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彼岸に逝った人たち

2020年03月20日 11:51

春分の日2020

今年の墓参り(お彼岸)は桜の花の下だった。


さて、
25年前の朝の新宿駅から、あの丸の内線の電車か前後の電車にわたしも乗った。
だから、わたしも被害に遭っていたかもしれないと思っている。

その
松本サリン事件地下鉄サリン事件を取材する中で被害者の後遺症に注目したジャーナリストで、
わたしの先輩でもある磯貝陽悟さんは、被害者の継続的に健康診断を行う必要性を感じた。

磯貝さんが奔走した結果、医師・看護師・弁護士などの専門家に声をかけ協力を得て任意団体を設立し
健康診断をスタートさせた。それが現在のNPO法人「リカバリー・サポート・センター(R・S・C)」につながった。

だが、
R・S・Cが支援し続けた地下鉄サリン事件被害者、浅川幸子さんが亡くなった。
R・S・Cを創った磯貝陽悟氏も今年1月22日に亡くなった。

お二人のご冥福を祈るとともに、わたしたちは事件を忘れないことである。

合掌


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戦争犯罪

2020年03月10日 20:51

たつみのママと伊織

9年前の3月10日から、毎年、東京大空襲のことを記しています。

あの東日本大震災が起こる前の晩のことです。
近所に在る居酒屋で飲んでいて、ママから聴いた話です。

ママとは、亡くなったむぅむぅ(義父)をはじめ、
息子たちや孫たちまで昔からつきあっています。


ママは75年前、5歳でした。
少女の父親は歌舞伎座の電気技師で一家は向島に住んでいました。

その夜、
少女の父親と母親は向島から浅草を目指して荷車に家財道具と子供5人と、
眼の不自由な母を乗せて、甥と奉公人の計10人で向島から逃げていました。

なんとか言問橋に着いたのですが、浅草から言問橋を渡って来る人たちと、
本所・向島から浅草方面に逃げようとする人たちで橋が混雑して渡れません。

とても子供たちを連れた荷車では逃げられないと観念した両親は、
隅田川の傍らの防空壕の縦穴に家族を入れます。
その上から布団を被せ隅田川の水を汲んで布団にかけたのでした。

それが功を奏したのでしょう。火災旋風渦巻く中で家族全員が助かりました。
後で、群衆と一緒に逃げた町内の人たちは全滅したと聞いたそうです。

所謂、東京大空襲と謂われる昭和20年3月10日未明の空襲の体験談です。
東京大空襲は、一晩に約10万人の方々が亡くなった空襲でした。


一口に10万人と言いますが、
原爆を投下された広島は16万人、長崎は8万人という大雑把な数え方をします。
万人単位で数えなければならないほど、もの凄い死者の数です。

それなのに、
東京都が東京大空襲の犠牲者を追悼する記念式典を行うようになったのは、
以外にも1991年(平成3年)からでしたが、それも今年はコロナで行われません。

無差別の空爆は、
日本全国の主要都市でも遭ったことですし、旧・日本軍も行ったことです。
それが、原爆とは違って、なかなか追悼式典が行われなかった理由でしょう。


ところで、
無差別爆撃を指揮した米空軍司令官カーチス・ルメイ大将に対し、
佐藤栄作内閣は勲一等旭日章の叙勲を閣議決定し授与しています。
その理由は、航空自衛隊育成の協力でした。

そのルメイ司令官は、
「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことにわれわれは勝者になった」
と言ったとされます。

戦争にいい戦争もワルイ戦争もありません。
戦争それ自体が、人間としての犯罪行為だと言える証左です。



映画館主の矜持

2020年03月06日 23:59

文芸地下劇場

映画館で働きたいと応募してくる人たちには特長があります。

モチロン、映画好き。
それも、半端ない映画好きの人が多いのです。

“映画の世界”に身を置きたい。

映画の傍で働きたいといった動機はあっても、
映画創りの現場ではなく映画館で働きたい人たちです。

したがって、
映画館スタッフは映画好きならではの拘りを持っています。

邦画好き、洋画好き、あの監督が好き、アクション映画好き、
あの俳優が好き、あの怪獣が好き・・・。

ぶんげいしねうぃーくりぃ

さて、
池袋東口に在った文芸坐、文芸地下劇場という映画館主だったむぅむぅ(義父)が、
スタッフを募集したときの文章があります。

そのなかに、映画館のスタッフとしての自覚を促す部分があります。

中略 
映画好きであること、
しかし映画を観る側と観せる側とでは立場が180度違うこと、
つまり観る側は“遊び”だが観せる側は“仕事”であること、・・・


青年募集

文芸坐、文芸地下劇場には見巧者の映画ファンが大勢いらっしゃいました。
映画産業に従事している人たちも驚くほどの知識をお持ちの方もいます。
自分の人生は映画で出来ていると自負される方もいました。

