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グランドに敵はいない

2019年08月19日 14:45

箱根

環境省は、連日「暑さ指数」を発表している。
8月18日14時の大阪の暑さ指数は31.1で危険だと警告していた。

「熱中症の危険性が高まっています。
外出はなるべく避け、涼しい室内に移動してください。
運動は原則中止し、乳幼児や高齢の方は水分を補給しましょう。」

そんな中、わたしは涼しい場所で甲子園のテレビ中継球場を観ていた。

準々決勝第3試合、星稜(石川)対仙台育英(宮城)の7回裏。
仙台育英の攻撃中に星稜の先発・荻原の右手がつりかけた。

すると、
ベンチにいた仙台育英の小濃選手が、荻原投手の異変に気づいた。
スポーツドリンクの入ったコップを持ってベンチから飛び出して、
マウンドの星稜の萩原投手に駆け寄って言った。

「怪我したらダメだ、これ飲めよ」

観ていて、一瞬なにが起こったかの判らなかった。

マウンドに立つ相手チームの投手にスポーツドリンクを持ってゆくなんて、
そんなことが出来るんだ!?でも、そんなことする選手など見たことない。

それにしても、
夏の甲子園球場は、連日気温が35℃以上になるのだそうだ。
そして、スタンドでもグランドでも体感温度は40~45℃にも達するという。

そもそも、
これだけ熱中症の危険が警告されているのに、なんで野球の試合なのだ?
何ゆえオリンピックなんだ?

でも、
連日暑苦しい話題ばかりが報道されているなか、昨日の甲子園球場には、
涼しい風が吹いた気がした。

星稜にも清涼の風。


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韓国と日本の「未来」と「希望」

2019年08月08日 13:00

週刊女性

かみさんが「週刊女性8月20・27日合併号」を買ってきました。

わたしが、黒田福美さんの“この活動”を知ったのは、
2017年7月に黒田福美さんが上梓された
「夢のあとさき-帰郷祈願碑とわたし-」を読んだからでした。

※去年8月、加筆修正削除等が行われた改訂新版「それでも、私はあきらめない」を上梓。

「夢のあとさき -帰郷祈願碑とわたし-」それでも、私はあきらめない

1991年7月、黒田福美さんの「夢」に、
“日本人”として特攻で散った朝鮮人の青年が現れました。

彼は、「日本名ではなく、朝鮮人として死にたかった」と訴えました。

その「夢」を手がかりにして、
黒田福美さんは、「夢」に現れた青年を探す旅に出掛けたのです。

それが、
朝鮮人戦没者を弔う石碑「帰郷祈願碑」を韓国で建立する活動に繋がり、
日韓の様々な困難と批難を乗り越えながら28年にもわたって奔走します。


昨今、
国と国も、人と人も、相手を受け容れて話し合うことが大切だとは申します。
しかし、それはそう簡単なことではありません。

ましてや28年間それをつづけたのは並大抵の覚悟や精神力ではありません。

だから今こそ、黒田福美さんの体験と行動に訓えられること大なのであります。

黒田福美さんが見ているのは、
眠って見た「夢」ではなく、韓国と日本の「未来」と「希望」のことでしょう。


わたしは、彼女のことを“友人”としてではなく、“日本人”として尊敬します。


樹理

2019年07月22日 23:59

35年前の1984年2月12日は雪が降る日だった。

その日は休みだった。
夕方、肉を焼いて食おうとしたら後輩の樹理から電話があった。

「Sが死んだみたいなんです」

焼いた肉をそのままにして、樹里とAと会って三人で通夜をやった。

翌日、樹理とAと、Sの姉のアパートで遺骨になったSと対面した。
その翌日、上野駅のホームで30名ほどの後輩たちとSを見送った。
その翌日、Sの通夜に参列するために秋田の小さな駅に到着した。
その夜から約半年間、Sが何故死んだのか調べまわることになった。

Sが死ぬ10日ほど前、
Sの彼女が夜遅くにSを探しに我が家を訪ねて来たことがある。

Sが死ぬ5日ほど前、
深夜に我が家に帰るとSが待っていて、朝方まで話したことがある。

Sが死ぬ前日、
わたしが帰宅すると、Sに長い間貸していた本が返してあった。


わたしが探偵のような行動をとったのは、或る“後悔”からだった。
Sが亡くなる5日前の深夜に訪ねて来たときに、彼の話を聴かず、
先入観から一方的に彼に説教をしてしまったことの後悔であった。

あの時にSの話を聴いていれば、
もしかしたらSが死ぬようなことはなかったかもしれない。

そう思えて仕方がなかった。

Sが死んでしまった後から彼の気持ちを探っている自分が許せなかった。


あの半年間、樹理とは何度も話し合った。
Sが樹理から依頼されていた樹理の母上である新屋英子さんの一人芝居、
身世打鈴(しんせたりょん)」をSの代わりに手伝ったりもした。
劇作家で演出家でもあ樹理の父上とも親しくさせていただいた。


