母の八十八の誕生日

2017年04月04日 10:55

4月4日

昭和4年(1929年)に、わたしの父も母も生まれましたが、
きょう4月4日は、母の88歳の誕生日であります。

昭和4年という年は、
アメリカに端を発した世界恐慌の影響で、アメリカ向けの輸出が激減したことから、
生糸の値が大暴落し、翌年の米の大凶作と相まって農業恐慌が起こった年でした。

失業者が増え、飢餓や農家の子女の身売りに象徴されるような経済的背景のなか、
昭和6年には、関東軍の謀略による柳条湖事件をキッカケとした満州事変が勃発し、
昭和7年には、所謂血盟団事件五・一五事件が起きました。

昭和8年には、満州からの撤退勧告を受け、日本は国際連盟を脱退します。

昭和11年には、
皇道派の青年将校による二・二六事件が起き、軍部の暴走が顕著になりました。
昭和12年には、盧溝橋事件が起き、日中戦争支那事変)へと拡大しました。

そして、
昭和13年、全国民を一致団結させるための国家総動員法が成立しました。

昭和16年には、
思想弾圧の必要から春に治安維持法が制定され、年末には太平洋戦争が始まりました。

戦争は、数百万人と謂われる人々が死に、日本中が焦土となるまで続いたのでした。
それは「教育勅語」と「軍人勅諭」を心得とした日本人のメンタリティーの成せる業でした。

これが、わたしたちの父や母が生まれ育った時代でした。


きょうは、わたしの母の88歳の誕生日です。
母は、よい時代に生まれなかったかもしれませんが、よい季節に生まれたとは思います。

今年もまた桜を愛でながら、死んだ母の齢を数えております。



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みんな会

2017年03月07日 23:59

タケちゃん

タケちゃんは、きょうで66歳になりました。

きょうは、
タケちゃんの誕生会である恒例の「みんな会」が催されました。


タケちゃんは、
隅田川で産湯を使い、荒川で顔を洗って育ちましたが、
1992年4月17日、お母さんに死に水を取ってもらって逝きました。

その翌年から、
命日に偲ぶより、タケちゃんの誕生日に集まって、
お母さんを囲みながら、みんな一緒に齢をとろうやということになり、
誕生日が3月7日だから「みんな会」だと、わたしが名付けました。

みんな会に集まってくるのは、
幼馴染みや中学・高校の友人たち、演劇科の先輩後輩や芝居仲間たちです。

このみんな会のメンバーの中から、これまでに3人もタケちゃんの処に逝きました。
仲間が逝くたびに、タケちゃんのお母さんを悲しませています。

「今頃、あっちで卓を囲んでいるかもしれないなぁ」
などと冗談を言ってはいますが、淋しい限りです。

タケちゃんが亡くなったとき30代・40代だったみんな会のメンバーも、
ほとんどの人が還暦を過ぎました。

寄る年波には抗うことができず、病気の話題が増えました。

病気の話、介護の話は、
「おまえもかい?」、「俺もだよ」、「うちもだよ」、「みんなかい?」

2017年みんな会



3年B組

2017年02月11日 22:34

麁玉中学校

この写真は、
わたしの母校・麁玉中学校の現在の写真です。

この“麁玉”の“麁”という字は「鹿(しか)」という字ではありません。
麁玉中学校は、「あらたまちゅうがっこう」と読みます。

“麁玉”というのは、
「まだ磨かれていない玉」という意味もあるのですが、
天竜川も旧くは「麁玉河」と表記された記録があり、
現在の浜松市浜北区の北部地域の古い地名です。

