沖縄と末次一郎

2018年06月23日 18:00

沖縄慰霊の日に

【末次一郎氏が死去/沖縄返還民間運動に尽力】
沖縄の日本復帰運動に取り組み、復帰後も本土と沖縄の橋渡し役として県内関係者と深い関係を築いてきた末次一郎氏(すえつぐ・いちろう=安全保障問題研究会代表)が11日午後10時38分、肝不全のため東京都港区の病院で死去した。78歳。
佐賀県出身。自宅は東京都世田谷区砧二ノ二ノ17ノ101。関係団体による合同葬儀・告別式は30日午後1時から東京都港区南青山二ノ33ノ20、青山葬儀所で。葬儀委員長は中曽根康弘元首相。喪主は妻清子(きよこ)さん。
戦後、引き揚げの促進や戦犯の家族の支援に取り組んだほか、青年海外協力隊創設に尽くした。沖縄返還で民間運動の中心的役割を果たす一方、安全保障問題研究会を主宰。1973(昭和48)年以来、「日ロ(旧日ソ)専門家会議」を19回にわたり開催するなど北方領土返還運動に取り組み、ロシアとの民間外交に努めた。中曽根元首相らの助言者としても知られる。
復帰前から、県内小中学生「豆記者」の本土訪問活動などにも尽力。県内政界にも深い影響力を持ち、沖縄の諸問題に関する政府首脳や宮内庁のアドバイザーとしても知られていた。【琉球新報2001年7月13日】



1956年(昭和31年)の12月10日の朝、
四国徳島の山間の勝浦町には小雪が舞っていたのだそうですが、
父方の祖父が母をリヤカーに乗せて町の病院に駆け込みました。
そして、わたしが産まれたのでした。

その日、
父は或る人から、初めての手紙を受け取りました。

その或る人というのが、末次一郎さんです。

末次一郎さんは、
安岡正篤師の教えを学ぶ同志として、父に手紙を送られたのでした。

末次さんも父も、
敗戦に因って荒廃焦土と化した国土と混乱してしまった人心を憂い、
戦後の悲惨な生活を強いられている弱い立場の人々を救うことを、
戦争を戦った自分たちの責任だと捉えていました。

そして、
平和な日本を再建することを、“戦後処理”という言葉で表わしました。


その父が末次さんから、
「沖縄返還後の産業振興のために沖縄農業の実態調査をしてほしい」
という依頼を請け、当時アメリカであった復帰前の沖縄に渡ったのでした。

それは、弟が産まれようとしていた1962年(昭和37年)の1月のことでした。

3歳の妹は臨月の母と共に家に残され、手がかかる5歳の私は父に同行し、
沖縄に向かう途中で父の実家が在る徳島の勝浦町の祖父母に預けられました。

そのとき父の行った調査がどのようなもので、どう役立ったのか判りませんが、
末次さんは、沖縄が返還される10年も前から復帰後の準備をなさっていたのでした。


我が家からほど近い早稲田のお寺の墓所に末次一郎さんのお墓は在ります。
きょうは、お墓参りに行ってきました。

去年10月に父が亡くなった報告をして、
そして、末次さんの墓前で沖縄の戦没者の慰霊をしてきました。



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三浦家のオリジナル料理・ツナ

2018年06月22日 15:29

ツナ

家族が増えたので、
三浦家の料理のレパートリーの中から、きょうは一つだけ作ってみました。

まず、
ごく一般的なオイル漬けのツナ缶をフライパンに空け、醤油と酒とみりんで炒めます。

三浦家では、醤油が多めですが、お好みで。

焦げ付かないように、じっくり時間をかけてパラパラに乾くまで炒めます。

それを、ご飯に乗せて食べてもよいのですが、お茶漬けがお薦めです。


これは、かみさんのオリジナル料理なのですが、息子たちの大好物です。

長男などは、「母が創ったものの中での最高傑作だなぁ・・・」と申します。
・・・「最高傑作はボク!」って、言わないの?

ツナ炒め

むぅむぅを偲ぶ会

2018年06月21日 15:58

寛の庭

「雑司が谷 寛」は、
元々、かみさんの祖父である作家・三角寛の暮らした住宅でした。

その三浦家の住宅を少し手直しして、
懐石料理の店「雑司が谷 寛」をオープンさせたのは30年ほど前のことです。

初代の女将は母でしたが、実際の女将はかみさんが担っていました。
母が亡くなってからは、名実ともにかみさんが女将になりましたが、
現在は、「株式会社女将塾」が経営をしています。

