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日本一のマスクメロン

2018年10月09日 23:59

西原メロン

高校時代の親友の一人Nが、自身が作ったマスクメロンを贈ってくれました。

さて、
日本一高い山といえば富士山ですが、富士山はむかしからわたしの身近に在りました。

わたしにとっては同様に、
日本一の温州みかんを作った人が父でしたし、日本一歌舞伎好きな息子を持ちました。

ことほど左様に、
日本一という存在は、存外身近にあるものです。

Nのマスクメロンは、東京の大田市場に出荷された箱にNの印がついていると、
そのまま別室に運ばれて、特別な仲買人しか競り落とせない品になるのだそうです。

したがって、
Nのマスクメロンは、高級フルーツ店やデパートの棚であっても、滅多に飾られることはありません。
金額に糸目をつけないバイヤーがまとめて買ってしまうからです。

さて、
その友人・Nですが、わたしの同級生ですから、ことし62歳になりました。

後継者はいません。

娘も息子もいますが、後を継がせませんでした。

N自身とNの妻の並々ならぬ労を考えると、後継者をつくらなかった理由は想像できます。

ですから、
いよいよをもって、貴重な日本一・・・つまりは世界一のマスクメロンなのであります。




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「三角寛・三浦大四郎と文芸坐」

2018年08月31日 23:59

或るむかしからの知人の依頼でしたが、
或る異業種交流会のようなお集まりでお話させていただく機会を得ました。

但し、ある程度参加者が固定化している会なのだそうで、
わたしが知り合いに告知して誘うことはできませんでした。


ところで、わたしも2001年から2011年まで、
FTNという異業種交流会を主催していたことがあります。

参加し始めた途端に、
前任者から代表を交代してくれないかと頼まれた会でした。

毎月、講師を一人頼んでその方のお話を聴くという
ただそれだけをつづけていた交流会でした。

「誰でも講師」という考え方で、
市井の方のお仕事やご趣味や体験談を聴くというコンセプト。

よくあるご職業でも、
知っているようでも知らないお話を聴くのは興味深いことでした。

ところが、
2011年3月11日の大震災から様々な出来事が起こりました。

それ以来、その会をつづけていることの意味を考えてしまって、
その後、半年くらいつづけたのですが、休会してしまいました。


さて、
きょうお話させていただいた場所は神保町の或る喫茶店。

集まってくださった方たちに話したテーマは
三角寛三浦大四郎文芸坐

わたしの義理の祖父と義理の父と、
21年前に閉館した名画座と呼ばれた映画館の話です。

とても2時間程度では話し切れない内容でありましたが・・・。


菅井きんという女優

2018年08月24日 11:41

「生きる」菅井きん

菅井きんさんは、ご自分の芸名がお嫌いだったそうです。

インタビューで、「生まれ変わっても、また女優をなさいますか?」と訊かれ、
「やりませんよ」とお応えになっていました。

もしかしたら、
ご自分ではご自分の俳優としての価値をご存知なかったのでしょうか?


わたしは、
菅井きんという俳優の存在を黒澤明監督の「生きる」で記憶しました。

なんせ、
18歳のとき、仕事が終わってからほぼ一週間毎日「テアトル新宿」という映画館に
生きる」を観に行きましたからね。


菅井きんさんは、「生きる」以外にも黒澤明監督作品に出演されました。
悪い奴ほどよく眠る」や「天国と地獄」、「赤ひげ」、「どですかでん」などです。

菅井きん「生きる」

あえて、
印象的だった菅井きんさんの黒澤作品を挙げるなら、わたしは「生きる」と「赤ひげ」を挙げます。

黒澤明という映画監督は、
ダイナミズム、社会派、娯楽大作、歴史ものなど、様々な切り口を持った監督ですが、
わたしは、黒澤明の本質はヒューマニズムだと思っています。

その意味で、
人間の生き方を問う「生きる」と、人間らしさや人間とはなにかを描いた「赤ひげ」は、
或る意味で、黒澤明監督の代表作だと思っているワケです。

その二作で、
主人公ではありませんが、“人間”を演じる菅井きんさんの存在は必須のものでした。

原節子さんや高峰秀子さんが演じる役ではなかったでしょうが、
北林谷栄千石規子笠置シズ子飯田蝶子浪花千栄子、「赤ひげ」で言えば、
杉村春子七尾伶子野村昭子といった名優たちが演じてきた譜系の役でした。

