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日本演劇盛衰史は?

2020年07月05日 12:45

日本文学盛衰史


先輩の志賀廣太郎さんと同期の大塚洋が出演した青年団の芝居を観たのは、
2年前の7月5日のことだった。

青年団第79回公演「日本文学盛衰史」 原作:高橋源一郎/演出:平田オリザ

その前から体調不良を案じていたこともあって、二人が元気に舞台を勤めたのを観て
安心したのだった。

帰り際に、「つぎに、日本演劇盛衰史ってのを創ったら観たいよね」と言ったのだったが、
志賀さんが演じる日本の歴史上の演劇人はダレだっただろう?

田中千禾夫役だったりして・・・。

それにしても、
2年後に、志賀さんが不在になってしまって、多くの演劇が休演する事態になるとは・・・。
将来、「日本演劇“衰退史”」という芝居が創られることがないように願う。


 
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ソーシャルディスタンス

2020年07月04日 10:51

❶

もうすぐ七夕です。

この時季になると、
七夕飾りのかわりに、むかしの短冊を出して眺めています。

5年前に孫娘が願い事を書いた短冊です。

「じじとばばが○○がいきているあいだにしにませんように」

この短冊はジィジとバァバの宝物です。

「○○がいきているあいだにしにませんように」・・・無理ですけどね。

その願いは叶いませんように🙏


織姫と彦星、ことしは逢えるでしょうか?
ことしは、ソーシャルディスタンスですかね?

❷


志賀廣太郎インタビュー

2020年06月20日 10:32

志賀廣太郎

ことし4月20日、志賀廣太郎さんが亡くなった。

コロナ禍のなかでの訃報だったので、もしやと思ったが、
去年、4月5日~6日に倒れ緊急手術を受け入院したという報を9日に受けていた。


志賀廣太郎さんは、
わたしが母校・演劇科の2年生だったときに非常勤講師として現われた。

元々わたしたちの先輩で、わたしより8歳年上だったが、
ドイツへ留学して演劇の勉強をして帰国したばかりだった。

志賀さんは、
わたしたちの公演で演出助手を務めてくれたり、
後輩の公演のときには、いっしょに汗を流した。

留学中に知り合ったという画家の奥さまと暮らすアパートへ伺ったり、
その奥さまの個展を観にいったり、あらゆる機会に飲んだりした。

しかし、わたしにとって特筆すべきは、芝居ではなかった。

わたしが在学中に準備委員会が発足し創立された演劇科の同窓会だ。
その曲者の多い同窓会員たちをまとめ会を軌道に乗せるために、
わたしは事務局長として、志賀さんは会計担当として共に苦労した。

だが、なんども議論したり飲んだり遊んだりしたが、
志賀廣太郎さんの話をまとめて聴いたことはなかった。

すると、
今朝、後輩が母校・桐朋学園芸術短期大学のホームページに載った
「志賀廣太郎さんインタビュー」をシェアしてくれた。

インタビューが行われたのが去年の4月3日だから、倒れる直前だったということになる。
そして、このインタビューから約1年後に亡くなったのだ。

これが、貴重なインタビューになってしまったことが惜しまれる。
もっと、話を聴いていればよかった。

偲ぶ会は、まだまだ行われないだろうが、このインタビューを読んで偲んでいる。

「志賀廣太郎さんインタビュー」




引導

2020年06月17日 17:22

義母

3年前の2017年6月17日、
その日は、朝から血中酸素量が少なく、脈拍も安定していなかった。

連日、映画を観せたり落語を聴かせたりしていた。
その日は、文芸坐のドキュメンタリー番組を録画したものを流したが、
長時間画面に目を向けることはできなくなっていた。

夕方のことだったが、
オムツを替え、口と鼻から痰を吸引したあとで、
覚醒させようと義母の写真を見せた。

むぅむぅ(義父)の目の前に、義母の写真を掲げると、
「ウチのカミサン!」と言ったきり目を離さないで写真を見つめている。

目を見開いたまま、あまりに集中して見つめているものだから、
わたしは中腰で写真を持ったまま動けなくなってしまった。

むぅむぅは、その日から4日後に亡くなったのだが、
思えば、あの時むぅむぅは義母に逢いたくなってしまったのではないか?

わたしがむぅむぅに、引導を渡してしまったのかもしれないと思っている。



清盛と水

2020年05月09日 15:50

むかし、かみさんの母が生きていた頃のことだ。

家族で京都を旅行したときに、
母が懇意にしていたタクシーを貸し切りにして京都観光をした。

そのタクシーの運転手さんが、
運転しながら名所を案内してくれたが、或る話が印象に残った。

運転手さんは遠くに見えた清水寺の方を指して、
「あそこはむかし、ぎょうさんの死人を捨てた山だったんですよ」と言った。


それで興味を持って少々調べてみたことがある。

たとえば平安時代、
「鳴くようぐいす平安京」だから平安時代は794年~1158年までの約390年間。

平安時代というと雅なイメージだが、京は度々疫病が流行する不衛生な都市だった。
そもそも上下水道は無かったから排泄物が街路に垂れ流され放置されていたらしい。

しかも、人口密度は高いのだから必然的に疫病が流行するワケだ。
天然痘や赤痢などいろいろな伝染病が流行して多くの死者が出たのだったが、
人々は加持祈祷をしたり陰陽師に悪霊退散を祈らせたりするしかなかった。

そんな京の街を支配していたのは朝廷と貴族たちだったが、
武士階級は身分が低く人が嫌がる所謂汚れ仕事を請け負っていのだった。

治安を守るのも戦をするのも、死体の処理や運搬や埋葬も武士たちの仕事だった。
だから当然、疫病に感染して亡くなる武士たちも多かった。

そんな武士たちの中から登場し武家の棟梁になったのが平清盛だ。
その平清盛たち武士が住むことを許されていたのが、清水寺に近い六波羅だった。

だから、清水寺は死体の廃棄場だったというワケだ。

疫病が歴史を動かした、これもひとつの例だろう。


やがて汚れ仕事をこなし、武家の棟梁として権力の頂点に上り詰めた平清盛は、
不衛生な京から福原(現在の神戸)に都を移そうと(遷都)する。

福原を都に選んだ理由は宋との貿易の要衝の地だったからだけではない。
福原(神戸)は六甲から湧き出る清潔な水の地だったからだ。

平清盛が住んでいた京の家も泉殿と呼ばれる泉の湧いている家だったという。

そして、
大原(神戸)、厳島神宮、瀬戸内の海、壇ノ浦と、平家には水のイメージがつきまとう。

綺麗な水は、衛生環境と健康を追い求めた清盛の夢の象徴だったのかもしれない。





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