きょうが命日

2018年07月19日 21:32

祖父母

きょう7月19日は、わたしの父方の祖母の命日です。
祖母は、1989年(平成元年)に86歳で亡くなりました。


徳島は、お四国八十八箇所霊場の巡礼の地です。

徳島に在る本家は、
毎日、門口に何人ものお遍路さんが托鉢に来られていました。
その度に祖母は、僅かな米や小銭を鉢の中に入れるのでした。
毎日、何十人ものお遍路さんが次々に托鉢に来られても、
祖母は丁寧に托鉢に応じるのでした。

徳島では、それを「お接待(おせったい)」と謂います。

お遍路さんをおせったいすることは、
お大師様をおせったいすることと同じなのです。

祖母は、お遍路さんたちを家にお泊めしていたそうです。
食事を供して夜具を敷いて世話をしていたのだそうです。

おせったいは、究極のボランティア精神でしょう。
そんな祖母の影響が、孫娘たちに伝わってしまいました。


ところできょうは、山岡鉄舟の命日でもあります。

山岡鉄舟は、
1888年(明治21年)7月19日に満52歳を目前に亡くなりました。

山岡鉄舟のことは、これまでもこのブログで、
山岡鉄舟西郷隆盛への直談判が江戸無血開城につながった話。
その会談場所が醤油醸造元の松崎屋源兵衛宅であった話。
そこへ鉄舟を極秘裏に案内したのが、清水次郎長と子分たちだった話。
松崎屋源兵衛夫妻が、わたしの母方の層祖父母を結び付けた話。
鉄舟提案の徳川の元幕臣たちによる牧之原開拓がお茶の産地を創った話。
鉄舟が、清水に在る鉄舟寺(久能寺)を再興した話。
鉄舟寺を再興するにあたり、清水次郎長が勧進に回ったという話。
清水次郎長が曽祖父母の家に鉄舟寺の勧進のために軍鶏を持参して来た話。
雑司が谷の鬼子母神堂境内に、彰義隊士たちを思って書いた鉄舟揮ごうの碑が在る話。
鉄舟が木村家のアンパン明治天皇に献上した話。
その木村家のロゴマークは鉄舟の筆によるという話。
明治天皇が山岡鉄舟に相撲を挑んだ話など、いろいろ書いてきました。

わたしの母方の祖父は、1888年1月1日生まれですから、
約半年は、山岡鉄舟と同じ時代を生きたことになります。

こうして鉄舟のエピソードに触れるとき、
いまの国のリーダーや政治家たちのを諌めてくれる鉄舟のような人がいないものかと思います。

いなければ、わたしたち国民が諌めるしかありませんけど・・・。


晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり  鉄舟

富士の山
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人探し

2018年06月24日 18:00

「あいつ今何してる?」

テレビ番組のプロデューサー氏から電話をもらったのは、ことしの3月上旬のことでした。

テレビ番組というのは、
テレビ朝日の水曜日の夜7時から放送している「あいつ今何してる?」です。

プロデューサー氏が申されますには、
女優の高畑淳子さんをゲストにして“同級生”を探す番組を作っているが、
高畑淳子さんが「あいつ今何してる?」と気になっていらっしゃる同級生が
何人かいるのだというのです。

しかし、
その同級生たちをなかなか見つけられなくて困っていると申されるのでした。

すると、
約2ヶ月間探して最終的に母校演劇科の同窓会のホームページに辿り着き、
わたしが載せてもらった恩師の偲ぶ会の情報に「事務局・三浦秀和」の名と、
わたしの携帯電話とメールアドレスを見つけられて、連絡してこられたのです。

高畑淳子さんというのは、わたしたち夫婦の演劇科時代の先輩にあたります。
特にかみさんは、劇団青年座の研究所にいたこともあり親しい間柄であります。

早速、
その“同級生たち”を探すお手伝いをすることにしたのですが、
既にわたしが知っていたり、かみさんが知っていたりしたので、
早速電話で連絡をして、番組の趣旨を伝えることができました。