その意味で、紛れもなく菅井きんという女優はレジェンドの名優の一人でありました。

でも、
菅井きんさんが亡くなられたと聞いて真っ先に想い出したのは映画「お葬式」でしたケドね。


ご冥福を祈ります。 合掌



戦争の地獄の景色

2018年08月21日 10:34

病院の庭

1時12分に呼吸停止。
1時18分には心臓が停止しました。

1時45分に医師の死亡診断があり、
2時30分から医師の経過説明を聴き、
その後、ご遺体は病院を出発して、
5時30分には葬儀会場に安置されました。

去年のきょう、未明のことでした。


光生軒のおばさんは、
1945年3月10日未明、上越線の峠の上で停車した列車の窓から、
東京が燃えている明るい空を見たことがあったのだそうです。

それは、所謂東京大空襲の夜のことでした。

おばさんは、当時15歳でした。
家族と共に祖母の葬儀のために秋田へ行って帰京するところでした。

祖母が亡くならなければ、家族は東京にいて空襲に遭ったでしょうから、
家族は祖母に助けられたようなものです。

上野駅によく汽車が着けたものですが、家族は上野駅に降り立ちました。

上野駅から浅草を通って隅田川を吾妻橋から本所へ渡り、
延々と家に向かって歩いたのだそうです。

上野や浅草の街は、
あらゆる建物が焼けて、街中に焼死体が累々と折り重なって倒れ、
隅田川には水を求めて亡くなった人々が筏のように浮いていたそうです。

15歳の少女が見た、戦争の地獄の景色です。


さて、
去年の8月21日の朝7時過ぎに帰宅したわたしは、
夜、「桜の森の満開の下(さくらのもりのまんかいのした)」という芝居を観に、
歌舞伎座へ参りました。

その芝居の原作者・坂口安吾は、
戦争中であっても満開に咲いた上野の森の桜の花の散るなか、
累々と積み重ねられたご遺体が焼かれていく様子を原風景として書いています。

東京大空襲に遭い、
重ねて焼かれた人々と生き残った15歳の少女との差はどれほどだったでしょう?

そんな少女たちも、次第にいなくなってしまいます。



吉野家の伝説の人

2018年08月19日 13:51

吉野家の牛丼

かつて“ミスター牛丼”と呼ばれた元・吉野家ホールディングス会長の安部修仁さんが師と仰ぐ
“伝説の二人”について語った記事があります。

「吉野家のDNAを作り上げた伝説の2人の凄み」という記事です。

安部さんが語る“伝説の二人”というのは、吉野家の創業者・松田瑞穂氏と、
1980年に吉野家が破産したときの管財人で弁護士の増岡章三さんのことです。

そう、吉野家は倒産したことがあるのです。

そのとき、
倒産した吉野家更生管財人を引き受け再生させたのが増岡章三さんですが、
経営者と増岡さんの出会いと吉野家の再生は“奇跡の出逢いと再生”と謂われました。

増岡さんとむぅむぅ
<若いころの増岡さん(左)とむぅむぅ(右)>

その、
増岡章三さんは、むぅむぅ(義父)の親友でした。

きょうは、
その増岡章三さんの三回忌のご命日です。

2年前、
増岡章三さんが亡くなられたときには、歩いてお宅にお参りしたむぅむぅでしたが、
その約1年後の去年6月、むぅむぅも親友の後を追うように往ってしまいました。

むぅむぅ(義父)も吉野家の牛丼が好物でした。
わたしと映画を観に行った帰りには、必ず吉野家に立ち寄って牛丼を食べました。

今頃はあの世で再会して、
きょうは増岡さんのおご命日ですから、二人で牛丼を食べているかもしれません。
「オレ、生玉子つけてね」なんて云ってね・・・。


というワケで、わたしも牛丼を食べて増岡さんとむぅむぅを偲びました。




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