死すときの記録

2015年10月29日 23:59

むかし、演劇科の学生時代のことでしたが、
狂言の授業を、井上靖さんと学長・生江義男先生が、
中国の、日本でいう文化庁長官一行を案内して観にいらしたことがありました。

井上靖(やすし)さんと、井上ひさしさんを間違えている輩もおりましたが、
重々しく狂言の授業が始まりました。

舞を披露する段になって、
舞を担当する学生が、静々と稽古場の中央に進み出ました。

扇を構え、立ち上がろうとした途端でした。
その男は、“お見事!”と叫びたくなるくらい鮮やかに転んだのでした。

ご一行を迎えるために、長い時間正座をしてお待ちしていたために、
足が痺れていたのでした。

しかし、
それがキッカケとなって、ご一行も井上靖さんも、生江先生も爆笑し、
その後、和やかな雰囲気で授業は進行したのでした。

あとで聴いたところでは、
その中国の“文化庁長官”は、所謂“笑わぬ殿下”で有名な方だったのだそうです。


さて、
そんな視察が実現したのも、生江義男学長と井上靖さんが、
所謂シルクロードの歴史研究者だったことからでした。

井上靖さんの小説「敦煌」は有名です。

その井上靖さんは、
古今東西の歴史を調べてみると、文明や王国の成立や繁栄を記した、
記録や資料はあるものの、衰退したり消滅した記録や資料は、
見つからないものだという主旨のことをおっしゃっています。

その一例が敦煌です。

そしてまた、
一人の人間の記録も同じで、
誕生した記録や成長した記録、生きているときの記録は存在しても、
死すときの記録は、曖昧なものになってしまうものだとおっしゃっています。

たとえ、遺書が存在しても、その遺書そのものが正確さを欠くのだといいます。


さて、
生きた証とは、死を描いてこそ正確なものと云えるのだとしたら、
わたしは、出来得る限り、わたしの死を正確に遺したいと思います。

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誕生日

2013年12月10日 23:59

クリスマスツリー

この世に生をうけたことを、感謝します。

産んでくれた母に、生んでくれた父に、

ともに暮らした弟妹に、そして彼らの連れ合いに、

育んでくれた祖父母に、見守ってくれた祖父母に、

世話になった伯父・伯母に、

愛情を注いでくれた叔父・叔母に、

慕ってくれる甥っこや姪っこに、従姉妹たち、従兄弟たちに、

気のおけない友人たちに、

影響を与えてくださった師や、先達たちに、

出逢った二人の息子に、

みきちゃんに、みきちゃんに連なる人々に、

孫娘に、

これから出逢う、未来の人たちに、

そして、かみさんに、

感謝しています。

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道案内

2013年08月27日 19:22

硫黄島

拝啓 

Tクン、ご無沙汰しています。

あれから2年が経ちました。
ことしは、君の三回忌ですね。

早いものです。

一週間後の命日には、
君のお墓に行くつもりです。

誘ったら、何人か君の友だちが同行してくれるそうですよ。
女性ばっかりですワ・・。

しかし、
歌の文句じゃないけれど、
君が、あの墓の下で眠っているとは思っていません。

少し猫背になりながら首をすくめて、
Gパンのポケットに両手をつっこんで、
いまだに、この浮世をブラついているような気がしています。

もし、そうでなかったとしたら、
君は、まだ“あの島”に居るのでしょう。

むかし、熾烈を極めた戦があって、
敵も味方も激戦の末に何万人もの兵士が死んだ、
“あの島”のすり鉢山の上から、
360度見渡せる太平洋の水平線を、静かに見ているような気がします。

2年経つ間には、亡くなった友もいます。
あらたな病を得た友もいます。大きな手術をした友もいます。
まだ、みんな必死の思いで生きております。

生きていればこそ、いろいろな思いをいたします。

いつになるか判りませんが、わたしもいずれ“ヒマ”になりましたら、
君といっしょに、
“あの島”の、すり鉢山に登って、水平線を見たいと思っています。

そのときは、道案内をよろしく頼みます。

辺見じゅんさんが遺した遺書

2011年09月22日 18:29

辺見じゅん著

台風15号が、その猛威を振るいながら日本列島を通過していった昨日、
辺見じゅんさんが、ご自宅で亡くなったのだそうです。

辺見じゅんさんは、戦後の優れたノンフィクション作家のお一人でした。
男たちの大和」「収容所から来た遺書」などといった、
戦争と戦後のノンフィクションを遺されましたが、これは、貴重な日本人の記録です。

