祖父母の写真

2017年09月18日 23:59

祖父母

わたしは、実家に帰ると床の間の在る座敷で寝ています。

床の間には、叔母が描いた掛け軸がかかっています。
叔母は、父の妹です。

横のちがい棚には、父方の祖父母の写真が置いてありました。

手札ほどの同じ写真が仏壇にありますが、
父がそれを引き伸ばし額に入れたのだろうと思われます。


その額の写真をデジカメで撮って、病床の父に見せました。

「ようけ働いたなぁ・・・」
写真を見るなり、父がそう呟きました。

「ようけ働いた」
両親の写真を見て、まず思ったことなのでしょう。
父が「よく働いた」と思うのですから、余程働いたのだと思います。

祖父は、曾祖父と共に、山を開墾してみかん園を造った人です。

里から歩いて1時間以上はかかる急勾配の山を登った場所に、
山の岩から40センチ角の石を切り出して、それを運んで積み上げ、
石垣にし、段々畑を造り、1ヘクタール程にみかんの樹を植えました。
重機の無い時代、人の力だけで造ったみかん園でした。

それは、
曾祖父と祖父、親子二代の事業でした。
米や野菜を作り、炭焼きをして家計を賄いながら、開墾したのです。
大正から昭和にかけて、それは山里の農民にとって夢の事業でした。

曾祖父と祖父のみかん園は、やがてみかんの実を生らせました。
当時、みかんは貴重な果物でしたから、高く売れたのだそうです。
それを見た村人たちが次々に真似をして、みかん生産地が出来ました。

祖父は、朝早く大きな荷物を背負って山の畑に出掛けてゆきます。
一日仕事をして戻るときに空荷だったことはなかったといいます。
薪をいっぱい背負って山から下りてきたといいます。

祖父の背中はいつも凝っていて、
父が子供の頃、よく祖父に背中に乗ってくれと頼まれたのだそうです。

戦後、開拓農民となった父のみかん園の事業は大成功を収めました。

その父にとって、
祖父や曾祖父の仕事は、生涯をかけて超えようとした目標だったのでしょう。


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「最後のストライク」

2017年09月14日 23:59

「最後のストライク」

広島カープ、きょう自力でマジック 1!


さて、
父の病床の傍らで、「最後のストライク」を読みました。

最後のストライク」は、
“炎のストッパー”と形容され、“弱気は最大の敵”という座右の銘でも有名な、
広島カープのピッチャー、故・津田恒美(恒実)選手の奥さまが書かれた本です。


うちのかみさんは、
自他ともに認める、津田恒美選手のファンでした。

むすこたちも、その影響を受けて育ちました。

先日、歌舞伎俳優である長男が、
光栄にも広島市民球場で国歌斉唱と始球式をやらせていただいた折り、
試合後に津田夫人である津田晃代さんをお見掛けしたのだそうです。

球団の方に、
「あそこにいらっしゃる方は、津田投手の奥さまじゃありませんか?」と訊くと、
「よく判りませんから、お声をかけてみられたらいかがですか?」と促され、
そのとき着ていた津田投手のTシャツを見せながら声をかけたのでした。

すると、
やはりその方は、津田投手の奥さま津田晃代さんだったのです。

広島市民球場で、
国歌斉唱、始球式、逆転サヨナラホームラン、
そして、憧れの津田恒美投手の奥さまにも遇えて、
むすこにとっても、かみさんにとっても、奇跡のような一日でした。


最後のストライク」を読み終えて、
病床の父の顔を見ますと、穏やかな顔をして眠っていました。

その88歳の姿は、
24年前、2年3カ月の壮絶な闘病の末に32歳という若さで亡くなった、
津田恒美投手とは比べくもない、落ち着きと静けさをもっています。

後悔のない、納得した人生なのでしょう。


ことしは、いつ我が家でビールかけ?