偲ぶ会

その家に、
一人娘だった母と結婚したむぅむぅ(義父)は婿入りしたのでした。

「雑司が谷 寛」の部屋は、一部屋ずつ壁の色が違っています。
壁は、漆(うるし)で色を塗っていますが、すべて三角寛とむぅむぅが塗った壁です。

赤・緑・オレンジ・・・、
三角寛から命令されて、厭々塗ったのだとむぅむぅは云っていました。


さて、きょうは6月21日、むぅむぅ(義父)の命日です。

「雑司が谷 寛」で、
家族をはじめとした身近な人だけでむぅむぅを偲ぶ会をやりました。

去年の今頃は、まだ生きてたのになぁ・・・などと思いながら。

むぅむぅの偲ぶ会


一年前の日常

2018年06月20日 17:59

介護看護日誌


「静かな呼吸 室温25℃ 湿度60%」

これは、去年の6月20日未明、
2時15分に記した介護・看護日誌ですが、見るとかみさんの字です。

3時30分には、わたしが記しています。

「声を出している 室温25℃ 湿度62% 血中酸素量95 脈拍100」
そして、吸引をしたなどと記しています。

朝、
6時30分 室温25℃ 湿度64% 酸素量98 脈拍98

7時00分 体温36℃ 口腔ケア 吸引 換気  上腕のスリ傷にアズノール軟膏塗布

7時55分 室温24℃ 湿度70% 酸素量91 脈拍88~135
声かけしても目を閉じていたが、口腔ケア中に目を覚ますと酸素量98 脈拍97

8時10分 ヘルパーさん来宅 尿が少なめ

8時30分 吸引

10時40分 訪問看護師来宅 体温36℃ 脈拍80 血圧102/72 酸素量96 

13時10分 室温23℃ 湿度76% 室温を上げる

17時00分 ヘルパーさん来宅 尿の量普通 体位交換 
わたしが吸引 顔にクリーム塗布

19時50分 吸引 姉が父の顔を見に来宅

20時30分 口腔ケア 冷房を入れる 

22時30分 ヘルパーさん来宅 酸素量98 脈拍99

22時40分 就寝 室内の明かりを消す

23時55分 かみさんが、父が目を開けているので声をかけました。


これが、
一年前の我が家の日常でした。

しかし、
その日常も、翌21日には突然終わってしまいました。

あれから一年・・・。


きょうは、
去年までむぅむぅ(義父)が使っていた部屋に、
息子(次男)の嫁が引っ越してきました。

我が家の家族が“二人”増えました。

引っ越し



謝罪

2018年06月19日 18:26

或るテレビ局の、或る番組の、或る特集で、
わたしたちが経営するメロンパンの店を紹介したいという依頼があったのは、
メロンパン店をオープンしたての4月上旬のことでした。

店の紹介にもなるし、話題にもなることから快くお受けしたのでしたが、
撮影日と言っていた日の予定が変わったという連絡をもらってから、
音沙汰がなくなり、問い合わせをすると「レポーターが病気になったので」
そんな説明を受けました。

しかし、
あまりにも連絡がないことから、わたしは勝手に諦めていたのでしたが、
かみさんが、番組のホームページにメールで問い合わせをしたところ、
局の番組プロデューサーから即電話をいただきました。

収録日の予定が変わったのではなく、採り上げる商店街を変えたこと。
レポーターは病気ではなく、制作担当者が勝手に嘘をついていたというのです。

懐石料理屋の取材でも、いい加減な取材や編集をされたりしたことはありますが、
「嘘をついた」と告白されたのは初めてのことです。

早速、きょう局の番組のプロデューサーと、下請けの制作会社のプロデューサーと、
件の担当者が揃って我が家に謝罪に訪れました。

しかし、
上司からこっ酷く叱られたであろう制作担当者をもはや責めるつもりはありません。

それよりも、いい加減がまかり通っていると思われがちなテレビ番組の制作現場で、
人として当たり前のことが最も大事だということを若い制作担当者が学んでくれたら、
嬉しいことです。

こうして、
ちゃんと、誠心誠意謝罪しようとする人たちを責める気にはならないのですよ、×さん。


石澤秀二、田中千禾夫を語る

2018年06月18日 23:59

一日一話と決めている此のブログですが、
きょう朝7時58分頃発生した大阪の地震で被災された皆様にお見舞いを申し上げると共に、
亡くなられた方のご冥福を祈りつつ、ご家族にお悔やみを申し上げます。


さて、
本日の話題は、成城大学で行われた恩師・石澤秀二先生の講和を聴きに行ったことです。

石澤秀二先生は、昭和5年のお生まれですから今年88歳の米寿を迎えられました。
その石澤先生が恩師と慕う、田中千禾夫先生のことを話されるというので、
どうしてもお話が伺いたくて行ってきました。

石澤先生はお若い頃、田中千禾夫先生宅の書生でした。
・田中澄田中千禾夫田中澄江ご夫妻は、石澤秀二石澤富子ご夫妻の御仲人でもあります。


ところで、
わたしは演劇科の学生時代に4回、田中千禾夫先生演出で芝居を演りました。
4年間でも田中千禾夫先生の演出4回というのは、かなり確立の高いことであります。

田中千禾夫作「三ちゃんと梨枝死に水を下から取った話
別役実作「赤い鳥の居る風景
飯沢匡作「二人で嘘を
田中千禾夫作「右往左往

しかし、
何度演出を受けても、田中千禾夫という人の意図が掴めきれなかった想い出がありました。

田中千禾夫の戯曲や、田中千禾夫の評伝を読んでも、よく解らなかったのであります。

未だに“解った”と言えるほど腑に落ちてはいないのでありますが、
帰路、石澤秀二先生とお茶をしたときに「田中千禾夫にとっての実存主義」という質問をして、
それについて応えていただいたことが、きょうの最大の収穫でした。

「千禾夫先生は、晩年になって洗礼を受けるまで生涯葛藤されていたんだよ、
でも最期には神を信じたんだ。でなければ自殺するしかないだろ?」

父の日

2018年06月17日 13:36

父の日のプレゼント


ことしは、
「父の日」に、二人の父がいない。


でも、

ことしは、
「父の日」のプレゼントをもらった。

「これからも健康に気をつけて、お元気でいらして下さい」

そう書いてある手紙ももらった。

唯一、わたしを「お父さん」と呼んでくれる娘から・・・。

父の日の手紙



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