男たちの大和
昭和16年極秘裏に誕生した戦艦大和
太平洋戦争末期、戦況が悪化した昭和20年4月6日、
戦艦大和は3,333名の男たちを乗せて、沖縄への特攻に出撃しました。
翌日、昭和20年4月7日14時23分、
戦艦大和は、米軍機動部隊の猛攻撃を受け坊ノ岬沖で撃沈されました。
「男たちの大和」は、東シナ海に沈んだ戦艦大和の最期と、
生存者、ご遺族の戦後を丁寧に取材し描いた戦後ノンフィクションの金字塔です。

収容所(ラーゲリ)から来た遺書
この作品については、以前に何度か書きましたが、
シベリアに抑留された方たちの体験と、戦後の日本人に対するメッセージが
まるで映像を見るように克明に描かれた、少々大袈裟に云えば国宝級の一冊です。

わたしは、1992年の「収容所から来た遺書」の舞台化に際して、制作を担いました。
そのときに、辺見じゅんさんに初めてお目にかかりました。
作品は、骨太なイメージをもって読ませていただいておりましたので、
静かに上品にお話になる辺見さんに、意外な印象をもったのを憶えています。


辺見じゅんさんは、昨日ご自宅で倒れていらしたのを発見されたということですが、
ご自身は、遺書を遺されたのでしょうか?

しかし、辺見じゅんさんの取材によって、
戦争に因って翻弄された人々、亡くなった多くの人々の体験や想いが掬われて、
文学となって遺されたことの意義は大きいと、思います。

これらの作品は、辺見じゅんという作家が生涯をかけて取材し遺された、
日本人たちの遺書でしょう。




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最長のブログ

2011年09月08日 23:59

きょうは、朝から孫娘が通う保育園の「祖父母のお楽しみ会」がありましたので、
かみさんと参加してきました。

0歳児・1歳児・2歳児に分かれて、次々に歌やお遊戯を見せてくれました。
孫娘は4月に生後10ヶ月で入園しましたので、0歳児のチームにいましたが、
 ムスッとして、他人事のような顔をして周りの人たちを見回しておりました。

仲間の子たちの中にいる孫娘を、長い時間見るのは初めてのことでしたので、
同世代の中で発揮される個性を、垣間見たような気がいたしました。

午後は、クライアント候補者との面談がありました。
数日後に海外に赴任される方でしたが、コーチングのセッションをご希望です。

このように、わたしも日常生活に戻ったワケですが、
Tクンが亡くなったことをなかなか整理できず、受け容れられないでおります。

その意味で、
Tクンの希望とは別に、わたしの心の整理をするためにも、
きょうのブログで、彼の晩年をまとめたいと思っておりますので、お付き合いください。


唐突ですが、Tクンには、3回の結婚歴と3回の離婚歴があります。
1回目の結婚では子どもはなく、2回目の結婚で男の子と女の子を授かりました。
3回目の結婚で相手が連れていた女の子と自身が連れていた子たちを含め、
子ども3人の家庭生活から、後に生まれた男の子2人と女の子が加わった、計6人の父になりました。
しかし、その3回目の結婚もやがて困難になってしまったようでした。
つまり、亡くなった時点でTクンは、独身だったというワケです。

さて、以前に登場したMというのは、書いてあるように1回目の結婚相手です。
わたしとTクンの学生時代の同期で、現在北海道に住んでおります。

彼女とTクンは、4年間つき合って、2年間の結婚生活を経て離婚に至りました。
その頃Tクンは、千葉の浦安で釣り船の船頭をやって生計をたてておりました。
しかし、離婚によってそれも辞め、Mは故郷の北海道に帰ってゆきました。

わたしは、彼らの結婚披露宴の司会をやりましたが、
離婚した状況や、その後の様子については、よく知りません。

さて、北海道に戻ったMも、その後女の子を一人産みました。
現在中学3年生で受験を控えているのだそうです。
Mに夫はいません。

さて、このTクンとM、この二人が、わたしのブログで、再会しました。

2009年の2月から初めた、このブログですが、
当初からそう決めていたワケではありませんのに、毎日書いてつづいております。
そのブログを始めたころ、知り合いという知り合いにそれを報せました。
その中にMも入っていましたし、Tクンにも電話をもらった時に伝えたのだと思います。

こうして、図らずもいろいろな人たちが読み始めたブログですが、
そのうちに、なにかをキッカケにしてコメントが届き始めました。
匿名だったり名前の一部だったりしますが、わたしには、相手が誰か大体判ります。
その中に、TクンもMも参加していたのでした。
勿論、お互いに相手が誰か判っていたことでしょう。

