奨学金

2018年04月20日 17:59

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学生時代のことです。

わたしは、
2年遅れて母校の演劇科に入学しました。

入学金と授業料を払うために、
働いてその金を貯めたからです。

その状況は、在学中も変わりませんでした。

アパートの家賃や生活費も稼ぐ必要がありましたから、
授業が終わると、アルバイトに向かう日々がつづきました。


そんな2年生の或る日、
教務担当のKさんが、わたしを呼び出してこう言いました。
「掲示板に“奨学金”の募集が貼ってあるだろ?
 あれ、なぜ応募しないの?」

それはこういうことでした。
母校が或る篤志家の基金で行っている“奨学金制度”を
掲示したにもかかわらず、応募者がいないので、
アルバイト生活から学費を払っているわたしに、
「なぜ応募しないのだ?」と訊いてきたということです。

それに対してKさんに応えたことを、いまでも覚えていますが、
「だってKさん、ぼく働いてますから・・・」

それに対してKさんに言われたことも覚えています。
「日下!(わたしの旧姓)だからそういう学生が対象なんだよ!」

そんなやりとりがあって、
結局わたしは母校の奨学金に応募したのでした。

すると、奨学金を頂くことができました。
その奨学金は現金を頂くのではなく、
“前期の授業料免除”という形式で頂けるものでした。

それは、当時の前期分の授業料金ですから、
確か12万5千円に相当しました。

それは、わたしにとっては本当に助かりました。
しかし、奨学金の話はここで終わりません。


今度は、後期の授業料と奨学金の時期になりました。
するとKさんが、またわたしを呼び出してこう言いました。
「なんで後期の奨学金に応募しないんだ?」

前期分を頂いて恐縮しているわたしにとっては当然、
そんな応募は考えもしないことでした。

しかし、Kさんはまたしても応募を勧めるのでした。

結果、後期分の応募をしたところ、
後期の奨学金も頂くことができたのでした。

研究室にお礼を申し上げに行ったのですが、
どの教授もKさんも、その理由を説明してくれる人はいませんでした。

そして、
その奨学金の特徴の一つなのですが、特記すべきは、
「そのお金は返済する必要はないが、将来社会に還元できる人になるように」
というものでした。それが篤志家のご意志だということでした。

わたしは、そのご恩を社会に還元できる人間になったとは思いませんが、
以前、母校から講師のお仕事をいただいたときは、ご恩返しのつもりで、
5年間勤めさせていただきました。。


昨今、
世の学生たちが、奨学金の返済と利子に泣いていると聴きます。

わたしは、
本当にいい時代に、いい大学の学生だったなぁ・・・と思います。

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山吹伝説の地

2018年03月28日 20:16

2018年面影橋

近所に在る桜の名所の一つです。


面影橋

目白通り沿いに神田川が流れています。

明治通りと目白通りが交差する「高戸橋」を過ぎると、
神田川と平行して目白通りに都電荒川線が走っています。

都電の早稲田駅の一つ手前に面影橋という駅が在りますが、
面影橋駅前の神田川に架かる橋が「面影橋」です。

橋の袂には、「山吹之里の石碑」が建っていますが、
これをもって太田道灌の山吹伝説の地だと謂われています。

七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき

桜のあとは、山吹でしょうか。




うらみ事

2018年03月26日 17:59

老け

一昨日の恩師を偲ぶ会を過ぎて、
昨日は恩師とのエピソードを一つ記しました。

きょうは、もう一つ記そうと思います。

それは、うらみ事であります。

老け役

さて、
わたしたちの母校の演劇科は、
短期大学ですから、2年間で卒業します。

しかし、
更に学びたい人は専攻科に進学します。
専攻科も2年間ですから、わたしは4年間学びました。

その4年間で、
実技発表会や公開テストなど、表現する機会が多々ありましたが、
しかし、演劇公演となると、そう多くはありませんでした。

専攻科のときに年3回の演劇公演がありましたが、
1年生のときにはありませんでしたし、2年生のときでも、
卒業公演を入れて2回程度でした。

その数少ない公演の機会に、役に恵まれるかどうかは、
50人の仲間と競合するなかで重要なことでありました。

さて、
4年目に初めて恩師の演出で公演することになりました。

作品は、ご存知シェイクスピアの「夏の夜の夢」、
二組の若い男女が織り成す青春喜劇であります。

わたしは、その公演の前の3年間、
どういうワケか解りませんが、老け役ばかりやっていました。

どんな役でも勉強ですから、それもいいのですが、
ここらで一発若い役をやってみたいと思っておりました。

そこで、恩師に直談判することにしました。
これまでどれだけ老け役ばかりを演ってきたかを切々と語り、
今回は、恋人たちでなくてもよいから老け役以外の役をつけて欲しい、
そう懇願したのでした。

