「まあいいか」

2017年11月16日 17:00

大竹しのぶ「まあいいか」「わたし、還暦?」

母校の演劇科で、
彼女は、かみさんの一期後輩なので、
知り合って41年が経ちました。

結婚も出産も、再婚も同じようにして、
同じように子育てしながら、介護もしながら、
仕事をつづけました。

同じ学校に子供を通わせたことも、
同じように子供を留学させたことも、
同じエステでバッタリ遇ったこともありました。

共通の恩師や友を見送ったこともありました。

違うのは、
彼女は、日本を代表する女優になったことと、
かみさんは、亭主に我慢していることくらいです。

まっ、いいか。



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一年前

2017年11月06日 18:00

恩師二人と

ちょうど一年前のきょう11月6日、
母校の、すべての学部合同の同窓会が開催されました。

むぅむぅ(義父)には、ショートステイに行ってもらいまして、
久しぶりに、二次会→三次会と痛飲したのでした。

それにしても、
この写真は、僅か一年前のことなのかと愕然としてしまいます。

恩師と

この一年の間に、
むぅむぅ(義父)が亡くなり、この写真に写る恩師も亡くなりました。

同窓生と

しかし、わたしが愕然としているのは、
今より8キロ程度は太っていたであろう、自身の身体のことですが・・・。 

猿田の社叢

2017年10月27日 17:38

猿田の杜

先日行った、
“夫婦でぶらり途中下車の旅”のエピソードです。

猿田神社の「拝殿」と「本殿」の在る境内から参道に出ると看板に、
左手方向の坂の上方を指して「奥宮」と「元宮」と書かれています。

「本殿」以外に在る
「奥宮」や「元宮」とはどういうところなのかと坂を登ってゆくと、
「奥宮」の鳥居があって「御神砂・御神水」が授けて頂けるとあります。

更に登ると、右手に猿田神社の駐車場が在りますが、
その先左手に「元宮」の鳥居と小さなお社が在りました。

社

「元宮」という割には、見たところ真新しいお社や灯籠で、
鳥居には、平成24年に建立されたと記されていました。

しかし、
お社の周りの鬱蒼と茂った叢林の樹々の木洩れ陽が、
独特な雰囲気を醸しています。

叢林

さて、
わたしたちが、お社に参拝を済ませ、立ち去ろうとすると、
お社の裏側から「ご苦労さまです!」と声が掛かりました。

振り返りますと、竹ぼうきを持った初老の男性が出てきました。

一人で奉仕作業をなさっていたご様子でしたが、
問わず語りに此処「元宮」のご説明を話し始められたのでした。

出逢い

なんでも、
4・5年前のことだそうですが、男性がこの叢林の一角に、
“光の柱”が立っているのを発見したのだそうです。

それがやがて、
其処が“猿田彦大神御降臨之地”だということになって、
社が建てられ、鳥居や灯籠が建立されたのだそうです。

つまり「元宮」というのは、
猿田神社の御祭神・猿田彦大神が降臨した場所なのです。

猿田神社が創建された紀元前5年から4・5年前の出来事まで、
なんと幅広い所縁なのかと驚きましたが、それにしましても、
男性とわたしたちの、この出逢いはいったいなんなのでしょうか?

紫色に光る社叢の木洩れ陽の間を、爽やかな風が吹いていました。

猿田彦大神御降臨之地



東洋倫理概論

2017年10月08日 20:53

東洋倫理概論

実家の父の書棚から持ってきました。

安岡正篤著「東洋倫理概論」

15歳で予科練に志願し、16歳で兵長となって終戦を迎え、
無力感と敗戦の責任を痛感していた父にとって、
一燈照隅の如く、「いかに生くべきか」を訓えられた一冊。

故郷で、生き残った若者たちを集めて創った勉強会。
その仲間の寄付で東京の神田に探しにきた本が、この一冊。
焼き尽くされた東京の街と、地下通路に横たわる真っ黒な人々。
独りで生きている孤児たちの姿を目の当たりにした父でした。

父が友人の下宿を訪ねた折に、
父は、その家の主人の書棚にあったこの本を見つけました。
それがキッカケとなって話すうちに、その家の主人に見込まれ、
その家の娘と恋愛の末に結婚しました。

つまりは、
わたしが誕生するキッカケともなった一冊なのであります。

1949年(昭和24年)当時、
安岡正篤先生は公職追放の身であらましたが、
父は、安岡先生の日本農士学校の門を叩きました。

そのとき、父は安岡正篤先生の庵を夜中に一人訪ね、
直接「いかに生くべきか」と問うたことがあったのだそうです。

師曰く、
「君の人生のストーリーは、君自身で創ってゆくものだ。
従って、これから君の人生一日一日、一歩一歩を深くよく考えて歩いてゆきなさい。
将来、君が晩年に至ったときに、数十年間、考え、考え歩いてきた
その過去を振り返ってみて、そこに遺された自分の足跡が、君が今私に質問した
“人生如何に生きるべきか”の君自身が出した答えなのだ。
尚、道を踏み間違う事がないように、常に懐に本を持っていて参考にすることだよ」

父が生涯懐に持っていた本が、この一冊です。


2017年10月03日 06:01

父

1929年(昭和4年)、

生まれた途端に世界大恐慌が起こり、

貧しさと飢餓と戦争の子供時代を過ごし、

生きてこの橋を戻ることはないのだと思い
故郷を去って15歳で予科練に志願入隊し、

終戦後、
生きて戻ったことの後ろめたさに苦しみ、
生きる意味に葛藤した末に師と巡り合い開眼し、

己の人生を“戦後処理”と位置づけ、

“平和と豊かさの象徴”である“みかん”を作るために、
妻と子と共に開拓農民となって農家を興し産地を創りました。


戦場の土となり砂と化し海の藻屑となって屍さえ行方知らずの同胞や、
内地の空襲で骨さえ焼かれて遺らなかった同時代人の多くいたなかで、

生き残って戦後の復興を達成させ、高度成長の豊かさを享受して、
子に影響を及ぼし、孫や曾孫に慕われて、手厚い介護や看護を受けながら、
柔らかなベットの上で死ねた父の人生は、豊かで幸せなものだったのだと、
思います。


父・日下敏雄、
2017年10月2日午前9時54分、
17年前に母が逝った聖隷三方原病院にて、安らかに死去いたしました。
満88歳でした。

ここに、生前の皆様からのご厚誼を深謝しつつ、謹んでお知らせいたします。





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