そして、
来週6月27日(水)19時~22時の3時間スペシャルの「あいつ今何してる?」で、
高畑淳子さんの回が放送されるとプロデューサー氏から連絡がありました。

そこで、
フェイスブックやブログで、番組宣伝してもよいか訊ねましたら、
高畑淳子さんがゲストだということは告知していただいて構わないが、
どういう同級生が登場するかは伏せておいてほしいと申されますので、
「モチロンそこは伏せますよ」と応えました。

ところが、番組のホームページを見ましたら、
「桐朋学園・演劇科で共に役者の道を目指した同級生たちの波乱万丈人生…」って、
載っちゃってるじゃありませんか。 

そこで、こうしてブログで告知させていただいているワケであります。


こうして、
高畑淳子さんが同級生たちと再会できましたのも、わたしの力ではなく、
亡き恩師のご高配だろうなぁ・・・と思っています。


沖縄と末次一郎

2018年06月23日 18:00

沖縄慰霊の日に

【末次一郎氏が死去/沖縄返還民間運動に尽力】
沖縄の日本復帰運動に取り組み、復帰後も本土と沖縄の橋渡し役として県内関係者と深い関係を築いてきた末次一郎氏(すえつぐ・いちろう=安全保障問題研究会代表)が11日午後10時38分、肝不全のため東京都港区の病院で死去した。78歳。
佐賀県出身。自宅は東京都世田谷区砧二ノ二ノ17ノ101。関係団体による合同葬儀・告別式は30日午後1時から東京都港区南青山二ノ33ノ20、青山葬儀所で。葬儀委員長は中曽根康弘元首相。喪主は妻清子(きよこ)さん。
戦後、引き揚げの促進や戦犯の家族の支援に取り組んだほか、青年海外協力隊創設に尽くした。沖縄返還で民間運動の中心的役割を果たす一方、安全保障問題研究会を主宰。1973(昭和48)年以来、「日ロ(旧日ソ)専門家会議」を19回にわたり開催するなど北方領土返還運動に取り組み、ロシアとの民間外交に努めた。中曽根元首相らの助言者としても知られる。
復帰前から、県内小中学生「豆記者」の本土訪問活動などにも尽力。県内政界にも深い影響力を持ち、沖縄の諸問題に関する政府首脳や宮内庁のアドバイザーとしても知られていた。【琉球新報2001年7月13日】



1956年(昭和31年)の12月10日の朝、
四国徳島の山間の勝浦町には小雪が舞っていたのだそうですが、
父方の祖父が母をリヤカーに乗せて町の病院に駆け込みました。
そして、わたしが産まれたのでした。

その日、
父は或る人から、初めての手紙を受け取りました。

その或る人というのが、末次一郎さんです。

末次一郎さんは、
安岡正篤師の教えを学ぶ同志としての父に手紙を送られたのでした。

末次さんも父も、
敗戦に因って荒廃焦土と化した国土と混乱してしまった人心を憂い、
戦後の悲惨な生活を強いられている弱い立場の人々を救うことを、
戦争を戦った自分たちの責任だと捉えていました。

そして、
平和な日本を再建することを“戦後処理”という言葉で表わしました。


その父は末次さんから、
「沖縄返還後の産業振興のために沖縄農業の実態調査をしてほしい」
という依頼を請け、当時アメリカだった復帰前の沖縄に渡ったことがありました。

それは、弟が産まれようとしていた1962年(昭和37年)の1月のことでした。

3歳の妹は臨月の母と共に家に残され、手がかかる5歳の私は父に同行し、
沖縄に向かう途中で父の実家が在る徳島の勝浦町の祖父母に預けられました。

そのとき父の行った調査がどのようなもので、どう役立ったのか判りませんが、
末次さんは、沖縄が返還される10年も前から復帰後の準備をなさっていたのでした。


我が家からほど近い早稲田のお寺の墓所に末次一郎さんのお墓は在ります。
きょうは、お墓参りに行ってきました。

去年10月に父が亡くなった報告をして、
そして、末次さんの墓前で沖縄の戦没者の慰霊をしてきました。



ダミアン神父と修道女マリアンヌ

2018年06月05日 18:12

ダミアン神父の左手
<ダミアン神父像の左手に手を添える>

カメハメハ5世政権による、
ハンセン病罹患者のカラウパパでの強制隔離が始まってから7年が経った1873年、
ベルギーからの伝道師・ダミアン神父が、モロカイ島カラワオに上陸しました。


