牛丼

2017年07月21日 16:59

牛丼

久しぶりに、牛丼を食べました。


去年は、
むぅむぅ(義父)と映画館に行った帰り、
必ずいっしょに此処の牛丼を食べました。

むぅむぅは、
いつも、牛丼と生たまごを注文しました。

わたしも、食事するのは速いほうですが、
むぅむぅも、ほぼ同時に食べ終わるのでした。


ところで、
牛丼店といえば、いまから40年近く前に、
この牛丼のチェーン店を運営する会社は、
一度、倒産したことがあります。

そして、むぅむぅの親友で、
我が家の顧問弁護士を務めてくださっていた
M岡さんが亡くなったのは昨夏のことでしたが、
その倒産した牛丼の会社の更生管財人を引き受け、
その会社を再生させたのがM岡さんだったのです。

当時、経営者たちと管財人M岡さんの出合いは、
“奇跡の出逢いと再生”と謂われたのでした。


今頃は、
あの世で、二人して牛丼を注文しているかしら?
「オレ、生たまごつけてね」なんてね・・・。

ありきたりな想像をしてしまいました。




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生き証人

2017年07月18日 17:24

日野原重明さんのご冥福を祈ります。


いつかは、“この日”を迎えるものですね。
日野原重明さんも人間ですから。

しかし、
「医者の不養生」という言葉がありますが、
ご健康でご長命だったことは称賛に値するでしょう。

日野原重明さんのご子息の奥さまとは、
コーチ仲間として、昔いっしょに活動したことがあります。

そのとき、お嫁さんから見たお義父さんの生活ぶりを、
伺ったことがありますが、大変に興味深いものでした。


それにしても、
日野原重明という人には、医療・健康分野だけでなく、
わたしたちは、多くのことを教えられ、学びました。

戦中・戦後の体験、
なかでも東京大空襲の教訓から得た病院施設への投資。

その結果が、
不幸にも地下鉄サリン事件で発揮されたことは有名です。

わたしたちは、
また一人、戦争の生き証人を失ったのです。

戦後70年 私の中の戦争 ~著名人たちの“8月15日”~
私の中の戦争 医師 日野原重明さん ~救えなかった命への誓い~




ポツダム会談

2017年07月17日 18:15



深夜、
ケーブルテレビのチャンネルで、「日本のいちばん長い日」を観ました。
半藤一利原作、原田眞人監督作品です。

役所広司さんが、阿南惟幾陸軍大臣を、
本木雅弘さんが、昭和天皇を、
山崎努さんが、鈴木貫太郎首相を演じ、
先日亡くなられた中嶋しゅうさんが、東条英機元首相を演じています。


72年前の7月17日。

1945年7月17日から8月2日の間、
イタリアとドイツが降伏して以降、連合国側の戦後処理構想を話し合う会談が、
アメリカのトルーマン大統領・イギリスのチャーチル首相・ソ連のスターリン書記長
という三者(途中で首相を辞任したチャーチルに代わってアトリー首相が後に参加)によって、
ベルリン郊外のポツダムで行われたのでした。

会談は、ドイツの戦後処理についてと、
日本に対する“無条件降伏勧告”と“戦後処理方針”について話し合われました。

そして、この会談期間中の7月26日、
日本に対して、無条件降伏の勧告である「ポツダム宣言」が出されたのでした。

さて、
その7月26日から8月15日までの間の20日間、
日本は、「ポツダム宣言受諾して和平」か「戦争継続して本土決戦」か、
軍人が、政治家が、日本人が、御聖断と国体護持、そしてクーデターの狭間で苦悩した、
日本で一番長い二十日間であったかもしれません。