ですから、
わたしは、麁玉小学校麁玉中学校に通いました。

その麁玉中学校3年B組の同窓会に行ってきました。

3年B組は、
中学2年・3年とクラス替えがなかったので同じ担任の先生で同じクラスメートです。

当然ですが、みんな去年・今年で還暦を迎えたワケで、還暦同窓会というワケです。


お互いの記憶の断片を集めて並べるような時間でした。

60年間のこれまでの人生の中の、たった3年間でしたが、
中学時代は、楽しい時間だったんだなと思いました。

懐かしい友人たちにも逢えましたが、
中学生だったころの自分に逢えたような気がしました。



田中明夫さんと泉三太郎

2017年01月19日 23:59

<忘備録として>

きょうは、
俳優・田中明夫さんの御命日です。

いまから14年前の2003年1月19日の日曜日14時30分に、
肝不全により、神奈川県横須賀市の病院で亡くなりました。

1926年(大正15年)9月21日生まれでいらしたから、76歳でした。

田中明夫さんとむぅむぅ(義父)は親友と云ってもよい間柄でした。
「あき坊」、「大ちゃん」と呼び合っておりました。

田中明夫さんが劇団四季の劇団員だった当時は、
むぅむぅは、劇団四季を熱心に応援していたと聞いています。

田中明夫さんが亡くなる前日の1月18日、
むぅむぅは、横須賀市民病院に入院した田中さんを見舞いました。
わたしも車を運転して同行しました。

入浴中に意識が無くなったという田中さんは、
ベットの上に横たわって、目は閉じたままでしたが、
それが、むぅむぅと田中さんとの今生のお別れでした。

葬儀・告別式は、
1月24日の金曜日、14時から神奈川県川崎市高津区の光明寺で行われました。

また、しのぶ会は、
3月8日の土曜日、14時から新宿区南元町の千日谷会堂で行われました。

そのときに喪主を務められた奥様・智津子さんも既に鬼籍に入っておられます。


さて、
その田中明夫さんが亡くなる9日前の1月10日、むぅむぅの兄(伯父)が亡くなりました。

むぅむぅの兄・山下三郎は、ロシア文学者で翻訳家で出版社の経営者でもありました。
泉三太郎の名で、アルブーゾフの戯曲「イルクーツク物語」や「私のかわいそうなマラート
などを翻訳したりして、アルブーゾフをはじめとしたロシア文学を日本に紹介した人です。

この伯父(むぅむぅにとっては兄)も、
生まれたのは田中明夫さんと同じ1926年で、亡くなったのも同じ2003年の1月です。

お二人とも、
大正(1年間)、昭和(64年間)、平成(15年間) という激動の時代を生きた76年間のご生涯でした。

いま生きていらしたら、今年の誕生日に90歳(卒寿)を迎えるはずでした。


三度目の成人

2017年01月09日 18:11

いまから40年前の1977年1月15日は、「成人の日」でした。

現在の「成人の日」は、1月の第二月曜日ですが、
1999年までは、毎年1月15日が「成人の日」でした。

「成人の日」には、各市町村主催で「成人式」が催されます。

42年前から東京に住民票を移して暮らしていたわたしは、
成人式の案内状が、わたしのアパートに届いたのか、
故郷の実家に届いていたのか、まったく覚えがありません。

いずれにせよ、
成人を祝ったり、成人式に出席する意思はありませんでした。

たぶんその日も、
当時のアルバイト先であった、塗装資材を製造する工場で、
学資を貯めるために、いつものように働いていたと思います。

高校を卒業してから覚えた酒と煙草も、
成人になったからといって、特別な味がしたというワケもなく、
普段と変わらない一日を送ったという記憶があります。

成人の日は、
その人間を育てた人たちにとっては、感慨深い特別のものでしょう。

しかし、
人間、二十歳になったことは通過点でしかありません。

わたしは、六十歳になりましたが、
最初の二十年間に考えたことや、身につけたことや、覚えたことを、
試しながら生きてきたような気がしています。

上手くいったこともあれば、失敗したこともありますが、
すべては、最初の二十年間に培ったことの実践です。

でも、
人は三倍生きたからといって、三倍立派なワケじゃありません。


<三度目の成人の日に>




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