死去した安岡正篤さんの“案”を採用したのではなく、
東洋史学者で東京大学名誉教授の山本達郎さんが提案した“案”という解釈になりました。

しかし、
生前、安岡正篤さんが昭和54年(1979年)に成立した元号法を受けて、
安岡正篤さんや宇野清一東大名誉教授ら4人に考案を委嘱され、
その年、安岡正篤さんが「平成」、宇野さんが「正化」などの案を提出したことも事実です。

しかし、
最終的に新元号選定を行う時点で関わっていた山本達郎さん、宇野清一さん、そして、
古典中国文学者で九州大学名誉教授の目加田誠さんという3氏の案から選んだ結果、
(山本「平成」宇野「正化」目加田「修文」を提案)、山本達郎さんの「平成」となったのです。

山本達郎さんが安岡正篤さんの「平成」という案をご存じだったのかどうかは判りませんが、
奇しくも、同じ「平成」が採用されたことから、「平成」は安岡案だという説が存在します。

いずれにしても、その出典は同じようです。

『書経』大禹謨篇/「舜、禹に曰く、地平かに天成り、六府三事よく治まり、万世永く頼りとするは、汝の功なり。」
『史記』五帝本紀・舜の項/「舜、…五教を四方に布かしむ。父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝たれば、内平らかに、外成る。」
『春秋左氏伝』僖公二十四年/「夏書に曰く、地平らかに、天成る、とは称えるなり。」同書文公十八年/「地平天成」「内平外成」。

19年目の命日

2019年02月06日 18:30

家族3人と・・・

わたしの母は、
戦後、静岡県清水で幼稚園の保母をしておりました。

母は、
父親も元・教育者、兄たちも教育者という家庭で育ちました。

しかし、
清水に在った農林省の果樹試験場で研修中の父と知り合って、
昭和30年10月に結婚し、父の故郷・徳島の山間へ嫁ぎました。

試験場では、「静岡の女は嫁にもらうな」と謂れていたそうです。
温暖で美味い物があって昔から栄えていた土地である静岡、
そんな所で育った娘は寒く暑く貧しい土地ではやっていけない、
といった理由からだったそうです。

故郷に還って農林省の果樹試験場の技師として勤めた父でしたが、
昭和31年に私が生まれると、父は心機一転、開拓農民を目指します。

両親は、昭和33年開拓地を静岡県の浜松の三方原台地に決め入植します。
母にとって、徳島が決して合わなかった土地だったワケではありません。

むしろ、
父の両親はじめ、周りには生活と子育ての協力者が大勢いたのですから。

母にとって、
浜松での生活は、自分の実家に近いとは言え過酷なものだったと思います。

昭和33年5月に、浜松の北部に広がる三方原台地の都田という土地に入植し、
開拓農民となった母でしたが、わたしは一歳五ヶ月、妹は腹に入って三ヶ月でした。


母は、
開拓農民の妻として、昭和33年に原野からの1.5ヘクタールの第一次開墾、
昭和44年に山林からの約4ヘクタールの第二次開墾を成功させました。
そして、二男一女の母親として子育てをしました。

教師の家庭で七番目に生まれた母ですから、お嬢様育ちとは言えなくとも、
農家に生まれた人の素養は全く身につけていなかったであろうと思います。
ましてや、開拓農民として生きるということは全くの想定外であったでしょう。

しかし、父の親戚や周りの人々は口々に謂います。
「トシオさんの成功は、タカエさんがいなければ有り得なかった」 


晩年の母は、
五人の孫の成長を楽しみに見守りながら野菜を作って暮らしていましたが、
2000年(平成12年)、21世紀を見ることなく満70歳で亡くなりました。

きょう2月6日は、母の19年目の命日です。


沖縄本土復帰運動

2019年02月05日 11:57

父の年表

2月3日は、一昨年亡くなった父の90歳の誕生日。
2月4日は、一昨年亡くなったむぅむぅ(義父)の91歳の誕生日。
2月5日は、弟の誕生日。
2月6日は、亡くなって19年目の母の命日。
2月7日は、恩師の七回忌のご命日。そして、友人の8回目の命日。
毎日が、命の日々です。


さて、
一昨年亡くなった父が記した生涯年表があります。

縦マスに年、
横マスは「社会の出来事」「個人の出来事」「家族の出来事」に分れています。
父が生まれた1929年(昭和4年)から、年表を記した年までが記入されています。

その年表の1962年(昭和37年)の「社会の出来事」欄を見ると、
「新卒者の就職率最高と記録」「貿易の自由化88%」などと記してあります。

「個人の出来事」は、「(1月~2月)約1ヵ月間沖縄に渡り本土復帰運動に加わる」、
また、「秋には初収穫(みかん)を祝う」とあります。

「家族の出来事」としては、「(2/5)次男誕生」と記されています。


1956年(昭和31年)12月のわたしが生まれた日に、
父は、日本健青会末次一郎さんから手紙を受け取っていました。

同志として日本健青会に参加し、沖縄本土復帰運動に手を貸してほしいという内容でした。

1962年(昭和37年)、弟が産まれようとしているときに父は末次さんと沖縄に居ました。
沖縄が日本に復帰したあとの農業振興について現地調査をしていたのです。

その時、5歳のわたしは徳島の父の実家に預けられておりました。
3歳の妹は、臨月を迎えている母と浜松の家に残っておりました。

その年両親は、
人生で初めての開墾をして4年経ち、秋には初収穫を迎えようとしていたのです。

収穫前なのですから、家にお金が潤沢に有ったとは思えないのですが、
子供が産まれるというのに返還前の沖縄に渡って復帰運動に尽力するというのも、
その年の2月3日に33歳になったばかりの青年だった父の若気の至りでしょうか?

それほどまでに、
一兵士だった父にとって当時の沖縄本土返還運動は、一大事だったのでしょう。

あのときに生まれた弟も、きょうで57歳になりました。


最期の誕生日祝い

2019年02月04日 21:50

最期の誕生日祝い

義姉がケーキを買ってきて、
ロウソクを立てて、かみさんとハッピィーバースデイを歌いました。

むぅむぅ(義父)は、
レアチーズケーキとリンゴゼリーとチョコレートプリンを食べました。

むぅむぅ89歳の誕生日。

カメラを向けたら笑顔になりました。


これが、むぅむぅ最期の誕生日祝い。

これが、娘たちと最期のスリー・ショット。

きょうは、むぅむぅ91歳のお誕生日です。



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