いま思い出してみると、あの半年間の後には樹理との想い出がない。
あれほど、濃密な半年間を過ごしていたのに不思議だ。

お互いに、
逢うと辛いことを想い出すから、無意識に避けていたのかもしれない。
また、そのうちに逢うこともあるからと思っていたのかもしれない。

だけど、それがまた“後悔”になってしまった。

そのうちに逢えるからと思っても、逢えず仕舞いになってしまうことがある。


きょう、Aといっしょに樹理の家に行ってきた。
樹理を偲んで献花した。

いつか逢えると思っていたのに急病で急逝してしまった樹理。


ゴメンね樹理。こっちから、たまには逢いたいねって言えばよかった。

向こうでSに逢ったら、
日下(旧姓)があのときは話を聴かなくて御免って言っていたと伝えてください。
いつか向こうに逝ったら、ちゃんとSの話を聴くからと・・・。

樹理


“弱気は最大の敵”

2019年07月20日 11:59

津田恒実

きのうの巨人戦は、
會澤翼のライトスタンドへの2ランホームランで逆転勝ち!


さて、うちのかみさんは、
自他ともに認める広島カープと、津田恒実選手の大ファンです。
息子たちも、その影響を受けて育ちました。

きょうは、
“弱気は最大の敵”という座右の銘で有名な、
故・津田恒実選手(旧・恒美)の命日です。

津田選手は、“炎のストッパー”と形容された広島カープのピッチャーでした。


二年前、歌舞伎俳優である長男が、
広島市民球場で国歌独唱と始球式をやらせていただいたことがありました。

その試合は、逆転サヨナラホームランで広島が勝ち、
息子は、試合後に津田夫人である津田晃代さんをお見掛けして、
津田投手のTシャツを見せながらご挨拶することができたのでした。

広島市民球場で、国歌独唱、始球式、逆転サヨナラホームラン、
そして、憧れの津田恒実選手の奥さまにもお逢いできて、
息子にとってもかみさんにとっても、奇跡のような一日でした。


その奥様が書かれたご本、「最後のストライク」を読んだことがあります。

26年前に、2年と3か月間の壮絶な闘病の末に、
32歳という若さで亡くなった津田選手の生きざまが記されていましたが、
88年間の人生の最期を、満足して迎えているであろう父の病床の横で、
それを読みました。

津田選手も奥様も、さぞ無念であっただろうと思いました。


さて、現在の広島カープには、
あらためて、津田恒実選手の言葉を思い出してもらいましょう。

“弱気は最大の敵”




お掃除のオジサン

2019年07月10日 18:18

2002年6月のことでした。

学生時代の友人で、
イリュージョニストデューク松山から電話をもらいました。

「明日、帝劇でゲネプロをやるんだけど観にこない?」

そこで翌日、
依頼されていた取手でのセミナーを終えてから帝劇に向かいました。

帝劇の舞台では、ジャニーズ事務所堂本光一主演ミュージカル
「SHOCK」のゲネプロ(通し舞台稽古)の準備をしている最中でした。

デューク松山は、この作品のイリュージョン場面の演出を担当していました。
彼は、客席の演出家席から舞台装置と動きのテクニカル・チェックをしながら、
キャストやスタッフにマイクで指示を出していました。

わたしは、演出家席から少し離れた後方の席に座って観ていました。

すると、客席の通路を行ったり来たりしている年配の男性がいます。
しばらくは気に留めなかったのですが、演出家席の目の前の辺りでも
ウロウロしているので、やがて気になってきました。

なにか・・・、お掃除のオジサンが片付けものや掃除をしているようでした。

ただ、テクニカル・チェックとは言え、
演出しているデューク松山は気になるのではないかと思ったのです。

しかし、やがてテクニカル・チェックは終了し、ゲネプロが始まりました。


この公演は、
初演時に「帝劇でジャニーズの堂本光一が初座頭」を勤めると話題になり、
堂本光一の大胆なアクションとイリュージョンの魅力で再々上演の舞台でした。

ゲネプロが終わって、
デューク松山に「あそこに邪魔な人がいて気になっただろ?」と訊くと、
「あれがジャニーさんだよ」と教えてくれました。

ジャニー喜多川さんは、
オーディション会場でも存在を隠したり、清掃員の恰好でわざとゴミを落とし、
オーディションを受けにきた若者たちの反応をチェックすることがあったと、
今朝のワイドショーで解説していました。

ご本人と解った瞬間に掌返しの反応をするような人は受からなかったそうです。

あの時がオーディションだったとしたら、わたしは受からなかったでしょうね。


ジャニー喜多川さんのご冥福を祈ります。





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