しかし、
映画館を経営し、番組を編成し、営業して集客して結果を出すということは、
“映画好き”でなければ出来ないが、“映画好き”なら出来るワケではありません。

それがプロの仕事であり、そんな素人の映画好きの皆さんを納得させてこその
映画館経営なのです。

それが、名画座と呼ばれた映画館主の矜持なのでありました。


文芸坐、文芸地下劇場が閉館して、きょうで23年経ちます。



母の実家

2020年02月16日 17:59

興津の家族

ドキュメンタリー番組で採り上げられたり、家の見学会を行ったり、
三浦家のことを世間の皆さまに知っていただく機会が増えた昨今。

叔母が写真を送ってくれました。叔母は母の末妹です。
母の兄姉で生き残っているのは、この叔母だけになりました。

母というのは三浦の母ではなく、わたしの実の母のことです。
母は高田家に生まれ、日下の父と結婚してわたしを産みました。

この写真がいつ何処で撮られたのか、ハッキリは判りませんが、
母が結婚する少し前に高田家で撮られたのだろうと想像できます。
なぜなら、真ん中の母だけが着物姿で写っているからです。

だとするならば、この写真は1955年(昭和30年)の夏頃でしょう。
両親が結婚したのは10月ですし、写っている衣服からも夏だと思います。


1955年(昭和30年)と言えば、
米の生産量が史上最高を記録し、闇米の値段が配給米の価格を下回り、
神武景気が始まったとされる年です。

また、
二大保守政党の自由党と日本民主党が合併して自由民主党が誕生し、
日本社会党との二大政党体制(55年体制)が始まった年でもあります。


さて、
写っているのは、わたしの祖父母と伯母(叔母)たちと従姉(従兄)たちです。
母は、父の実家の在った徳島で式を挙げて嫁ぐことになっていましたから、
嫁ぐ前に家族で写真を撮ったのでしょう。

静岡の清水と四国の徳島は、いまでも遠いのですが、
1955年(昭和30年)当時の感覚では異国ほど遠方に感じたことでしょう。

ですから、ここに写っている祖父母を除いて他の人たちは、
徳島で行われた結婚式には出席できなかったのではないでしょうか?

この写真が1955年(昭和30年)だとすると、母は26歳、祖父は67歳です。
わたしは、まだ影も形もありません。

一枚の写真から想像できることがいっぱいあります。


補足

2020年02月15日 11:00

新日本風土記OA

昨夜のNHK BS プレミアム 新日本風土記「池袋」の放送、
インタビューを切り取られたので、なんの話かお分かりにならなかったでしょう?

そこで少々補足させていただきます。

あの話は、昭和23年に人世坐がオープンしたときに祖父・三角寛が、
吉川英治井伏鱒二永井龍男徳川夢声朝倉文夫といった文士や芸術家たちを集め、
映画館の株主にしたという逸話のくだりです。

下の写真はその株主総会と称した文士たちの宴会の様子ですが、
文士や芸術家たちを本当の株主にしたのではなく名目だけだったのです。
その「文士経営の映画館・人世坐」のことが世間では話題になりました。

そんな映画館・人世坐のオープニングには、話題になったことがもう一つあります。

映画館・人世坐のすぐ近くには、巣鴨プリズンが在りました。
その巣鴨プリズンの屋上には星条旗がはためいておりました。

祖父は、星条旗の向こうを張って人世坐の大屋根に日章旗を揚げました。
進駐軍に逮捕されることを覚悟だったそうですが、どういうワケかお咎めナシ。

ところが、「三角寛が映画館の屋根に日章旗を揚げたぞ」と話題になって、
各新聞が取材に来て、日章旗を揚げた写真入りで記事を載せてくれました。
おかげで、ただで広告宣伝ができたというワケです。

戦争中多かれ少なかれ軍に協力していた文士たちにとっては、
戦後公職追放に遭ったり、敗戦で価値観が混乱して元気がなかった時代でしょう。

そんな彼らが、
よく判らないうちに、やたら元気で前向きな祖父にまき込まれてしまったのでしょうが、
そんな祖父が新しい時代の池袋に映画館という文化の旗を立てたのも確かなことです。

以下、“人世坐の株主総会”と称する宴会の様子。

人世坐株主総会?の様子
後ろ姿が河盛好蔵、その左が三角寛永井龍男徳川夢声


人世坐の株主の面々
後ろ頭が永井龍男、左が徳川夢声朝倉文夫井伏鱒二




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