ところで、1945年7月17日、ポツダム会談の初日、
トルーマンチャーチルの下に、或るメモが届けられました。

メモには、アメリカが原子爆弾の実験に成功させたと書いてありました。
チャーチルトルーマンは、これで日本を降伏させられると確信したそうです。




千田先生の誕生日に

2017年07月15日 04:44

7月15日は、
恩師・千田是也先生のお誕生日であります。

生きていらしたら、ことしで113歳。
その先生が19歳のときに、関東大震災が起こりました。

千田是也(せんだこれや)、本名伊藤圀夫。
ホントは、(せんだこれなり)だそうですが、(せんだこれや)が定着しています。

関東大震災のあとの混乱の最中、
千駄ヶ谷で朝鮮人に間違われて殺されそうになった経験があり、
千駄ヶ谷でコレアンの意味から千田是也と名付けたというのが定説です。

でも、
これは笑い話ではありません。
当時、自警団、自称自警団などによって殺された多くの朝鮮の人たちや、
朝鮮人と間違われて殺された日本人が何十人もいたのだそうです。

千田先生は、自戒をこめて、
自分は被害者ではなく、加害者だったかもしれないとおっしゃっています。


最近、
わたしが、高校1年生のときに、もしこの人の芝居を観なかったら、
確実に、わたしはいま此処に居ないという、俳優・米倉斉加年さんが、
1979年、モランボンのコマーシャルに出演したときの逸話を知りました。

いまでは信じられないことですが、
当時、モランボンのコマーシャルは、何度となく放送局から拒否され、
朝鮮企業のコマーシャルに出演してくれる俳優を探すのも困難でした。

その米倉さんが、朝鮮風の衣裳を着てコマーシャルに出演すると、
その後、メディアやテレビの仕事が全く無くなったのだそうです。

そして、
その影響は、米倉さんのお子さんにも及んだといいます。

学校で「チョーセンジン」と言って虐められたお子さんが、
「ねぇお父さん、私は朝鮮人なの?」と尋ねたのだそうです。
その時、米倉さんは「そうだ、朝鮮人だ、朝鮮人で何が悪い?」
と言ったといいます。

それは、
クレージーキャッツ植木等さんの父親・植木徹誠さんが、
「自分は部落民ではないと思うことが、すでに部落差別なんだ」
と言ったというエピソードをも思い起こさせます。

そんな人たちと同じように、人道に基づいて活動をしている、
共に千田是也の弟子である友人が本を出版するというので、
早速予約注文しました。

「夢のあとさき 帰郷祈願碑とわたし」
「夢のあとさき 帰郷祈願碑とわたし」



「海の沸点」と「谷間の女たち」

2017年07月07日 15:00

「海の沸点」と「谷間の女たち」


わたしが、制作を担当した数々の作品・公演の中で、
印象に残っている二つの作品があります。

いろいろな意味で、制作過程が困難であった作品だからです。
もっとも、制作過程が簡単な作品もありませんが。


一つは、
沖縄の歴史と、現在までつづく基地問題と差別を描いた「海の沸点
坂手洋二作、栗山民也演出です。

もう一つは、
軍事政権下、弾圧されて暮らすチリの山村の人々を描いた「谷間の女たち
アリエル・ドーフマン作、木村光一演出でした。

海の沸点」は、1997年7月に新宿の紀伊國屋ホールで上演しました。
谷間の女たち」は、1999年7月に隅田川左岸に在ったベニサン・ピットで上演しました。
どちらも、7月の蒸し暑い時季の稽古と公演だったことを覚えています。

海の沸点」は沖縄の読谷村
谷間の女たち」はチリの山村。

いずれも、
その土地に生きる生々しく活々とした人々を描かなくてはなりません。

その土地の根っからの人々、根付いた人。
その存在感無しに、その土地と人々を描くことは出来ないのでした。

そんな条件の基、演出家は製作者と相談の上キャスティングします。

この二作品とも、
東京公演だけの短い上演期間でしたが、大いに話題になりました。

キャスティングが功を奏したことは言うまでもありませんが、
なかでも、中嶋しゅうという俳優の存在は大きかったと思っています。


急逝された中嶋しゅうさんのご冥福を祈りますとともに、
中嶋しゅうさんのご家族と関係各位にお悔やみ申し上げます。





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