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金魚

2020年01月17日 18:00

金魚

体長30センチ、一尺、これでも金魚。

孫娘か、もしかしたら息子たちがこどものときに、
露店の金魚すくいで獲った金魚だろうと思う。

自宅で飼っていたが、それが少し大きくなると、
「雑司が谷 寛」の池に放していた。

出入りの猫にやられてしまう不幸な金魚もいたのだが、
何匹かは生き残って成長をつづけた。

だから、
はじめはちいちゃな金魚だったが、
いまや、錦鯉かと見紛うように大きくなった。

だが、
「雑司が谷 寛」を取り壊すことにしたので、
この金魚たちにも立ち退いてもらうことにした。

縁日の露店で、たった数百円で買った金魚だが、
「雑司が谷 寛」のお客様たちに愛でていただいた。

よく働いてくれたのに、
主のことを情け知らずだと思うだろう。

だが、神田川に放流するワケにもいかず、
引き取り先を探し、近所の金魚店に引き取ってもらった。

ホント、金魚には申し訳ない。

達者でな。


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寒中見舞い

2020年01月16日 11:39

寒中見舞い

この先輩は、わたしが母校・演劇科に入学したときに、
ドイツ留学を経て帰国し、母校の講師になっていた。

わたしたち学生の公演の際には、
田中千禾夫先生などの演出助手を務めてくれた。

だが、わたしにとって先輩は、
先生というよりは、共に同窓会を創り運営した同志だ。

同窓会会長はテレパックの元・ディレクターOさん、
先輩が会計を担当し、わたしは事務局長だった。

よく話したし、よくいっしょに酒も飲んだ。
お宅に遊びに行ったことも度々だった。


去年、かみさんが楽しみに観ていた
テレビドラマ「きのう何食べた?」にレギュラー出演していたが、
病気療養のために降板した。

お見舞いに行った友人たちもいたが、
わたしは回復するまで逢わないでいようと思っている。

時間がかかったとしても、
お大事に養生をつづけてほしいと願っている。

同志


五の間

2020年01月15日 18:39

五の間

「雑司が谷 寛」は、かつて祖父・三角寛が暮らした三浦家の自宅でしたが、
住宅の裏に、「演房」と名付けられたお芝居の稽古場が在りました。

祖父・三角寛がこの家を買ったときにはメリヤス工場だった建物を改修し、
祖父は漬物や梅干と作る作業場にしていたようです。

その当時大勢いた書生やお手伝いさん達を使って1,730種にも及ぶ大量の漬物を作り、
そのレシピを「つけもの大学」という本にしました。

つけもの大学

三角寛の死後、
その漬物工場だったのをお芝居の稽古場に改修し「演房」と名付けたのは父・三浦大四郎です。

「演房」は、本田延三郎さんが創立したプロデュース団体「五月舎」の稽古場でした。

五月舎は、数多くの名作舞台を創りましたが、
井上ひさしさんの「雨」、水上勉さんの「はなれ瞽女おりん」、「越前竹人形」などは、
「演房」で稽古した作品です。
(演出はいずれも木村光一さん)


稽古場には、演出家や俳優をはじめ劇作家もやってきて、
稽古の合間に我が家の茶の間は休憩所になったのでした。

我が家の茶の間だった部屋は「雑司が谷 寛」の五の間といわれている部屋です。

そのむかし、演出家や劇作家や俳優たちが集い、
茶をすすり、煙草をふかしながら芝居の話をしていた部屋です。




ひとのよ弁財天略縁起

2020年01月13日 23:59

ひとのよ弁財天

「雑司が谷 寛」の床の間には弁天様がお祀りしてあります。

この弁天様は「ひとのよ弁財天」と申し、
祖父・三角寛が映画館・人世坐の傍らに建立したのでありました。

しかし、
祖父が映画館・人世坐の土地を東京信用金庫本店に売却した後、
雑司が谷の自宅に移してお祀りしていたのでした。


さてそれでは、
そもそも何故「ひとのよ弁財天」を祖父は建立したのかというお話です。

昭和22年(1947年)のことです。
祖父・三角寛は出入りの古道具屋からドイツ製の映写機を買います。

時代の先を読んだというか、特別の勘が働いたというべきか、
その映写機で映画館をやろうと考えたのであります。

ところが建築にとりかかったものの、
請負師に金を持って逃げられてしまいました。

途方に暮れていると、
或る人物が現れて、人世坐の隣の大工用の便所が立っている場所は、
むかし蓮池だったところで、そのほとりに弁天様が祀られていたはずだ、
そう言われたので、土地の古老に訊いて調べてみると本当らしい・・・。

そこで、
早速、便所を他に移して土を掘りかえし新しい土と入れ替えました。
そして、弁天様を建立する決心をしたのでした。

すると、それを聞いて130万円という金を出してくれる人が現れたので、
止まっていた工事を再開し、映画館・人世坐が建ったというのであります。

そこで、
昭和27年(1952年)に弁天堂を建て「ひとのよ弁財天」をお祀りしました。

ところで、
“弁財天”は“弁才天”とも申され、技芸・文芸・弁舌の才を司る神様です。
所謂、芸事・芸能・芸術の神様と言ってもよいでありましょう。

ですから、
弁天様は、映画館のみならず三浦家の守り神様なのでありますよ。

いまは無き映画館・文芸坐の外壁にあったレリーフも、
実はアレ、弁天様だったのであります。

文芸坐のレリーフ


三の間

2020年01月12日 13:00

三の間

「雑司が谷 寛」に、三の間と呼ぶ部屋が在ります。

壁が赤く塗られた部屋ですが、
祖父・三角寛と父が手ずから漆を塗ったのだといいます。


さて、
「雑司が谷 寛」の前の道は、むかしは弦巻川という川でした。
その川の上に蓋をして暗渠にし、道路に変えたのです。

ですから、現在の門と玄関は後から造ったもので、
当初この家の玄関は、実はこの三の間だったのです。

玄関を移してから、祖父はこの部屋を造りました。

併せて、隣の部屋の床板をヒノキに替えました。
床下の地中には大きな甕を埋めたのだといいます。

格子柄の板戸を外せば、そこは舞台になるのでした。

三角寛にとって、目に入れても痛くない存在は、
三角寛の一人娘だった母と二人の孫娘たちでした。

孫娘を、いつも懐に抱いて可愛がったといいます。
世間からは怖がられていた三角寛の、それも一面であります。

母は、
日本舞踊林流の初代家元・林きむ子師に師事していました。
祖母が林きむ子師の娘である林一枝先生の踊りが好きで、
娘にも二人の孫娘たちにもお稽古をさせていました。

林きむ子師は、
柳原白蓮九条武子と並び称された大正三美人の一人です。

三角寛が、妻の趣向を受け容れて自宅を改装し、
舞台まで造って、妻と並んで娘や孫娘の踊る姿を愛でていたのでしょう。

ところで、
この舞台で林一枝先生も踊ったというのですが、
林きむ子師が踊ったかどうかは判ってはいません。

ただ、うちのかみさんは小学生のとき、
林きむ子師の臨終間際の枕元で名取り式をしてお免状を授かったのだそうです。




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