2017年09月10日 15:27

自宅でビールかけ

去年の9月10日は、
広島カープが25年ぶりのリーグ優勝を決めた日であります。

広島東洋カープは、
戦後の球団の成り立ちから云っても独特でありました。
その歴史に共感する人も多いのではないかと思います。

そして、共に2008年にチームを離れ、
メジャーに移籍した黒田博樹投手、阪神に移籍した新井貴浩内野手が、
2015年、共に広島に復帰したことと、その二人の活躍。
同じ2015年に監督に就任した緒方孝市監督の指導力によるチーム力。

その緒方監督が胴上げで7回宙に舞った後で発した一言!
「広島の皆さん、そして全国のカープファンの皆さん、
本当に長い間、お待たせ致しました。おめでとうございまーす!」

マウンドで号泣しながら抱き合う黒田と新井と、二人を囲む選手たち。
いずれ感動的な要素ですが、それらが重なったことが奇跡的でありました。

“奇跡”と言ったら、
広島の選手たちに失礼ですが、ことしは我が家にとっても奇跡的なことが起こりました。

ことしは、球団から歌舞伎俳優である息子が、広島カープを応援するお役のご指名を受け、
広島市民球場で国家斉唱と始球式を務めた日の試合では逆転サヨナラホームランが放たれ、
かみさんと息子の尊敬する永遠の伝説のピッチャー津田恒美投手の奥さまと出逢えたこと、
そしてなにより、いま試合中ですが、現在8連勝中でマジック6が点灯していることです。

ところで、
ことしの優勝は、そして我が家の風呂場でのビールかけは、いつなのでしょう?

写真は、
喜びを爆発させている、風呂場での親子のビールかけなのでありました。


父の手

2017年09月07日 13:59

わたしの母が亡くなったのは2000年の2月でしたが、
その年の夏、父に肺ガンが見つかり切除手術を受けました。

手術は成功しましたが、
手術室から出てきた医師が切除された肺を見せてくれました。

ガンに侵されて変色した肺でしたが、
この肺がいっぱい酸素を吸って力仕事をしてくれたのだと、
愛おしく思った記憶があります。


さて、
昨日、妹がFacebookに記事を載せました。
勝手に転載します。

「父の手を握りながら、ああこの手で大きくしてもらったんだなぁと、しみじみ思った日でした。
入院中の父は、朝からウトウトしてばかりで、目を覚ますと痛みに顔をしかめたり、トンチンカンなことを口にしていましたが、夕方は少し落ち着いて楽になった時間がありました。
すっきりした顔つきになって、子どもの頃からずっと死が身近かだったと突然ポツリポツリと話し始めました。
子どもの頃には、疫痢が流行って死ぬ子が何人もあった。その後は戦争があり、田舎の町で初めて戦地に見送った人は、新婚の人だったのに白木の箱で帰ってきた。まだ若い奥さんが泣いて泣いてするので、みんなも泣いたと。
その後、父は志願して予科練に行きました。後しばらく戦争が続いていたら、父も特攻隊として散り、もちろん私も生まれなかったでしょう。
私が、もう二度とそんな時代にならないように戦争したらいけないね。平和な世の中にしてもらったお陰で、こうして私たちは豊かな生活をさせてもらえているんだね。と話したら、うんうんと頷いていました。
父、88歳。ずっとあの戦争を背負い、父なりのやり方で日本の戦後処理に生きた人生でした。」

父の手




Tクンの七回忌

2017年09月03日 13:00

七回忌

今朝早く起きて、青梅まで行ってきました。

きょうは、
6年前に、告知後僅か2か月半で亡くなったTクンの命日で、
ことしは七回忌にあたります。


ところで、
昨日、浜松へ日帰りで父の見舞いに行って帰った途端に、
青井陽治さん(演出家・翻訳家)の訃報を受け取りました。

わたしたち夫婦は、むかしから親しくしていただきましたし、
わたしが制作担当した演劇制作体地人会公演の、
ジョセフィン 虹を夢みて」という戯曲を書いていただきました。

まだお若かったですし、ご病気だと知らなかったのでショックです。
そのご病気ですが、すい臓ガンだったのだそうです。

実は、
Tクンも、告知されたのは末期のすい臓ガンでした。

すい臓は、
体内の奥深くにあり、ガンの初期症状に乏しく、発見が困難だと謂われます。
ガンの症状が現れた時点では既に進行してしまっている場合が多いようです。


Tクンが亡くなったのは、大震災と原発事故が起こったあの年でした。
人々が、世の無常を切に感じた年でもありました。

あれから6年。
Tクンの時は止まってしまいましたが、生きているといろいろあります。
しかし、これが人生というものでしょう。

きょうは、後ろ向きなのではなくて、“振り返って”みました。

そして、見上げればイワシ雲。





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