こうして、元夫婦がわたしのブログで再会したというワケです。


さて、2009年春のTクンの重大な決断というのは、
硫黄島へ行って働くということでした。

多分、子どもたちへの養育費の問題があったであろうと想像できます。
2・3ヶ月に一度程度の休暇しかない島での生活に多かれ少なかれ不安もあったと思いますが、
お金を稼いでまとめて残すには、絶好の仕事だったでしょう。

こうして、2009年5月21日、海上自衛隊の航空隊基地から輸送機で、
Tクンは、東京から南に約1,250キロ離れた硫黄島に飛び立ったのです。

それから、ひと月後の夜、Tクンから電話がありました。
「硫黄島からの電話」でありました。
そのときに、今度再会するときまでに硫黄島の写真を撮ってくれると約束してくれました。

そして、その年の7月22日、
日本中で46年振りの皆既日食が観たいだの見えなかっただのと騒いていた最中、
Tクンは、硫黄島で皆既日食をハッキリ観て、その午後には東京に戻ってきました。
「皆既日食を観て、いま東京にいるレアな存在ね、オレ!」と自慢していました。

2009年8月2日、多分20年ぶり以上だったでしょう。
池袋東口の居酒屋で、休暇中のTクンと再会を果たしました。
彼は、ほとんど昔のまま変わらずに現れました。
そしてそのときに、約束してあった硫黄島の写真を貰って、ブログにアップしたのでした。

その年の12月16日、わたしが主催した忘年会に顔だけ出してくれました。
そのときに貰った硫黄島土産のクッキーは、珍しいので食べずに暫く我が家に飾りました。

翌年、2010年の3月、やはり休暇で帰ってきたTクンと、北海道から上京したMも交えて
同期の集まりを新宿の「千草」という店でやりました

その年の6月の休暇中には、わたしのかみさんと三人で飲みました
そのときの印象を、「あの二人に付き合って飲んでいたら、死んじゃうぞ」と
云っていたそうですが、わたしはTクンがうちのかみさんに、
「○○子さんに、叱ってもらおっかなぁ・・」と云っていたのを憶えています。
なにを叱ってもらおうとしたのでしょう?

さて、それから約1年後の今年6月17日の夜、あの電話がかかってきたのでした。
そして、その内容は翌日のブログに記しました。

そこから約2カ月半という時間でしたが、
入院をせず、抗がん剤の治療を行いながら、お姉さんの家に受け容れていただき
静かに闘病して過ごしておりました。

わたしのブログで再会を果たした、最初の妻とも毎日連絡を取り合い、
三番目の妻や子どもたちとも逢って、以前できなかった話もしていると云っておりました。

お姉さんご夫婦は、全てを受け容れて献身しておられました。

そして8月29日、通院したところ、体調が思わしくなかったため、
経過観察するための入院ということで、入院したのです。
その翌日、岩手県大槌町にいたわたしのところにメールが届いたことは、すでに書きました

そして、入院してから5日後の9月3日の朝7時55分、Tクンは彼岸に旅立ったのでした。

霊安室から斎場に向かうとき、
Tクンのお姉さんと19歳のご長女とわたしが、付き添っておりましたが、
Tクンを担当した病院のスタッフの皆さんが一列に並んで全員で見送ってくださいました。
その中心にいた担当医の先生に、お礼を申し上げました。
彼は、「彼女は向かっていらっしゃるんですか?」とわたしに訊ねました。
「いま、羽田に着いたころだと思います」とわたしは応えました。

彼女というのは、北海道のMです。
そして、担当医の先生と云うのは、実はMの高校時代の同級生で、
Mの元・彼氏だったのです。

まったく、そのことが判ったときには驚きました。
そんな小説みたいなことがあるのですね?しかし、そんな小説を書いたら、
有り得ない設定だと云って読者に馬鹿にされるだろうと、Tクンと笑ったものでした。
しかし、小説より奇なる奇跡的な偶然が起こったのでした。

同じ奇跡が起こるなら、病気に対して起こってほしかったと思います。


さて、多分これまでで最長のブログになったと思います。
ここまで、お付き合いしてくださった皆さま、ありがとうございました。

これで、短かったTクンの人生を記した、一番長いブログを終わります。


このブログを、Tクンに捧げます。
礼は、いずれわたしが彼の地へ行ったときで構わないから、それまでの貸しです。







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