夏の夜の夢

ところがフタを開けてみたら、
二役が割り当てられましたが、どちらも老け役なのでした。

一つの役はクインスという大工で職人のリーダーの役、
もう一つの役は、スターヴリングという仕立て屋の職人で、
劇中劇で「月の明かり」を演じました。

それも只の老け役ではなくて、
二役ともハゲかつらを被らせるというではありませんか。

しかも、
その姿で踊るというのでした。

もはや、恩師にからかわれているとしか思えなくなっていたのでした。

結局、
4年間で7公演あったのですが、
若者を演じたことがなかったというよりは、老け役専門だったワケです。

踊ってる

しかし、
もはや、うらみ事を云う先生もいなくなっちゃいましたケド・・・。



いまだから・・・

2018年03月25日 17:59

昨日催された恩師を偲ぶ会は、
基本的に“偲ぶ”ことをコンセプトにして進行されました。

したがって、
参加者相互が恩師との想い出やエピソードをシェアし合う歓談の時間を
十分にとろうという趣旨で行われました。

ですから、
会場のあちらこちらで、そんな話の交換が行われたことでしょう。

しかし、
わたしは生憎、事務局という立場で進行役との打ち合わせや、
ご来場者への挨拶などで走り回っていて、その機会がありませんでした。

そこで、
恩師とわたしのエピソードを一つだけ、此処に披露させていただきます。



22年ほど前のことです。

わたしが当時制作者として所属していた地人会の芝居を、
公共劇場(公文協)の自主事業として採用していただくために、
北陸地域を転々と営業したことがありました。

或る日、
入善町から魚津黒部滑川辺りを営業して富山駅で降りました。
その日は、富山市内に泊まろうと思ったからでした。

富山駅前のホテルを予約して、市内を散歩しようと歩いていると、
富山駅の前で、大きなトランクを二つ持った恩師と偶然再会しました。

恩師が、
富山市芸術文化ホール(オーバード・ホール)の初代芸術監督に就任し、
単身富山に移住されたことは知っていましたが、まさか此処で遇うとは、
思ってもみないことでした。

何故トランクをお持ちなのか訊くと、
確か、北欧諸国の劇場の視察旅行から帰ってきたところだとおっしゃいました。

そこで、その二つのトランクを持って、
当時恩師が住んでいらしたマンションまでお送りすることにいたしました。

マンションの恩師のお部屋は、
ゴミひとつ、チリひとつ、ホコリひとつも無い整理整頓されたお部屋でした。

部屋に招き入れてくださった恩師は、
くつろがれるよりも先に、わたしのためにお茶を淹れてくださったので、
むかし話に花を咲かせました。

恩師と長話をしている間に夜になってしまいました。

「寿司でも食おう」と促されるままに、近くの馴染みの寿司屋でご馳走になり、
「馴染みのバーがあるんだ」というのでハシゴして飲み、最後はホテルの前まで、
歩いて送ってくださったのでした。

翌日は、また転々と営業し、東京に戻ったのは数日後のことでしたが、
かみさんに、偶然先生と再会した話を聴かせました。

随分とご馳走になったし、恩師は毎朝キウイを召し上がっていると聞いたので、
かみさんに、キウイとなにか果物の盛り合わせを贈っておいてくれと頼みました。

それから、ひと月ほど経ってのことです。
恩師からお手紙が届きました。

たぶん贈ったフルーツの御礼のお手紙だろうと思って開封したところ、
「いま、病院のベットの上だ」と、綴られていました。


恩師とわたしが偶然遇った日の翌日は、
オーバード・ホールのオープニングセレモニーが行われた日でした。

セレモニーで、
芸術監督としてテープカットを行ってパーティー会場へ移動していたときに、
恩師は突然倒れ、意識不明のまま救急車で病院に運ばれ緊急手術を受け、
意識が戻ったときには、病院のベットの上だったというのでした。

その間に恩師のマンションに届いていた、
わたしたち夫婦が贈ったフルーツの礼が遅くなったという詫びのお手紙でした。

驚いたのなんの・・・。
すぐに、富山に住んでいる友人に頼んで病院に見舞いに行ってもらいました。

北欧旅行から帰国しお疲れだったところ偶然にわたしに遭ってしまったがために、
夜遅くまで酒を飲まれたのが災いしたのだろうと、わたしは思いました。

それから何か月かして恩師と再会したときは、お互いに涙なみだでありました。
おつきあいさせて申し訳なかったと詫びたわたしに恩師は、
「さぞ君が心配してくれているだろうと思っていたよ」とおっしゃって、
わたしを責めることはありませんでした。


あの時は、セレモニーとパーティーの合間で恩師の周りには大勢人がいました。
しかし、去年亡くなられたときは、恩師はご自宅でお独りでした。




4年ぶりの夜盗会

2018年03月10日 23:59

農経

4年ぶりに「夜盗虫会」に参加しました。
「夜盗虫」とは、高校時代の親友たちのことであります。


わたしたちの高校は、浜松の三方原台地の奥に在りました。
静岡県立農業経営高等学校という学校でした。現在は在りません。

農家の自営者養成を目的とした3年間の全寮制の高校でありました。

学校は、各農業種ごとに理想的な農業経営規模を持っていて、
生徒は、それぞれが専攻する農業類型を選択することが出来ました。

実際に高校生たちが類型ごとに農業経営を実践するという教育でした。
わたしは、実家のみかん農家を継ぐつもりで、柑橘類型を選択していました。

ところで、
「夜盗虫」というのは、学生指導で恐れられていた小林先生につけられたあだ名です。

昼間、授業中は眠っていて、夜になると寮の中を徘徊して、
なにかを食ったり騒いだりしている輩だというので、
「おまえたちは、夜盗虫みたいな奴らだなぁ!」と、有り難くも名付けてくださったのでした。
その小林先生も、亡くなってかなり経ちます。

今夜は、
その小林先生の奥様もいっしょに、夜中まで騒いだのでした。
怒ってわたしたちを追いかけ回す怖い小林先生は、もういません。

夜盗虫会







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