18世紀の後半以降、
ハワイの先住民は西欧人との接触によって多くの伝染病に罹りましたが、
ハンセン病もそのひとつで、最初の患者が1840年に記録されています。

1865年1月ハワイ王国第5代国王・カメハメハ五世は、
ハンセン病罹患者の終生隔離法を制定し、モロカイ島カラウパパに移住させました。

当初は、「隔離」というより「棄民」のような状態で、
患者たちは、ほとんど手当を受けることもなく生活手段もない状態で放置され、
病気だけではなく飢えや孤独とも闘わなければならなかったのです。

聖ダミアン

さて、そんな患者たちを救済しようと、
ベルギー出身の宣教師・ダミアン神父ハンセン病患者たちの救済に生涯を捧げ、
自らもハンセン病に罹患して1889年に命を落としたのでした。

しかし、
カラカウア5世の招聘により日本の漢方医・後藤昌直がハワイに渡航し、
ダミアン神父の治療も行うと、神父の病状は一時的に快方に向かったといいます。

ダミアン神父後藤昌直医師を信頼し、
「私は欧米の医師を全く信用していない。後藤医師に治療して貰いたい」
そう言ったといいます。

しかし、
西欧医学が東洋医学に及ばないことを認めないアメリカと西洋医学者たちによって、
後藤昌直の漢方医学によるハンセン氏病治療が受け容れられることはなく、
ダミアン神父は亡くなったと謂われております。

聖マリアンヌ

そのダミアン神父を介護・看護し、ハンセン病患者のために生涯をささげたたのが、
1888年にカラウパパに着任した修道女マザー・マリアンヌでした。

ちなみに、
1888年というのは、わたしの母方の祖父が生まれた年で、明治21年のことです。

後に、
ローマカトリック教会は、ダミアン神父修道女マザー・マリアンヌを聖人としました。


ところで、
カラウパパに送られた人々の約90%はハワイの人々でしたが、
中国や日本、ポルトガル、フィリピンの出身者もいたのだそうです。

ちなみに、1924年の収容者485人の内、
ハワイ人366人、フィリピン人25人、日本人32人という記録があります。

ことしは、日本人のハワイ移住150周年という年にあたります。


カラウパパ

2018年06月04日 23:37

モロカイ島カラウパパ

きのうはモロカイ島の話題でしたが、きょうもモロカイ島の話題をもう一つ。


長くハワイに住んでいる日本人でも、
モロカイ島に行ったことがないという人は意外に多くいるものです。

そのモロカイ島の「カラウパパ」という場所をご存知でしょうか?


写真を撮ったのは、
眼下に目が醒めるような絶景が広がる「カラウパパ・ルックアウト」。
つまりカラウパパをルックアウト(展望)する場所から撮った写真ですが、
カラウパパはその美しい風景とは対照的な悲惨な歴史を辿った場所です。

カラウパパは、
モロカイ島の中央部北端に在る崖の麓に広がる舌の形をした半島です。

カラウパパの断崖の高低差は1,000mもあり、世界一なのだそうです。

つまり、
半島に“入る”には、この断崖のつづら折りの道を下りなければなりませんが、
半島から“出る”にも、この断崖を登らなければならなかったワケであります。
しかし、その出入口は厳重に管理された関所になっていたのです。

カラウパパは、
ハンセン病罹患者を強制移住させたハンセン病コロニーでした。


ハワイ王国第5代国王・カメハメハ五世が、
1865年1月にハンセン病罹患者の終生隔離法を制定しました。

そして、
1866年から1969年に終生隔離法が廃止されるまでの103年間、
約8,000人のハンセン病患者がカラウパパに送られて隔離されたのでした。

しかし、
当初は、「隔離」といえばまだ聞こえがよい「棄民」のような状態でした。

患者たちは、
ほとんど手当を受けることもなく、生活手段もない状態で放置されたのだそうです。
患者たちは、病気だけではなく飢えや孤独とも闘わなければならなかったのです。

さて、そんな患者たちを救済しようとした人たちの話題は、
長くなりますから、また明日にいたしましょう。


それにしても、
カラウパパの美しい景色と「砂の器」の冬の風景が重なるというのも意外です。




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